浮世絵学01/落款(そがい)1969写楽(しゃらく)実ハ俳人・谷素外_2021谷 素外(1734-1823)/著作・年表 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/11052
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1982-04-29現在(2023-08-20更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) Copy and Handmade reproduction 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,322項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。
 
 
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★★★谷 素外(1734-1823)は、談林の宗匠。俳諧師。冩樂、実ハ俳人・谷素外(酒井藤吉・説) 

これまで、谷素外(そがい)について俳諧、浮世絵、その他、殆ど紹介されることは無かった。

酒井藤吉は、日本浮世絵博物館所蔵の素外・還暦の肖像画と冩樂の扇面の老人画があまりに似ているので、いろいろと調べ始めた。すると、俳諧と浮世絵が、見事に重なったいることに気が付いた。

1969.10.16『”写楽”実は俳人”谷素外”』(『読売新聞』昭和44年10月16日号)

 

三重県・津市 石水博物館

 

〇歌川豊國(割書)寛政、享和、文化、文政中歿ス。 *人形師を業とする人の男

[1907市島謙吉/燕石十種2-217b。國書刊行会]

[1979森・野間・朝倉/燕石十種3-304b。中央公論社]

俗稱 熊吉  居 始芝三島町、芳町、堀江町、上槙町川岸油座住ス。

號 一陽齋 江戸芝三島町ノ産也

人形師ヲ業トスル人ノ男

 始め豊春の門人なり。後、英一蝶の畫風を學び狩野家の筆意を旨とす。浮世繪は玉山、九徳齋が畫法を慕ひ、一家の筆法をなす。豊廣と一時、行る。當世の風俗を寫す事に妙を得たり。豊國の畫の始めての板元は神明前問屋、和泉屋市兵衛也[泉市]と云。役者、切畫也。美人繪并役者似顔、此人より行る。中興の祖と云べし。草双紙、合巻、讀本、錦畫、數百部、世にもてはやせり。一流の畫風を以て江戸に雷名す。門人夥し。文政中、歿す。年五十三。

 一陽齋豊國       (割書)實子・直次郎(割書)不學畫、板木師

(割書)二代目・一龍齋豊國(割書)俗稱 豊國養子トナル。本郷春木町ニ住ス。初名國[欠] 歌川豊重ト改ム。

 初代豊國門弟

 國政(割書)俗稱別記ニユヅル

 (割書)一翁齋・國満(割書)俗稱熊藏カワラケ町、ヒモノ町、芝口二丁目、田所町、錦繪、双紙有

 國長(割書)俗稱別記ニユヅル

 國丸(割書)俗稱別記ニユヅル

 (割書)一齋・國次(割書)俗稱幸藏、銀座四丁目、錦畫、草双紙アリ

 國安(割書)俗稱別記ニユヅル

 國貞(割書)俗稱別記ニユヅル

 國直(割書)俗稱別記ニユヅル

 國信(割書)俗稱 作者志満山人ト云。畫作ノ草双紙多シ。

 國芳(割書)俗稱別記ニユヅル

 國周(割書)俗稱 繪アリ、早世

 國虎(割書)俗稱粂藏、草双紙、錦畫アリ、多ク出ス。

 國宗(割書)國長門人、俗稱  錦繪二、三種アリ

 國照(割書)俗稱惣右衛門、錦畫二、三種アリ

 國房(割書)俗稱  錦畫二、三種アリ、ヨミ本モアリ

 國登女(割書)俗稱  錦畫アリ

 二代目豊國門弟

 國富(割書)錦畫アリ

 國兼(割書)錦畫、双紙有、二、三種ニスギス

 國景

 國誌

 此餘多しといへども板下畫、不出者略之。

 一陽齋筆畫本彩色摺

 畫手本ニ・年玉筆 役者・合鏡 同・此手柏

 似顔獨稽古 役者・三階興

 時世姿

 此人の傳多しと云へども爰に略す。別記に出す。文化、文政の間、此人の似顔畫、大いに行る。爰に於て豊國筆塚碑(柳島妙見境内ニアリ。門弟ヨリ建之、山東京山文并筆)

 或人曰、豊國畫ハ其骨法、豊廣に不及事遠し。畫法劣ルト云ヘドモ流俗ノ眼ヲヨロコバシムル。一妙ヲ得タリ。戯場、流行ノ時ニ逢シモノナリ。後年迄、春畫ハ不畫シガ、歿故二、三年前ヨリ數部ノ春畫ヲ出セリ。

 

 写楽画[花押] 扇面 老人図 *[花押]、書き判の文字? 

