浮世絵学04/外題_源氏物語序説 五十三帖説(名数)尾州家河内本を底本とする 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [http://www.ukiyo-e.co.jp]
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浮世絵学04/外題_源氏物語序説 五十三帖説(名数)尾州家河内本を底本とする 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [http://www.ukiyo-e.co.jp]

2017-12-10現在(2018-3-01更新)

酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)[http://www.ukiyo-e.co.jp]

浮世絵学**     →御案内 酒井好古堂 [http://www.uiyo-e.co.jp/16738]

◯源氏物語序説

1 名数(五十三)、源氏物語五十三帖(帖名「若菜」は上下册であるが、一つの帖名)

2 源氏物語の底本は、尾州家河内本とすべきこと。校合の結果、ほぼ紫式部の原本と同じであると云える。

3 源光行・親行両人は、尾州家河内本を校合して、殆ど千万端之蒙を散じた。(殆ど解消できた)

尾州家河内本の現代語訳は未刊。定家は定家本(青表紙本)を校合したが、猶狼藉未散不審のままであった。

従って、一日も早く、尾州家河内本の現代語訳源氏物語を刊行して、紫式部の原典を復原して戴きたい。

酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人、元日本浮世絵博物館館長)[http://www.ukiyo-e.co.jp]

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◯源氏物語について、学生時代から、50数年間、名数(めいすう)を初めとして、不審な点を熟慮し、少しづつ訂正、再認識した事柄を書き溜めた。結論は、河内本(二十一種の写本を校合、転写。大きさ32.0 x 25.5cm、堂々とした写本)を底本とする。定家本(いわゆる青表紙本、一つの写本を転写。大きさ27.4 x 20.9cm)は参考とする。定家本(青表紙本)は、一つだけの写本で校合したため、妙な語句、句読点、筋が通らない部分が多く、底本として採用できない。源氏物語の底本として最善のものは、河内本である。現代語訳の河内本源氏物語の発刊を期待するものである。

(雁註)入力日時が多岐にわたり、不統一、重複の点があるが、ご寛恕ねがいたい。徐々に、増補訂正する。

(目次)

(1)源氏物語の名数(めいすう)

(2)最終巻「夢の浮橋」の末尾

(3)紫式部(973c-1014c)の草稿本(自筆本)、推敲本、清書本

(4)菅原孝標女(1008-1059c)

(5)和歌の意味、和歌の総数 *池田利夫(1931-2012)

(6a)写本(伊房、伊房、麗子、朝隆)二条帥伊房(1030-1096) *何れも忠通以前の写本

(6b)写本(法性寺)藤原忠通(1097-1164)

(7)写本(定家) 
藤原定家(1162-1241) *公家(くげ)  *猶狼藉未散不審

1224定家自身、「猶狼藉未散不審であると明月記で述べている。これは証本が盗まれ、30年以上も証本が無かったこと。たった一つの写本だけで校合を行ったため、土台、無理であったことを示している。定家は公家。

(8) 写本(明融) 冷泉明融(1520s−1570s)

(9) 写本(光行・親行、尾州家河内本) 源 光行(1163-1244)*武家(ぶけ) *殆散千万端之蒙

特に鎌倉幕府の財政、経済また有職故実の精通した官僚

1236.02.03-1255.07.07大監物(けんもつ)の源光行、親行の親子が、二十一の写本で校正を行い、「殆散千万 端之蒙」(疑問点を解消した意)と書いていること。光行・親行は武家であると同時に公家である。公家の特権、制度が徐々に崩れ、武家の力が増大したことを示している。

室町初期まで、河内本が重要視されていた。その後、然るべきところ(鳳来寺など)に大事に保管されて、他見を許さなかった(以前、池田亀鑑が稿本を作っただけで、その後、誰にも閲覧を許可していない)。このため、河内本は転写される機会がなかった。従って、近代まで忘れられていた。将軍家の北條、足利、豊臣、徳川と伝わり、尾州家に保管された。

*鳳来寺本も、源氏物語研究のため、一日も早く公開して欲しい。尾州家河内本と全く同一であるか、また違うのか。

1258.05北條実時/源氏物語(河内本)を書写させ、金澤文庫に納めた。*源親行が「殆散千万 端之蒙」してから、4年後である。

*紫式部の原本に近い尾州家河内本を底本として、これを何とか現代語訳で発刊する必要がある。

(10) 写本(雅康)(1481c)
 飛鳥井雅康(1436-1509)

