浮世絵学01/落款(若冲)じゃくちゅう_若冲/総目録 花鳥版画(6種)は大正期の創作 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]
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浮世絵学01/落款(若冲)じゃくちゅう_若冲/総目録 花鳥版画(6種)は大正期の創作 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]

2016-06-29現在

酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]

昨日(2016-5-02)、何とか若冲展を見ることが出来た。切符を買うのに1時間、入場するまで1時間。鑑賞に1時間。

◯若冲(1716-1800)を未だに「わかおき」と読む人がいるが、これは漢籍「老子」から採った画号で「ジャクチュウ」と読む。

◯2016図録を浮世絵学(1落款、2刊年、3判型形態、4外題、5版元、6内題、7出典)に沿って、入力した。

肉筆の場合、5版元は該当なし。1落款は最重要の項目、落款+印章(款印)を正確に記録する。

印章は模印、偽印があるので、その画像を比較し、基準印を確定する。

これが浮世絵学の肉筆の必須の方法である。

IMG_20160509_0002

◯編年順

2016若冲_編年順 落款+印章

*編年順に整理すると制作過程が判明する。特に印章は制作年月の決め手になる。もっとも模印もあるので要注意。

印章を拡大、比較して、基準印を把握することが、浮世絵学を初め、美術史の基本である。そして、同文の偽印、模印を排除する。

◯図録番号順

2016若冲_展示順

落款、印章を未だ厳密に入力していないが、ほぼ全容は把握できるはずである。

◯無款 *再検討を要する

2016若冲/東京都美術館_無款

図録で刊年が「江戸時代」というのは全く無意味である。鎌倉時代でないことは分かるが、もっと年代を絞り込まなければ意味がない。もっとも、疑問の作品も多い。今後の研究で落款および印章を徹底的に比較検証する必要がある。

特に墨画の作品は要注意である。ここでは特定はしないが、若冲のDNAが自ずから否定する作品は再検討が不可欠。

落款、印章があっても、飛び込み、模印があり、飽くまでも作品本意で真偽を判断することが肝要である。

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◯1730s恐らく沈南蘋(-1731-1733)、應挙(1733-1795)、明僧・隠元(1592-1673)を開祖とする黄檗宗の頂相(ちんぞう)などの作品を独自に学習したに違いない。宇治を中心とする万福寺が総本山である。頂相は、高僧の肖像画で、陰影が施されている近代的な写実である。

◯1740s延享初年、黄檗の鶴亭(1722-1785)が上方に南蘋の画風を広めた。

◯1747延享四年、大典顕常(1719-1801)は高遊外(1675-1763)の水差しに「大盈若冲*」と記している。

*老子「大盈若冲、其用不窮」に由来する。沖は、むなしい、道教で何も無いことを意味する。老子を読めばお分かりのように、固有名詞が無く、色々な人々が諺、格言などを対句を朗唱できるように纏めたものである。老子は春秋時代の楚に仕えたという。楚は、BC656-BC606-BC597-BC223、中原に覇を唱え、北方の晋と南北で対立し、戦国の七雄として重きをなしたが、BC223秦により滅ぼされた。孔子(BC552-BC479)、春秋時代の思想家、魯の陬邑に生まれる。孔子が老子に教えを乞うたとの伝承があり、年代から可能であるが、疑問もある。

「若」の原字(甲骨文、金文)は、巫女(みこ)また覡(げき)が神託を受けて、神懸かり(トランス)の状態になったことを象形化(1984白川静/字統、1996白川静/字通)したものである。「若」は「汝」の意もあり、画号の汝鈞も、関連があると思う。「鈞」は、一定量の銅塊のおもりの意。しかし「汝鈞」の画号について、確たる説明を得ていない。何方か、教えて戴ければ幸甚である。これらの文字の使い方を見ても、只ものではない。

◯1752寶曆二年、三十七歳、「若冲居士」と銘記している。*居士は仏門へ入り、仏の弟子となった意。

◯1755寶曆五年、四十歳の時、家督を弟に譲り、画業に専念する。

◯1760寶曆十年十一月冬至日に、若冲は四十五歳の時、八十六歳の高遊外(売茶翁のこと)から、「丹青活手妙通神」の一行書を授かっている。後、これを印章にして使っている。