津市 石水美術館 この扇面が最初に公開された年月?


 

日本浮世絵博物館 (長野県松本市郊外)

 

扇面の老人図(反転)

 

1795.02(寛政6.02)素外・還暦の肖像

素外(1734-1823)

俳諧門下から、重政(1739-1820)、春章(1743-1792)、赤良(あから)( 1749-1823)、爲一(ゐいつ)(1760-1849)、政演(まさのぶ)(1761-1816)、政美(1764-1824) *赤良=大田南畝 ナンポ、政演=京傳(きょうでん)

2016谷素外/著作_編年順

2016谷素外/著作_五十音順

綾足(1719 – 1774) *門下であったが、素外は破門されたという。理由は不明(典拠不明)。

蒼孤 (1712~1766) *そうこ  小菅 ( こすげ )門下で、一陽井(いちようせい)素外と号した。蒼孤 は綾足より7つ年長

1766(明和3)、宗家7代を継ぐ

素外、歳旦集、歳旦帖を毎年、刊行している。これらを詳細に調べると、素外の俳諧門下生が明らかになる。

明和7、明和9あたりが最初の歳旦集、歳旦帖であろうか。恐らく安永期の歳旦集、歳旦帖が最重要視されるであろう。

幾つか、公開されているが、殆ど、見る機会がない。半紙横で、一人、一首づつ、五七五、七七が選ばれている。

歳旦は、和歌であって、俳諧ではないのであろうか。当初、二句かと思ったが、下の句は七七のようだ。

 父・酒井藤吉(初代日本浮世絵博物館館長)は、谷素外が写楽であると結論付けた。

つまり、A=B これが決め手になった。

A    谷素外の還暦(寛政六甲寅仲春)の肖像画(日本浮世絵博物館藏肉筆、長野県松本市郊外)がある。

B    冩樂画/扇面の老人図(人形師・豊國の浮世絵を顰め面して見ている)(公益財団法人 石水博物館、三重県津市)

 この両肖像ハ、全く同じようにみえる。

 みづから おのれが かたちに題して

 うつされて われにあふみの かがみやま くもらで老いの あからさまなる

又 目 二つに 魂 いれつ 月と華 

(雁註)この賛は、冩樂の浮世絵が目に特徴があることを示している。顔だけでなく、腕の動きにも連動して、非凡な技がある。

 落款はない。父は不思議に思ったが、長い間、解らなかった。そして、ある時、ふっと解けた。素外自身が描いた、自画讃ならば、無款でも問題はないという結論になった。

俳諧と浮世絵は全く別々と思っている方が多いが、早く宮武外骨さんは、その点を指摘していた。

俳書と素外、俳書と浮世絵の挿絵の関係に密接なものがある。

1762(寶暦12)勝間龍水(画)石寿観秀國(編)/海の幸 二巻二冊 

 *龍水(りゅうすい)は特異な画家で、他に作品を知らない

1765(明和2)勝間龍水(画)秀國(編)/山の幸 二巻二冊

1775(安永乙未4)平 章子*/算法少女 

*千葉桃三の娘 跋文は谷素外 和算   素外が大坂の知己であった因縁から跋文を依頼

1776(安永5)一音*(編)/左比志遠理  *いっとん、さびしおり 

「冩樂」投稿が二句。この俳名は、画号の冩樂と同一人である。何故なら、紛れ難い特殊な号だから。

 国書総目録で調べたが、私が見た書物と跋も違っていた。

 ボストンの板坂元先生に御遭いして、本書を撮影し、1978SAKAI Gankow/ukiyo-e-gaku (浮世絵学)に発表した。

 音師*をとゝむ  *一音(いっとん)のこと

 やとれきミ 嵐の道も 青葉ころ   冩樂  *(雁註)嵐の道、この意味が解らないが…

 小調市の たとへられけり 合歓花  冩樂

 この冩樂は俳名であるが、浮世絵師の冩樂と同一と考えられる。

 江戸・須原屋市兵衛 書肆 錢屋七郎兵衛 梅村宗五郎 橘屋治兵衛 井筒屋庄兵衛 板 

1780在原持麿/大通人好記*(安永九)中本 19.0x13.5cm  *塵劫記を模す *素外は直接、関連していない

*この安永期、和算(数学)の本が流行したか。

1794(寛政6) *還暦祝の肖像(実ハ、自画像)