(11) 三條西実隆(1455-1537) *嘉例として源氏物語を読み続けた

(12) 版本 立圃/十帖源氏(1654) 野々口立圃(1595-1669)

(13) 版本 春正/絵入源氏物語(1654)  山本春正(1610-1682)

(14) 版本 季吟/湖月抄(1673) 北村季吟(1624-1705)

(15) 版本 一竿齋/首書源氏物語(1673)

(16) 英訳 Waley: The Tale of Genji(英訳)(1921-1933)

(17) 英訳 Seidensticker: The Tale of Genji, 2 vols (1976)

(18) 現代語訳 谷崎潤一郎/新々訳源氏物語(1966)

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藤原道長(966-1027)*御堂関白記

藤原公任(966-1041)きんとう

紫 式部(973c-1014c)*もと藤式部

藤原定子(976-1000)*24歳ほどで、亡くなる。清少納言は後ろ立を失った、清少納言は晩年、不遇の内に亡くなる。

藤原彰子(988-1074) *彰子の係累に、紫式部/源氏物語の原本が伝わっている可能性が高い

藤原妍子(994-1027)*やはり、33歳ほどで、亡くなる。

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(1)源氏物語の名数(めいすう)

五十三、つまり五十三帖(帖名) *枡形(ほぼ正方形)の綴じ本のため帖と呼ぶ。巻物の場合、巻子。

◯紀元前500華厳経(入法界品)、善財童子が五十三カ所の善知識を訪ねた。

源氏物語は、「五十三帖」である。
これは紫式部が、華厳経(入法界品)を初め、阿弥陀経、感無量壽経、大般涅槃経など、ブッダの生涯、前世(ジャータカ)など知ってからに違いない。
「五十余(よ)」帖の「余(よ)」の音韻の似ているため、「五十四(し)」と誤解されてきた。若菜は量が多く、上下に分けて書かれているが、帖名は一つである。従って帖数は「五十三帖」ということになる。

◯1005紫式部は仏典(無量壽経など)の善財童子が善知識を五十三カ所を尋ね、悟りを開いたという故事から、親子、母子(義理の母も含む)など、男女の確執はブッダによって救われると考えた。このため、最初から五十三帖に物語を設定して、40帖(光源氏)、繋ぎ3帖(源氏没後)、宇治10帖(薫)にしている。従って、光源氏没後の繋ぎ(匂宮、紅梅、竹河)も紫式部以外の人が書くことは有り得ない。

◯1830廣重/東海道(浮世絵)の宿駅も、五十三に設定してある。五十四次では困る。

この上限は、1750s寶曆と考えていたが、最近、1689元禄2年の著作/狂詩東海道五十三次を確認した。五街道など、家康が制定した。

◯源氏物語は五十三帖で書かれているので、名数から考えても、完結している。

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(2a)最終巻「夢の浮橋」の末尾

源氏物語を未完であると考える人は、この名数(五十三)および最終巻「夢の浮橋」の末尾を確認して欲しい。

◇1955池田亀鑑/夢の浮橋/源氏物語/日本古典全書。朝日新聞社 *池田亀鑑(1896-1956)

(薫)すさまじく、なかなかなり、と、思すことさまざまにて、人の隠しすゑたるにやあらむ、と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、
落し置き給へりしならひに、とぞ。本に侍るめる。

*青表紙本を底本に使っていて「本に侍るめる」とあるが、他の本は「本に侍るめる」は無い。

(池田亀鑑の頭注)「もとの本にさう書いてある」の意。寫した人の註記で、鎌倉時代以後、古形を示す意圖から屢々慣用された。

(池田亀鑑の頭注、附記)作中人物の運命に決定的な結末をつけないで筆を擱く。五十四帖の巨編を終へるに適はしい筆致といふべきか。

(雁註)しかし、亀鑑先生の頭注の説明に賛同できない。五十四帖の巨編を終へるに適はしい筆致ではない。

(雁註)「…とぞ」で終る方が無理がない。紫式部が創作した以上「もとの本」などある訳がない。
この語句の有無で、私は青表紙本は混乱、河内本は紫式部の自筆本の意図を正確に伝えていると確信した。
ここで尾州家河内本の夢の浮橋(源氏物語の最終巻)の影印を御確認いただきたい。…とぞ。これで終っている。「本に侍るめる」の語句は無い。