◯1765.09.29(明和2)動植綵絵24幅を相国寺へ寄進 *30点(釈迦三尊などを含まない)では名数も不自然

当初、24 点。後、6点を増やしたため、質のバラツキがある。魚介類などは、肴屋の棚をそのまま描写したもので、構図は平凡、全く迫力がない。しかし、プルシアンブ ルーで描いている作品が一点あり、これは絵の具だけでも、かなり高価な材料であった。やはり鶏、梅などの図像は迫力が違う。しかも、かなり大幅で、ぼぼ同 寸で、140x80cmであった。これ以外の大きさは別の時期と考えて良い。この大きさは、通常の掛物とは全く別で、やはり相国寺(しょうこくじ)に寄進 するために誂えた大幅の絹本である。絵の具なども、かなり高価なもので、一介の絵師ごときでは賄えない。しかも、余白が全くない、まるで虫眼鏡で総てを観 察して、極細微で描いている。これ自体、苦難の業(ぎょう)である。やはり若冲は僧院の仏師と考えて良い。と云っても彫刻ではなく、絵仏師である。これは 売茶翁(1675-1763)、大典顕常(1719-1801)などとの交友関係でも理解できる。

◯1766c明和3年6月23日、動植綵絵*が、虫干しのため、全24点、展示された。釈迦三尊像、文殊菩薩像(獅子)、普賢菩薩像(象)はシルクロードの本場ものと違って、全く日本的な容貌になっていた。真っ赤な袈裟状の着物を着ているが、若冲自身の自画像のように思えた。若冲の自画像というものがあるが、恐らく釈迦三尊像が、より自画像に近いのではなかろうか。*(明治期、宮内庁藏となる)

◯1766c大典は制作を終えた(また製作中)動植綵絵を見て四字熟語の題名を記している。(全24点の内)この時は15点が出来ていた。この24点という名数は、釈迦三尊を中心(しかし除外)に、文殊菩薩、普賢菩薩を加えて、左右に13点づつ荘厳するつもりであったか。これは名数、十三仏に関連があるように思う。