[1794.05-1795.01(寛政6.05-寛政7.01)] 

[1849c烏有山人/京攝戯作者282b] 耳鳥齋(にちょうさい)…好んで俳優角觝の姿を畫くに、あらぬ様にうつせども、其情態をよく摸して、大に雅致あり

(雁註)耳鳥齋 (-1780-1803-)は、明和安永(1760s-1770s)の人。南畝は大坂で、このような表現、「あらぬ様にうつせども其情態をよく模して、大いに雅致あり。」を聞き及び、寛政の浮世絵類考で、写楽について、同様の記述を行った。

[1790s南畝/浮世絵類考・本文[1941]20-2]

[1941大曲駒村/浮世繪類考20-2]

    寫 樂     

 是また哥舞伎役者の似顔を寫せしが、あまりに眞を畫んとて あらぬさまに かきなせしかが、長く世に行はれず。一兩年にして止む。

三馬按、寫樂號東洲齋、江戸八丁堀ニ住ス。僅ニ半年餘行ハルゝノミ。

(雁註)「齋藤十郎兵衛」の名前は書かれていない。「阿波侯」云々も記録されていない。

[1908市島/續燕石十種282b]

○耳鳥齋

 大坂の産にて、明和安永年間の人、江戸堀に住せり。俗稱松や平兵衛、骨董舗を業とす。狂畫の達人にて、好んで俳優角觝の姿を畫くに、あらぬ様にうつせども、其情態をよく摸して、大に雅致あり。又滑稽の才ありて、戯作もなせり。義太夫のチャリ淨瑠理上手にて、松ウ平イと諸人稱して用ひしゆへ、淨瑠理の爲に、その畫名と滑稽の才名を覆はれしは最おしむべし。其朋友なる摩■(道の首を加)羅■(葬の死を合)幸録といふ人のものがたりなり。

浮世絵学04/外題(水や空)デジタル *影印で全頁掲載  1780耳鳥齋/水也空 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) http://www.ukiyo-e.co.jp/28549

1798(寛政10.05.01) *鯨塚素外の俳諧が刻まれている利田としだ神社、品川区)、品川沖で、体長九間一尺(約16.5メートル)、高さ六尺八寸(約2メートル)の鯨が現れ、品川の漁師たちが捕獲しました。この大鯨は江戸中の評判となり、11代将軍徳川家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧されたほどの大騒ぎとなりました。

・谷素外の俳句「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」が刻まれています。東京に現存する唯一の鯨碑です。

 鯨を供養する風習は日本全国がありますが、東京では利田神社だけです。

1802(享和2)政美(画)、素外(賛)/龍の宮津子 一冊

1810s−1820s観 嵩月/画師冠字類考(全8冊)*の記述により、享年五十歳。*神谷勝広氏発表

谷 素外 神杉や 千とせちかくも わかみどり 亀戸神社(東京江東区亀戸)

谷 素外 知るものは 月のみと 我 独笑み 養福寺(東京荒川区西日暮里)

(雁註)これは意味深長な句である。写楽は、素外であることを裏付けるものか。以前、父・藤吉と一緒に見に行った記憶がある。残念なことに、この句が作られた年月日は不明。

1823(文政6)素外没

 谷素外(1733~1823)は、江戸談林派の宗匠として活躍して、西山にしやま宗因そういん(1605~1682)に始まる談林俳諧の興隆に尽力しました。文化6年(1809)には慶養寺に素外の喜寿を記念した寿碑が建立されています(「谷素外寿碑」を参照)。
 文政六年(1823)2月、素外死去により同寺において葬儀がおこなわれ、本墓碑が建立されました。形状は六角柱で、上部は