◇1978秋山虔+池田利夫/尾州家河内本・源氏物語(翻刻)全5、武藏野書院

(薫)すさましくなかなかなりとおほす事さまさまにて・人のかくしすへたるにやあらむと・わか御心のおもひよらぬくまなくおとしをき給へりしならいひにとそ。

(雁註)二十一の写本を参酌して、科学的な校合を行った結果、こちらが、紫式部の原本に最も近い。

(2b)帚木(ははきぎ)の末尾

◇1912池邊義象/源氏物語 帚木/校註・國文叢書。博文館

「つれなき人よりは、なかなかあはれにおぼさるとぞ」。

*「とぞ」があり、頭注に、「ただことさらにおぼめきたる詞にて、かやうに語り傳へたりと昔物語りになしたる詞也。」

知人が大島本源氏物語の帚木、空蝉の手頃な本を入手してくれた。

◇1992増田繁夫/大島本源氏物語 帚木・空蝉。和泉書院

大島本源氏物語「つれなき人よりは、なかなかあはれにおぼさるとぞ」となって「とぞ」がある。

◇1977秋山虔+池田利夫/尾州家河内本源氏物語 帚木」 *河内本に「とぞ」はない。

「つれなき人よりは・中々あはれによそへおほさる」 *「よそへおぼさる」とある。

河内本「つれなき人よりは、なかなかあはれにおぼさる」で終っていて、「とぞ」がなく、次の空蝉の帖に続いている。

「なられたまはぬままに・われはまた・人にかく・にくまれてもならはぬを・こよひなん」

(3)紫式部の草稿本(自筆本)、推敲本、清書本

*これらについて紫式部日記に書かれている。紫式部日記は1008-1010に書かれた。この日記に源氏物語の草稿、推敲、清書本などについて、二通りの原本が流布してしまった経緯を記している。

1005.12(寛弘2末)紫式部が中宮彰子に出仕した時期、この頃までに既に物語五十余帖を書き上げていた。
このため、その3年後、1008、道長が草稿本を持ち出すことが出来た。未刊では、持ち出す意味がないであろう。

1008(寛弘5.11)
藤原道長は紫式部の局から、源氏物語の草稿本を持ち出し、書き換えた(推敲本)

*式部は「道長の妾」。「妾」ハ、女性が簪(かんざし)を付けている意、侍女の意である。もう一人の女房と一緒に住んでいて、鍵をしっかりと閉ざしていたと日記に書いている。

◯1965土田直鎮(1924-1993)王朝の貴族/日本の歴史5。中公文庫

*藤原実資(さねすけ)(957-1046)/小右記、

*藤原道長(みちなが)(966-1027)/御堂関白記、

など史料を駆使して藤原道長の時代の精粋を詳細にまとめている。目次を見ると、源氏物語の世界 安和の変 道長の出現 家族と外戚 身分と昇進 中宮彰子 一条天皇の宮廷 清少納言と紫式部 儀式の世界 日記を書く人々 栄華への路 望月の歌 怨霊の恐怖 公卿と政務 刀伊の襲来 盗賊・乱闘・疫病 平安貴族の衣食 浄土の教え 欠けゆく月影。

学者、歴史家が記録、日記を分かり易く読み解いている。源氏物語、紫式部の背景を知る人は必読の書である。学者に有り勝ちな分かり難い表現は全くない。ただ「古代のことは、古代の人の心にかえって考えなくてはならない」と自責の念も含めて、強く説いている。

*御堂関白記(現代文訳、倉本一宏/講談社学術文庫、3冊)

(上)御堂関白記は、平安時代中期いわゆる摂関政治の最盛期を築いた藤原道長の日記である。長徳元(995)、三十歳で関白に准じる職・内乱に任じられたときから始まり、豪放磊落な筆致と独自の文体で描かれる宮廷政治と日常生活の様子。平安貴族が活動した世界とはどのようなものだったのか。自筆本・古写本・新写本などからの初めての現代語訳。