◯1766大典/藤景和画記/小雲棲稿8-6  *この時点で15幅が完成していた。大典は若冲の動植綵絵を30点と記す。

[2016村田隆志/若冲、東京都美術館306]
平安の藤景和、丹青を以て家に名づけ、将に花鳥三十幅を作りて以て世に遺らんとし、而して十有五幅、既に成る。余、為に其の題を命じ、且つ記して其の絵を状(あらは)さん。
1、其れ「隴客来集」[ろうかくらいしゅう]為り。一松虹臥し、連巻蓊鬱(おううつ)たり。鸚鵡の白き者双、其の虹する所に集まり、青き者隻(せき)、枝に県(か)かりて其の觜を反す。下は則ち湍水なり。
2、其れ「初陽映発」[しょようえいはつ]為り。丈菊挺生し、牽牛花、之に纏はりて蔓(の)び、紺白斑発して、以て黄輪の際に施す。而して一鶏下に在りて一足を頓す。
3、其れ「芳時媚景」[ほうじびけい]為り。青松上に架蓋し、牡丹燗披して下に交す。石の峩なる有り。白孔雀之に止まる。首は仰ぎて尾は委(た)れ、雪羽辣(そび)え、金花聯(つら)なる。
4、其れ「羅浮寒色」(らふかんしょく)為り。一株の梅、楨幹菝骪(ていかんばつい)し、縞葩(こうは)撩乱す。月有り、之を枝間に窺ふ。
5、其れ「聯歩祝祝」[れんぽしゅくしゅく]為り。雞は雌雄、雄は則ち朱冠彩羽、翹然(ぎょうぜん)として回視し、而して雌は後従り相ひ面す。
6、其れ「野田楽生」[やでんらくしょう]為り。禾(か)は頴(た)れて栗(みの)り、野花其の旁に攢(あつ)まる。群雀紛下し、止まる者は十六、穂を揉み実を啄(ついば)む。飛ぶ者五十八にして、白い者一。
7、其れ「堆雲畳霞」[たいうんじょうか]為り。繍毬花(しゅうきゅうか)は紺にして且つ素(しろ)く、石間より層(かさな)り出づ。薔薇其の腰を擁し、 躑躅趾を承け、麗を比べ妍を闘はせ、縟縟(じょくじょく)爾(じ)たり、燗燗(らんらん)爾たり。雞其の間を歩み、雄は尾を聳(そばだ)て足を企(つま だ)てて廻旋し、雌は則ち俯して左脚を以て首を掻く。
8、其れ「碧波粉英」[へきはふんえい]為り。白梅、水に臨みて横斜し、枝は糾(よじ)れ花は満ち、爛漫たる蓓蕾(はいらい)。白眼雀枝上に翩集(へんしゅう)する者六。
9、其れ「芳園翔歩」[ほうえんしょうほ]為り。葵花(きか)五采、鉄線連と相間(まじは)りて灼灼(しゃくしゃく)たり。雌雄は竦立(しゅりつ)し、両 翼を舒(の)べ、其の右足を揚ぐ。尾は尽く上植し、頚は□(イ+免)曲して胯間より出で、其の痒(よう)を觜せんと欲するが若(ごと)く然り。然るに雌は 其の側に伏し、首を仰ぎて相向かふ。上に朱鳥有り、葵花を唼(ついば)む。
10、其れ「艶霞香風」[えんかこうふう]為り。芍薬高低に出で、重弁単弁、紅白濃淡、斕斑(らんぱん)として曽敷す。群蜨(ぐんしょう)争集し、大なる者小さき者、蜚(と)ぶ者、止まる者、皆翊翊(よくよく)として自ら喩(たの)しむの貌有り。
11、其れ「晴旭三唱」[せいきょくさんしょう]為り。青松輪囷(りんきん)として横亘(おうせん)し、蒼髯(そうぜん)其の鱗を含みて繁布す。紅白半ば 隅自り出で、白鶏有り、松を拳(にぎ)り頚を回(めぐ)らし、日を望みて鳴く。其の雌、傍らに在り、将に盤施(ばんし)せんとする者に似たり。
12、其れ「寒渚聚奇」[かんしょしゅうき]為り。湖上に雪堆(うずたか)く、垂柳は白を連ねて以て水を覆ひ、山茶は素を載せて岸に県(か)かる。溪鶒 (けいせき)羽を刷(つくろ)ひ、石の漸漸たるに立つ。其の雌は水に浮かびて其の頚を陥(おとしい)る。柳上に復た三禽有り、彩毛鮮翅、以て皚皚(がいが い)中に点綴すと云う。
墨画三、

13、一は「秋扇凉影」[しゅうせんりょうえい]為り。芭蕉半ば凋(しぼ)みて披靡(ひび)し、月其の罅(すき)より升(のぼ)る。

14、一は「寒華凝凍」[かんかぎょうとう]為すり。風雪凌厲(りょうれい)たり、棕櫚(しゅろ)枝は裊(しな)やかにして葉は白を盛り、一鴉(いちあ)其の上に悲鳴す。

15、 一は「群囲攻昧」[ぐんいこうまい]為り。一鴞(いっきよう)松上に兀爾(こつじ)たり、群鴉四集し、上下して之を毀(きずつ)けんとし、囂々(ごうご う)の態を極む。鴉は凡そ十有一、松鬛(しょうりょう)は皆払刷(ふっさつ)して之を成し、太(はなは)だ新意有り。

之の十有五幅なる者 は、皆能く其の物を形(あらは)し、其の気に神にし、精麁(せいそ)内外に遺す無きなり。景和の言に曰く、今の所謂画は、皆画を画(えが)く者にして、未 だ能く物を画く者を見ず。且つ技を以て售(う)らんことを求め、未だ能く技より進(まさ)る者有らず。是れ吾の人に畸(こと)なる所なるのみ、と。

蓋し景和、少(わか)くして学を好まず、字を能くせず。凡百の技芸、一も以(な)す所無く、凡そ声色宴楽、人の娯(たの)しむ所、一も狥(したが)ふ所無く、凡そ富貴利達、都邑(とゆう)に夸耀(こよう)する者、日び耳目を過ぐれども、而も一として覦(のぞ)む所無し。