緩やかに隆起しています。総高107.3センチメートル。現在の台石は後補です。
 文政六年(1823)4月には、寿碑の裏面に、素外の詳細な履歴が追刻されています。それによると、会葬者はおよそ千人に及んだということです。
 幕末から明治初期にかけて成立した山口豊山『夢跡集』によると、慶養寺にあった谷家の墓は、横長の台石の上段に素外の墓碑と妻幸の墓碑(父母も共用)がならび、下段中央に娘民(素塵そじん)の墓碑が置かれていました。また、谷家の墓とは別に、素外と同門の島   津富しま しんぷ(1731~1797)の墓もありました。各人の没年は次のとおりです。
  島 津富 寛政9年(1797)
  谷 幸 享和3年(1803)
  谷 素外 文政6年(1823)
  谷 民(素塵) 天保2年(1831)
 これらの墓碑の形状は、六角柱で統一されており、明治初期以前には、素外とその家族、同門の墓碑が、統一された意匠で整備されていたことが判明します。
 昭和15年に刊行された磯ヶ谷紫江『谷素外墓碑と慶養寺江湖院墓域』には、関東大震災前後の状況が記されています。震災前の旧墓地にあった谷家墓は「三基一列の墓域」であり、通路をはさんだ向かいには島津富墓がありました。震災後、昭和14年2月には、素外墓は同寺の特設墓地にありましたが、妻幸、娘民、島津富の墓碑は、廃墓石として別置されていたということです。
 本墓碑は現在、寿碑と並んで同寺境内に保存されており、素外を中心とした江戸談林派に関する貴重な歴史資料です。


谷素外墓碑(誹諧人谷子之墓) *谷子と彫られている。

慶養寺
平成27年3月登載

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1835菅原洞齋/画師姓名冠字類鈔(全13冊)との関連が注目される。

画師の生没など重要な記述が含まれている、一日も早くデジタルで公開されることを望んでいる。

春章が従来より十六歳、若いことが判明し、素外門下であることが立証された。

素外(1734-1823) *龍の宮津子(たつのみやつこ) 一陽井(いちようせい)

俳諧は素外、後、削除(改題本は、魚貝譜、魚貝略画式)。絵は鍬形蕙齋(政美)

(雁註)素外賛の俳諧入り初版本は、ベルリン国立図書館にある。

豊春 (1735-1814)(80)    *とよはる  歌川~ 一龍齋(いちりゅうさい)の齋号

重政(1739-1820) *花藍(からん)

春章(1743-1792)(50) *酉爾(ゆうじ) 旭朗井 *享年50歳と判明したので、生年が16年、後ろに移動。

盧朝(1748-1836)   *重政門下

赤良(1749-1823)(75)*あから  四方~   *大田南畝 ナンポ *重政は赤良に江戸玩具の江戸二色の解説を依頼している。

上方(かみがた)出身であれば、当然、下記の諸画譜を見て、学んでいたに違いない。

A  *1780(安永9)耳鳥齋(1751-1803)/繪本水や空(みずやそら) *にちょうさい 大坂の芝居通、戯画

*浮世絵学04/外題(水や空)デジタル *影印で全頁掲載  1780耳鳥齋/水也空 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) http://www.ukiyo-e.co.jp/28549

B  1782(天明2)翠釜亭(1750s-1780-)/翠釜亭戯画譜 *半身図が多い。流光齋は、本書からも影響を受けていたに違いない。

*翠釜亭戯画譜は、各図書館で、デジタル公開している。

C  1783(天明3)流光齋(1750s -1784-1805-/旦生言語備(やくしゃ ものいはひ) *如圭

*浮世絵学04/外題(旦生言語備 上下) 1783(天明3)流光齋[如圭]/やくしゃものいはひ 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/80364

  上方出身ならば、これらを見て、学び、咀嚼する体験があって、後に写楽が出現した。写楽は、その集大成と考えると解り易い。つまり、写楽は突然、出現したのでなく、その先駆け、前触れ、前兆の役者絵を大首、キラ摺りとして、展開したのである。

爲一(1760-1849) *爲一(ゐいつ)号は素外によって命名された

政演(1761-1816) *葎 後、戯作者・京傳として活躍。

政美(1764-1824) *蕙齋 *けいさい 

豊廣 (1765-1829)(65) *とよひろ   歌川~  一柳齋(いちりゅうさい)

豊國 (1769-1825)(57) *とよくに    歌川~     一陽齋(いちようさい)

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◯百回・鶴の足跡 西鶴についての俳書 *宗因が元祖、西鶴は二祖、