(中)藤原道長の御堂関白日記は自筆本が現存する世界最古の日記である。一條朝から三條朝へと移る那加、娘彰子に続いて妍券子も中宮となり、更に増大する宮廷での権勢。本巻では寛弘六(1009)から長和二年までの様々な朝議、公事、神事、仏事や響宴の様子が詳細に綴られる。現代語訳で読む宮廷政治の世界。

(下)この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば…。三女威子を後一條天皇の中宮に立て、ついひ「一家三后」を実現した道長。宮廷での栄華が極まる一方で、その明るさに胸病、眼病が暗い影を落とし始める。政治から身を引き、極楽往生を願う晩年の日々。いまに残る日記の最終条は念仏「十七万遍」であった。政治権力者の日記、完結。

*以前、古典文庫(正宗敦夫など)でも、全2冊(活字)になっている。

3.1  草稿本、姸子 
*道長は、紫式部の草稿本を勝手に持ち出し、姸子へ。

3.2 推敲本、行方不明 
*道長は、草稿本を「よろしう書きかへた(書き換えた)りし本」(推敲本)

3.3 清書本、彰子、内裏   この清書本も未発見 
*道長は、清書本を彰子へ(内裏)。

*紫式部は1008寛弘5、35歳ほどであり、41歳ころ亡くなったと思われる。

1008(寛弘5)、この時点で、草稿本は全部(50余帖)、完成していたのだろう。
亡くなるまでの5-6年間で、源氏物語を完成させたと考えるより、完成していたと考える方が無理がない。
だから、道長は草稿本を密かに持ち出し、書き換えて(推敲本を作成)、清書本とした。
これら2.1、2.2、2.3、何れの本も発見されていない。
これらが発見されていれば、紫式部の源氏物語の当初の意図が明らかになる。

*草稿本、推敲本、清書本など術語は、微妙に分かり難いが、1988池田利夫/源氏物語の文献的研究を参照した。

紫式部自身が書いた紫式部日記によると、草稿本と推敲本、この二種が転写、流布したと。清書本は、両者ともある意か。

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(4) 菅原孝標女(1008-1059c)(たかすえのむすめ)、五十余帖を入手

1021(治安1)伯母から、源氏物語五十余*(「よ」で「し」ではない)帖を貰い、読書に夢中になる。
菅原孝標女所蔵の源氏物語五十余*帖 これも未発見

*菅原孝標女は、更級日記の作者

1008(寛弘5)から13年後に、五十余帖*を入手していた。*帖であって册数ではない。現在でも源氏物語を册数で考えると、1冊本、2冊本、5冊本、10冊本などいろいろある。名数は本来の帖名の意であり、五十三帖以外、有り得ない。

1014c(長和3)、式部の没年(推定)から考えると、没年の6年前である。

(雁註)菅原孝標(たかすえ)女が所持していた孝標女本も発見されていない。しかし、諸要件を勘案すると、源氏物語は完結していなくてはならない。前後の状況から考えれば、1008(寛弘5)に全五十余帖は完成していたと考えるのは自然である。
だから、道長は、草稿本(姸子へ)を持ち出し、書き換え(推敲本)、清書本(彰子へ)とした。

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(5)和歌の意味、和歌の総数

表出ハ精神的な苦しみ。もっとも単なる応答、贈答の歌が大半である。

(池田利夫)源氏物語の和歌総数は795である。和歌は、その人物の溜息、苦悩を現している。一番多いのは須磨48、賢木33、明石30…一番少ないのは夢の浮橋 1である。

(雁註)つまり、浮舟は尼削ぎをして、仏の道へ入った。従って、苦悩、確執が無くなったということであろう。(もっとも、すぐ無くならないと思うが)和歌の数を詠嘆、苦悩、懊悩の表出と考えれば、最終帖の夢の浮橋で、仏に救われて、苦しみが消えていったということになる。だから苦しみの表出としての和歌は一つだけになっている。名数を含めて、ブッダにより救済されるという意味で、源氏物語は完結している。もっとも、源氏物語に詳しい知人によると、源氏物語の和歌そのものは、単なる贈答歌であり、和泉式部のような和歌本来の感情の表出、即興的な和歌、息を呑むような和歌は少ない。紫式部日記を読めば分かるように、紫式部は気品、知徳の面でも、 当時、最高の学識を供えた才媛であった。従って、自己の内省についても実に優れた分析をしている。物語の場合、日記と違い、宮中の儀式、行事などの記録を正確に記す、司馬遷の史記のような歴史を書き留める作家であった。しかし、若菜、宇治十帖は全帖が人間の心理を表出している。これが史記と違う点である。