独 り其の性の好む所を以て、其の才を竭(つ)くし、日の力を窮め、丹青に沈潜すること三十年一日の如きなり。天地の大なる、衆物芸芸(うんうん)とし、一に 諸(これ)を画に寓せり。故に其の形貌の肖(に)たる、神気の勃なる、経営の巧みなる、彩施(さいし)の奇なるは、世の庸工の方(くら)ぶ可きに非ざるな り。嗟夫(ああ)、天下の人、孰(たれ)か志無からん、孰(たれ)か業無からん。苟(いやしく)も景和の為す所を以て之を為さば、其れ将(は)た何ぞ成ら ざる所ならんや。是れ以て世の与(ため)に道(い)ふ可し。

(雁註)外題は「とうけいわがえのき?」これは読みが不自然で「とうけいわ がき」また「とうけいわ がのき」か。

巻 8-6が何年の刊行か、成稿が何年か明確でない。ここでは成稿、寶曆十年(安永4)(寛政八)、1760(1775)(1796)で記録しておく。大典は 韻律を踏む難しい規則を八句の律詩、四句の絶句で書き著すことの出来る漢詩人であった。僧侶ということもあり、仏典を初めとして、漢籍、字書、韻律の版本 も使いこなしていた。そのせいか、恐ろしく大向こうを狙った難しい漢字を使っている。しかし、若冲の人と成りについて、もっとも知悉する人物だけに、ほぼ 正鵠を得ていると云える。他の何の伝記よりも、同時代の大典の生きた記録であるだけに、第一に優先すべき資料である。特に「今の画は、皆画を画(えが)く 者にして、未だ能く物を画く者を見ず」と若冲の真骨頂を明確に捕らえている。それにしても、大典の記述は恐ろしく難しい漢字で、通常のワープロでは、なか なか見付けることが出来ない。

その寄進状を見れば、若冲が求道僧にも通づる直向きな姿が見えてくる。

◯1766.09.29(明和3)藤汝鈞(若冲)/動植綵繪寄進狀
[2016村田隆志/若冲、東京都美術館303a]を
僕不佞、平昔心力を丹青に竭(つく)し、常に艸木の英を描き、羽虫の状を悉さんと欲し、博く采り、多く聚めて、以って一家の技を成せり。
亦た嘗て張思恭の画きし迦文々殊普賢の像を観たるに、巧妙は比ぶる無く、心に模倣せんことを要(もと)め、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二十四幅を作る。
沾沾(ちょうちょう)の志を世に行うに在らず、乃ち具さに列し、萬年山相国承天禅寺に喜捨することを以って、敢えて荘厳を助け、永久に伝わらんことを図るなり。
百年の形骸、終に斯の地に瘞(うず)められんことを冀うに因り、謹んで些かの貲用(しよう)を投じ、香火の縁を結ばんとす。伏して望むらくは、僉(みな)亮らかに採納されんことを。
明和乙酉九月晦日、藤汝鈞頓首再拝  相国寺知事禅師
*張思恭、中国、元代の佛画家。君台観左右帳記、宋朝の部にあり。

(雁註)若冲の文脈、語彙など、これは只ものではない。特に売名行為を思われることを避けるため「沾沾(ちょうちょう)の志を世に行うに在らず」と明確に喜捨する遺志を明確に述べている。

◯1750s(寶曆)師系についても不明である。狩野派についたというが、若冲の性格に相入れない。若冲の性格は、狩野派とは相入れない。鶏などを庭に飼って、その生態を描写したというから、流石に迫力がある。鶏を庭に飼っていて、観察したという。流石に迫力がある。

特に動きの一瞬を捕らえた画面は他の画師の追随を許さない。

後代であるが、崋山(1793-1841)なども、影響を受けたに違いない。なお、沈南蘋の沈の発音の原音は、カタカナで表記すると、シェンとなる。シン、チンとは全く異なる。ローマ字表記は日本語よりも、遥かに原音に近い音で表記している。