素外、津冨(しんぷ)、寶馬(ほうば)、左簾(されん)など。津冨は素外宅に同居していた。

春英が挿絵を描いている。春英は素外門下、俳諧の弟子であったか。春英は政演、政美と、ほぼ同年代。

序文に大向(おおむこう)など、歌舞伎の用語が出てきたので、ビックリした。

*俳諧師は余りに多く、生没年まで掴み難い。新撰俳諧年表が唯一の参考書。

1809(文化6年)、慶養寺に素外の喜寿を記念した寿碑が建立された。(「谷素外寿碑」を参照)。

 谷素外は、江戸時代中・後期に活躍した俳人です。享保18年(1733)大坂鰻谷うなぎだにの商家に生まれ、壮年のころ江戸に下り、神田お玉ヶ池に住居しました。俳諧は、初め涼袋りょうたい建部たけべ綾足あやたり)門でしたが、その後、江戸談林派の小菅こすげ蒼孤そうこ(1712~1766)について、一陽井いちようせい素外と号しました。師亡きあと、江戸談林七世を称し、西山にしやま宗因そういん(1605~1682)に始まる談林俳諧の興隆に尽力しました。中村仏庵・山本北山・沢田東江・加藤千蔭・柳亭種彦など、多くの江戸文人と交友があり、門弟には、大名や浮世絵師も名を列ねています。文化6年(1806)喜寿を迎えて、娘の素塵そじんを独立の点者てんじゃとして、自身は著述に没頭しました。文政6年(1823)2月8日没。91歳。

1809(文化6年)本寿碑は、素外の喜寿を記念して、娘の素塵をはじめとする門弟が慶養寺に建立したものです。総高145センチメートル。現在の台石は後補です。正面には、素外が素塵に与えた自筆により、「墨水四時」と題し、隅田川沿岸、待乳山・橋場・庵崎などの情景を詠んだ四句が刻まれています。側面には寿碑建立の由来を記し、発起人などの名があります。
    墨水四時
  春年々此辺花の都鳥 石山の
  夏おもはるれまつちやま
  ことゝはむ鳥もゐすはし場あしの
  花 興月に帰るや雪の庵崎を
       一陽井七十七翁素外
1823(文政6)2月、素外、死去により同寺において葬儀がおこなわれ、墓碑が建立されました。同年4月には、寿碑の裏面に、素外の詳細な履歴が追刻されています。
 素外一門は『梅翁宗因発句集』をはじめ、談林派の先人を顕彰する書物を多数出版するほか、各所に石碑を建立し、句額を奉納してきました。本寿碑もまた素外の事蹟を示すものであり、一連の書物・石碑・句額による談林派の顕彰の中に位置づけられます。素外の伝記に関する基本資料であるとともに、江戸談林派の活動を示す貴重な歴史資料です。


谷素外寿碑

 慶養寺 平成27年3月登載
1823(文政6年)2月、素外、死去

もっとも、新撰俳諧年表は複製が出ているが、ただのコピーで、五十音の索引もなく、生没年も一覧として作成されていない。誠に残念。春章、春英など、浮世絵師と同名の人物がいるが、無関係の別人。

*左簾の門下に巨川(こせん)。大小(だいしょう)の「工」夫を凝らした旗本・大久保甚四郎

*役者の俳名に巨撰(こせん)がいる。また小川町に住んでいたので、「こせん」。京都では「こかわ」。

当時、巨勢(こせ)、巨摩(こま)と読んでいる。大小は、月の「だいしょう」で、大小暦とは云わない。

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*日暮里・養福寺に素外の石碑がある。

知るものは 月のみと 我獨(われひとり)笑み 

 *知るものとは、何を意味しているのか。意味深長な句である。年月は不明。1794-1795(寛政6-7)頃か。

以前、父・藤吉と一緒に、日暮里・養福寺に詣でて、見た記憶がある。養福寺は、日暮里驛の西口で降りて、すぐ北にある。

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過日、出光美術館で勝川春章展を開催している。その掲載年表に多く、谷素外の歳旦帖が記録されている。

2016春章/勝川春章と肉筆美人画

何か御気付きの点があれば、御教示ねがいたい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator

浮世絵・酒井好古堂  [http://www.ukiyo-e.co.jp] [浮世絵学]文化藝術懇話会    浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678 



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