◯紫式部も、当時、仏典の原典などを見ることに制約があった。紫式部は、源信(942-1017)の往生要集から暗示を受けたか。985往生要集は、のちの浄土教の基礎になっている。横川(よかわ)の根本如法塔から、中宮彰子が寄進した黄金の経箱が発見されている。源信は、女人も極楽往生できると説いたのである。また後代であるが、漢籍なども原典以外、藤原成範(1135-1187)/唐(から)物語(1160-1176成立)の影響もあろうかと思う。唐物語は二十七話*から成っている。

◇1972池田利夫(編)/唐物語(蒙求和哥)/古典文庫第300冊。古典文庫

源光行(河内守)は佚書となった樂府和歌を加えて三部作としているので、少年時代から白氏文集などに親しんだものと思われる。当時の幼学書として、蒙求、百詠、千字文、和漢朗詠集の四書があげられる(1962太田昌二郎/四部ノ読書考/歴史教育7-7)

◇1977池田利夫/河内本源氏物語成立年譜攷、日本古典文学会

*清水濱臣(1776-1824)は、唐物語(からものがたり)を下記のような目録一覧とした。

1 王子猷 2 白楽天 3 賈氏 4 孟光 5 司馬相如 6 緑珠 7 宋玉 8 眄々 9 張文成 10 徐徳元 11 □史 12 望夫石 13 娥皇女英 14 陵園妾 15 李夫人 16 西王母 17 四士子□ 18 楊貴妃 19 朱賈臣 20 程嬰杵旧 21 平原君史 22 楚荘王 23 荀采 24 上陽人 25 王照君 26 潘安仁 27 雪々

◇1988池田利夫/源氏物語の文献的研究、笠間書院

*大著である。詳細については、ぜひ、御熟覧いただきたい。池田利夫先生は源氏物語回廊という御本も出版されているが、私は未だ入手していない。

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(6a)写本(伊房、伊房、麗子、朝隆)

• 二条帥伊房(1030-1096)
• 堀川左大臣伊房( 1035-1121)
• 従一位麗子( 1040-1114)
• 冷泉中納言朝隆(1097-1159)

(6b)写本(法性寺)藤原忠通(1097-1164)

法性寺(ほっしょうじ)殿、美福門院(1117-1160)と結んで、父藤原忠實(1078-1162)および弟・頼長(1120-1156)と対立し、保元の乱の原因となった。*頼長は悪左府として、崇徳上皇と結び、保元の乱(1156)を起こして、敗死。

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(7) 写本(定家) 
藤原定家(1162-1241)

青表紙本の奥入(おくいり、奥書)、帖毎に転写の経緯がある。俊成・定家の流れ。

河内本と同文のものもあると云う。定家は一つの底本だけを転写したという。その底本は、どの程度、紫式部の原本に近いか不確定。

1193(建久4)「…花の宴は殊に艶なるものなり。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」(俊成/六百番歌合)

7.1  1193-1194 建久4-5 この直後、証本が盗まれたと推定できる 未発見。

7.2  1224.11 小女らに書写させた *30年以上も証本が無い状態のままであった。未発見

7.3 藤原定家の自筆本( 5帖):「花散里」「行幸」「柏木」「早蕨」「野分」 (第一に重要、池田利夫)

自筆本奥入[青表紙本 証本]
青表紙本4帖(定家)、これらの写本は、1224.11-1230の7年間のある時期に転写された。
青表紙本(大島本): 53帖(浮舟、欠く)

7.4 定家/明月記 源氏物語書写の項目

1225明月記(嘉禄元年2月16日)(1225年3月26日)条
自去年(1224年)十一月、以家中小女等、令書源氏物語五十四帖。昨日表紙訖、今日外題、年来懈怠、家中無此物建久(1190-1199)之被盗了、無証本之間、尋求所々、雖見合諸本、猶狼藉未散不審。雖狂言綺語、鴻才之所作、仰之称高、鑚之称堅、以短慮寧弁之哉。