この経緯について、大典が詳細に述べている。

◯1766.11(明和3)大典/若冲居士寿蔵碣銘(大典蕉中撰文)
[2016村田隆志/若冲、東京都美術館303b]
居士、名は汝鈞、字は景和、平安の人なり。本姓は伊藤、改めて藤氏と為す。父の名は源、母は近江の武藤氏、享保元祀二月八日を以って、居士を城中の錦街に生む。
居士の人と為り、断々として它(た)の技無く、唯だ絵事、是を好み、狩埜氏の技を為す者に従いて遊ぶ。既に其の法に通ずるや、即ち吾れ能く藍を出せども、 亦た狩埜氏の圏繢(けんかい)を超えず。舎(す)てて宋元の画を取りて之れを学ぶ。臨移、十百本を累(かさ)ね、既に又た自ら謂いて曰く、歩趨の技、肩を 終に比すべからざるや、且つ彼は物を描する者なるやと。吾れ又た其の描する所を描せば、是れ一層を隔つ、親ら物に即して筆を舐めんには如かざるなり。物な るか、物なるか、吾れ何をか執らん。今の時に当りて、褒公、顎公、及び夫の雪を冒し、詩を吟ずる者の態の有ること無く、而も露□(髟+介)、月額、袚祓 (はつはつ)の人は堪えざるなり。山水の目にする所も亦た未だ幅に上す者に遇はず。已む無くんば則ち動植の物か。孔、翠、鸚、□(鳥+義)は曽ち恒に覯る べからず。唯だ司晨の閭閻の馴れる所、其の毛羽の彩は五色を施すべし。則ち吾れ此より始めんと。
鶏数十を窓下に畜い、其の形状を極めて之れを写して年有り。然るの地、周ねく草木の英、羽毛虫魚の品に及ぶも、其の貌を悉くし、其の神を会し、心を得てて に応ず。其の筆を下し彩を賦するに、尽く意匠を以って之れを出し、一毫の踏襲するなし。古人の韻致に合わざること有るが如しと雖も、而も骨力精錬は工みに して以って卓然として名家なるべし。
又た喜(よ)く白帋の滲み易き者を用いて墨画を作す。乃ち其の滲する所に就きて濃淡を界し、而して花の弁と羽鱗の次と、歴々区分して態を為すせり。蓋し筆 の至る所、円熟にして滞らざるなり。一種の風流、世に未だ曾て有らず。観者、咸(みな)其の妙に服す。遂に此を以って斗米に易えて給を取る。是に於いて斗 米庵の号有り。
然れども居士、質は直にして飾ること少なく、技を以つて、当世に衒(う)らんことを欲せず。嘗て丹青三十の大幅を造るに、実に心に愜(かな)い度に合する の作なり。又た張思恭が迦文、文殊、普賢の三幅を模す。精絢、其の本に恥ずること無し。慨然として以爲(おもえ)らく、之れを一時に售(う)るは、之れを 身後に伝うるに如かず。之れを世俗に供するは、之れを名山に藏するうに如かず。乃ち尽く諸を相国禅寺に喜捨して以つて荘厳具に充てんと云う。
錦街は鮭菜の肆にして、旦々(たんたん)に負担する者、輻湊して市を為し、戸を塞ぎ墻(かき)に偪(せま)る。即ち居士の家、日に其の地を租(か)して亦 た以つて利を為すに足る。乃ち居士は則ち絵事に耽り、外物の之れを攖(みだ)すを欲せず。家を其の仲に属して宅を異にす。久しく頭を□(そ)(髟+易+立 刀)り、葷肉を食さず、妻子無く、季の某を以つて後と為さんと欲するも、先に亡くなれり。
是に於いて預目め百歳の後事を図り、里人と約して宅を輟(や)めて、里の有と為し、歳の其の仮貸の贏(えい)を分かちて諸を相国に施し、以つて父母及び己 を祠(し)に奉ず。其の子院松鴎(しょうおう)に請いて香火の事を掌(つかさど)らし、既にして又た松鴎の地三尺を乞いて、佳城の所を卜し、碣(けつ)を 立て表さんとす。
而るに碣は之れ銘の無かるべからざるなり。来りて余(わ)れに謁す。余れ曰く、異なるかな、以つて銘すべきか。昔者(せきしゃ)、陶潜は文を以つて祭り、 司空図*(しくうと)は壙に坐して詩を賦し、王績、白居易、窀穸(ちゅんせき)の誌を為すも、皆な老いて自ら遺せるなり。吾子(あこ)は歳半百、其の自ら 果たすことや是の如きか。然りと雖も、吾子が技に家する所以の者は、名を遂げ、事は畢りぬ。斯れ由り以往、将に何の営む所あらん。乃ち腰折らずして斗米を 得るべく、優遊を以つて歳を卒えれば、則ち所謂、睾宰(こうさい)墳鬲(ふんれき)の望にして今日に息する所を知るなり。且つ余れ、吾子と交ること十有余 年、自ら顧るに羸弱(るいじゃく)にして、恐らくは吾子に後るること能わず。夫れ吾子の息する所を知ると、余れの後るること能はざるを恐ると。是れ宜しく 以つて銘すべきが若く然り。然れども吾が仏に言有りて曰く、心は工みなる画師の如く、法として造らざる無しと。則ち吾子、苟しくも自造を択ばば、寧(いず く)んぞ徒らに思恭の描く所を描きて得たりと為さんや。是れ真に息する所を知れるか。是れを銘と為す。銘に曰く、生や死や、劫尽きて土安き者は此れか。逝 (つい)に将に子を固済せんとするや。

◯1766大典の提案で、当初、24点としたか。*司空図/二十四詩品から暗示を受けて、動植綵絵の画題を選定したか

司 空図(しくうと)(839-908)晩唐の漢詩人。司空(しくう)が姓。この二字姓は珍しい。図(と)が名。特に批評書「二十四詩品」は24の品第(ほん だい)に分けている。 「詩品」は四言詩を用い、24種の美的範疇を詠述している。大典は動植綵絵の各画題を四言詩にした。そして、二十四詩品から、二十四点の作品を若冲に提案 したと推定できる。これは名数としても自然である。しかし、結局、6点を追加し、全30点となった。ただし、釈迦三尊像は含まない。対幅にしても、かなり 苦しく感じられるのは、無理に6点を増やしたからであろう。名数として30は、全く見出せない。釈迦三尊を加えて、名数33としたか。後考に俟つ。

◯1766絹本の大きさ 尺寸で表示すると感じが分かる。

動植綵絵は、もと相国寺に献納した作品で、竪4尺7寸、横2尺6寸。堂々たる大きさである。

もっとも釈迦三尊像(如来、普賢、文殊)などは、竪7尺、横3尺7寸で、面積比で倍。格段の迫力である。

若冲は張思恭の釈迦三尊を見て、絵画の深奥へと導かれた。

真 の若冲絵画を見る機会が無かったため、「わかおき」と読む一般の鑑賞者もいた。これは代表作(動植綵絵)が相国寺に寄進された後、明治22年、宮内庁に寄 贈された。相国寺は当時、10,000円の下賜金を得たという。宮内庁に保管されたため、またまた、作品を見る機会を失ってしまった。まことに若冲にとっ て気の毒な仕儀であった。

◯1767乗興舟 墨摺、正面摺を施している、いわば摺物(すりもの)のような意匠

若 冲は恐らく法帖から暗示を受けて墨画版画を製作したが、このような華麗な色彩版画は描いていない。6点という 名数も意味が分からない。しかも大きさがバラバラで、円形の画面もある。印章は汝鈞(ジョキン)、汝鈞之印、景和氏*、字景和、若冲、明和辛卯(回文)、 若冲居士など。若冲の肉筆で、干支の印章が捺印されているものは皆無である。*景和氏、これは印章として成立しない。景和は字、号である。*なお拓版画と いう言葉を使っているが、厳密な意味で拓版ではない。むしろ石摺(いしずり)と呼ぶ方が適切である。