1224前年(1224年(元仁元年))11月から家中の小女に書写させた「源氏物語五十四帖」が出来上がったので、昨日表紙付けを終え、今日外題を書いた。建久 の頃に家の証本を盗まれて以来、証本が無かった間、善本を探し求め、諸本を校合してみたけれども、なお狼藉不審の箇所を解決できていない。物語は狂言綺語 のものとは言いながら、鴻才(才能のある作者)の作るところ、これを仰げば仰ぐほど高みにあり、これに切り込もうとすればするほど堅い世界であるから、 短慮を以てこれを軽々に論ずべきものだろうか、いやそうではない。

  • 嘉禄元年2月16日(1225年3月26日)条
    前年(1224年元仁元 年))11月から家中の小女等に書写させた「源氏物語五十四帖」が出来上がり、昨日表紙付けを終え、今日その外題を書いて完成した。建久の頃に「源氏物 語」(家の証本ともいうべき物)を盗まれて以来、長年証本作りを怠けて、この物がなかったが、漸く出来上がった。とはいうものの、なお狼藉不審の箇所は多々 あり、必ずしも満足のいく出来でない。
    (雁註)何人かの小女らが手分けして、全54帖(各々一つの写本)を書写するのに、6ヶ月掛かっている。しかも紫式部の原本と何の程度、同一であったか不明である。原本の全本文を指数100として、どの程度の指数であったか。指数だけでなく、意味が通らない語句もあり、指数を限りなく100に近づけたとしても、(たった)一つの写本では土台、無理がある。諸氏の統計一致率によると尾州家河内本の近似値指数は100%として、他の写本は60-70%である。つまり他の写本は、原本とは恐ろしく違っていて、しかも意味が通らない不如意があり、底本としては全く論外であることが分かる。尾州家河内本を転写、臨模した写本は、底本として採用できる。
  • 嘉禄2年5月26日(1226年6月22日)条
    承明門院姫宮から所望されたため「紅葉賀」「未通女」「藤裏葉」三帖を書き進ぜた。
  • 安貞元年10月13日(1227年11月23日)条
    室町殿から借りていた「源氏物語」二部を「家本」と「見合」せ「用捨其詞」して返上した。
  • 寛喜2年3月27日(1230年5月11日)条
    「桐壺」(と「紅葉賀」)を分担して書くよう命じられる。
  • 同年3月28日(1230年5月12日)条
    「桐壺」を書くこと渋る。
  • 同年4月3日(1230年5月16日)条
    「紅葉賀」を書終られず。
  • 同年4月4日(1230年5月17日)条
    「源氏物語」を書く間、発熱歯痛する。
  • 同年4月6日(1230年5月19日)条
    「桐壺」と「紅葉賀」を完成させて進呈した。
  • 同年4月26日(1230年6月8日)条
    夕顔」巻は忠明中将が分担書写したことを知る

(雁註)定家本影印は、超高額で、一般の学徒、研究者に開放されていない。所蔵機関は、各図書館、美術館、博物館が行っているように、一日も早くインターネットに公開し、誰でもが確認できるようにすべきである。それが源氏物語の学問を広く深めることに繋がる。定家自筆の5帖、そして明融の臨模8帖、これら13帖以外は信頼度が少なく、従って残り40帖は河内本の優先度が高い。

(雁註)最近では、これまで源氏物語/定家自筆本(全13帖)と称する鈔本も、自筆と認められず、異筆と考えられている。一体、どれが定家自筆なのか。定家書跡は、特徴があり、その意味で確実な「臨書」技術さえあれば、比較的簡単に模写され易い。現在でも定家書体という字体があり、料亭の献立などに使われている。

*阿部秋生(1910-1999):定家本について「藤原定家の目の前にあったある写本の一つ」を忠実に写したもので、その写本そのものは青表紙本ではない。

(雁註)定家本(青表紙本)も、ある写本の一つ。最近の研究で、これまで定家自筆写本も、疑問があることが分かってきた。定家自身、一つの写本を転写させていて、あちこち「狼藉不審」があると。また定家自筆本と称しながら、河内本と殆ど同じ語句の帖もある。河内本との一致率は、60-70%。つまり40-30%は異文ということになる。これでは底本として採用できない。従って、紫式部の原本に一番、近い写本は、尾州家河内本であると確信するに至った。

◯天理図書館善本叢書 源氏物語5種

最近、知人が入手した本書を確認した。やはり、定家自筆本はない。しかも傳〇〇。これが学術的に正しい。

天理図書館の善本叢書。
この源氏物語、5種の写本。
これらも定家自筆ではないようです。
天理は超一流の方々が監修、解説を書いています。

さすが、天理(曾澤太吉・解説)、すべて傳〇〇と書いてあります。
傳定家はありません。
俊成(1114-1204)としなり 和歌では「しゅんぜい」 *古今から新古今の幽玄の和歌を確立
定家(1162-1241)さだいえ 和歌では「ていか」 俊成の子
爲家(1198-1275)ためいえ  御子左(みこひだり)家
爲氏(1222-1286)ためうじ  爲家の長男
爲相(1263-1328)ためすけ  爲家の子  冷泉(れいぜい)爲相
(雁註)つまり、本人が書いた自筆写本などは、殆どありません。皆、傳〇〇です。
これが正しい認識です。

1193俊成(1114-1204)が、1193(建久4)/六百番歌合「…花の宴は殊に艶なるものなり。源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」

1193(建久4)を契機(六百番歌合)に、俊成本が盗まれる事態となった。証本を盗んだ人物は、俊成家、文庫の写本の優劣、むろん管理棟、配置の棚、鍵の場所などの状況も知悉していた。さもなければ、六百番歌合の典拠となった俊成本を持ち出すことは出来ない。

しかし、實のところ、俊成また定家は一体、どの証本を見ていたのか不明である。

1193(建久4)、この直後、俊成の証本は盗難に遭い、紛失していた。俊成、また定家は単に別本を見ていただけかも知れない。

この経緯について、定家/明月記に記載がある。 *俊成本と定家本の区別、写本(副本)は無かったのか

1224.11 小女らに一つの写本を書写させた。これは、30年以上も証本が無かったことを意味して、何の底本を書写させたか疑問。しかも、「猶狼藉未散不審」とあり、たった一つの写本だけでは校合は無理であったことが分かる。つまり、この定家写本が最善本という確証はなく、不確定、疑念を抱かざるを得ない。

・定家(1162-1241)本(大島雅太郎氏が所蔵していた最良本とされるもの)も、実ハ河内本と同文のものも、あるらしい(未確認)。

2002藤本孝一/古写本の姿  日本の美術(No.436)

2004藤本孝一/明月記の姿 日本の美術(No.454)

2005藤本孝一/定家本源氏物語 冊子本の姿。日本の美術5 (No.468)

*これらは源氏の写本について尤も信頼できる図版、論文である。

・擬「定家本」 定家本でなく、資經本を臨模したもの。藤原資經(-1292-1298-)が書写した奥書がある一連の私家集(39帖)。

藤原定家(1162-1241)/明月記(1180-1235) *漢文の日記

◯1986-1988堀田善衛(1918-1998)/定家明月記私抄 正続 *定家は二流貴族の歌人(当時、「だるま歌」と呼ばれていた)

(正編 )紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ―藤原定家の日記「明月記」の一文が、戦時下の不安な日々を過ごす若き堀田善衛の心を揺さぶった。以来四十年この書に親しんできた著者が、乱世を生きた定家の実像を生き生きと甦らせる。

源平が角逐(かくちく)し、群盗放火が横行し、天変地異もまた頻発した平安末から鎌倉初期の動乱の世に、余情妖艶な美のかけ橋を架けた藤原定家。その五十六年にわたる厖大な漢文日記「明月記」を読みとくことで、美の使徒定家を、乱世に生きる二流貴族としての苦渋にみちた実生活者として把え、併せて転換期の時代の相貌を浮き彫りにする。

(続編)中世動乱の世を生きる藤原定家。日記を通してその実像を甦らせる。壮年期か承久の乱を経て、八十歳の死まで、その時代と人間を描く。源平角逐(かくちく)の時代に青春を過ごした定家は、後半生でもまた、未曾有の乱世に身をおく。和歌を通じて交流をもった源実朝の暗殺、歌壇のパトロンであり同時に最大のライヴァルでもあっと後鳥羽院の、承久の乱による隠岐配流…。宮廷部名の最後に大輪の花を開き、その終焉をも見とどけた定家とその時代を、厖大な日記「明月記」にたどる。