◯1768玄圃瑤華 墨摺

◯1768(明和5)平安人物志(13丁ウ)
画家
1 西 酔月 字希蟾* 号 蛸薬師室町西入丁      大西酔月 *きせん
2 藤 應挙 字仲選 号僊斉 四条麩屋町東入丁   圓山主水
3 滕 汝鈞 字景和 号若冲 高倉錦小路上ル町   若冲
4 池 無名* 再出                  池野秋平 *ありな
5 謝 長庚 字春星 号三菓亭 四条烏丸東ヘ入町  与謝蕪村

◯1771*(明和8)花鳥版画 *これらは1930s大正期に制作された偽版で、若冲が制作した作品ではない。

若冲の原画(当時、摺られた版画)は存在しない。花鳥版画が6点ほど出品されていたが、その内の一枚に明和辛卯(1771明和8)とある。これらの版画は、私が日本浮世絵博物館にいたころ展示したことがある。大正期に作られた創作画と断って展示した。

父・酒井藤吉を初めとして、浮世絵界の先達が、そのように話していた。いずれも、大正期のもので、複製である。もっとも厳密には、原画が存在しないのだから創作画というべきであろうか。

版画に干支を入れたのは何故だろう。穿った見方をすれば、古く魅せるためである。「字景和」は意味があるが、伊藤の伊では中国風なので、藤を一字、撰んだか。いずれも、鮮やか過ぎる版画であって、とても245年前に描かれて、制作されたとは思えない。

◯1793(寛政5)、平賀(小川)白山が蕉齋筆記に若冲に関する聞き書きを記す。

1794.10.19(寛政6)、平賀(小川)白山らが、石峰寺門前の若冲宅を訪問。

*蕉齋筆記は国書刊行会で活字になっている。また国会図書館のHPデジタルで確認できる。しかし、うまく随筆百巻

百家随筆. 第3のpp.231~355 が閲覧できない。これらの活字も、そのままHPに表示したかったが、今回は出来なかった。ただ、若冲、晩年78、79歳の状況である。この1800(寛政12.0.10)の5-6年後に若冲は85歳で没する。

◯2008.3伊藤若冲「動植綵絵」 : 修理事業報告書/宮内庁三の丸尚蔵館 裏彩色、および重ね塗り

国立文化財研究所の修理および調査によると、動植綵絵は裏彩色が施されている。

表彩色にも、色を何度も重ねて画面の効果を意識的に演出している。

残念ながら、この修理事業報告書を未だ見てないので、詳細は不明であるが、下記の項目を纏めた。

◯2008絵の具について

裏彩色で黄土を施すと、正面から見ると金泥のような効果が演出される。絹地であるため、裏からも彩色を施せて、その裏彩色を最大限に利用している。

・赤色はHgS(辰砂、Hg水銀)またPb(鉛)。橙色のPb3O4(鉛丹)。

・緑色はCu(銅、緑青)またCu+As(砒素)。後、Cu+As+Zn(亜鉛)。原料の孔雀石はAs+Znを含む

・黄色はAs(砒素、石黄)。黄土?

・藍色*は一幅(魚)だけに使われていた  *プロシアンブルーは1752寶曆2、オランダ舩から舶載された。源内(1728-1779)は、1763寶曆13物類品隲に紹介している。

これまで源内(1728-1779)が描いた西洋婦人図が上限と云われているが、制作年月が明確でない。若冲の場合、1766c明和3頃、動植綵絵・群魚図(瑠璃羽太ルリハタの身体)をプロシアンブルーで描いているので、これが上限となるか(後考に俟つ)。これは京都にいたため、最新の人脈を活用できて、材料を取り入れることが出来たからである。30本の作品の絵の具代だけでも、現在の価値で1,500万円以上という試算も出ている。これは若冲が錦街の地主で、その地を租(か)したりして、潤沢な資金を持っていたから、可能であったと云えるだろう。

 

IMG_0193 - バージョン 2

◯作品を依頼するものは、必ず米一斗を作画料として持参したという。これは玄米である。白米にすると、米虫に喰われてしまう。そのため、玄米のままで保存し、食べる直前に精米した。一斗は、18リットルであるから、石油缶一つの容量ということになる。

何か御存知の方がいれば、御教示いただきたい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂   [HP: ukiyo-e.co.jp]
[浮世絵学]文化藝術懇話会    浮世絵鑑定家
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678



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