7.5 宮内庁書陵部 *青表紙本以外の諸本を含むため、現在使われない

(翻刻1)1969-山岸徳平/源氏物語 全5/日本古典文学大系。岩波書店

*影印を見る限り、荒っぽい筆耕による転写で気品が感じられない。

(翻刻2)1984-1985阿部秋生、秋山虔、今井源衛/完訳日本の古典 源氏物語、全10。小学館

*(雁註)河内本、別本の本文は参考として云々。すると、青表紙本。つまり写本そのものは青表紙本ではないことになる。末尾に「本に侍るめる」があり、鎌倉時代以降となる。平安時代の紫式部の原本と云えない。

(翻刻3)1993-1997柳井茂、室伏信助、大朝雄二、鈴木日出男、藤井貞和、今西祐一郎/源氏物語 5索1/新日本古典文学大系、岩波書店

(翻刻4)1994-阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男/源氏物語 全6/新編日本古典文学全集。小学館
 *底本とした活字本、「原文・注・現代語訳」同一ページに、3段組で配置

*(翻刻4)が原文テキストとして最善と考えていた。しかし、ネット上で検索すると「しおきたまへりしならひにとぞ、本にはべめる」とあった。これは河内本「…とぞ」と違っている。紫式部の原本と違っていることは明らかである。「本にはべめる」と付け加えられている。紫式部が書いているのに、「もとの本に書いてあった」ということは有り得ない。

*御存知のように、源氏物語は多くの異文(いぶん)がある。紫式部の自筆本(「草稿本」、「推敲本」、「清書本」)が更に転写されたからである。しかし、これも恐らく「本に侍るイ」とあるようだ。私が入手した、この年度の16冊本に「本に侍るイ」とあった。これは鎌倉期以降で、平安期の紫式部の原本と、かなり違っている。

殆どのテキストは、青表紙本を底本としている。明融(桃園文庫旧蔵臨模九帖)、明融(山岸徳平氏所蔵臨模本四十四帖)、証(三條西実隆奥書本五十四帖)、穂(穂久邇文庫、元応二年奥書本五十四帖、幽(永青文庫細川幽斎写本五十四帖、柏(陽明文庫写本、伝後柏原院など五十二帖)、吉(吉田幸一所蔵五十四帖)。これは七つの写本ということになる。定家本は一つの写本であるから、かなり写本が多くなり、義理を通し(句読点)易くなっている。尾州家河内本は二十一の写本で義理を通したというから、写本勘案も比較的楽にできたか。少なくとも鎌倉以降の「本に侍る」は採用できない。

*阿部秋生(1910-1999):青表紙本とは「藤原定家の目の前にあったある写本の一つ」を忠実に写したもので、その写本そのものは青表紙本ではない

*(雁註1)これは驚くべき卓見である。源氏物語の権威であった池田亀鑑先生に遠慮があり、誰も、このような見解を述べなかった。阿部先生が極めて画期的な発言をなさり、定家本(写本そのものは青表紙本ではない)を学問的に定義した。むろん、臨模を含め、書跡は真偽の筆跡鑑定が困難である。今後、これらの真偽が明らかになることを見守っている。 *池田亀鑑(1896-1956)

(雁註2)しかも、鈔本が盗まれ、30年以上も定家が所蔵していなかったこと自体、不審である。大島本青表紙がほぼ全巻揃って影印も刊行されているが、超高額で、学生、学徒など源氏学に全く寄与していない。全巻、影印また翻刻で誰でもが文面を確認できるようにならなければ、源氏学の学問は閉ざされたままである。いわゆる自筆本、明融本、尾州家河内本などと比較する必要がある。

特に最終巻の夢の浮橋、この末尾に「本に侍るめる」とあるか確認したい。もし、「本に侍るめる」とあれば、これは鎌倉以降の写本で、最善本ではない。少なくとも紫式部の原本(自筆、草稿、清書)とは違っている。紫式部が書いた以上、「もとの本」などある訳がない。

二十一の写本の内、俊成、定家の写本もある。

• 五条三位俊成(1114-1204)*しかし、これは盗まれたか
• 京極中納言定家( 1162-1241)


(8) 写本(明融)

*定家自筆本の臨模
冷泉明融(1520s−1570s)
冷泉明融(臨模本8帖):8帖 「桐壺」「帚木」「花宴」「若菜上下」「柏木」「橋姫」「浮舟」(第二に重要、池田利夫)

*冷泉明融(1520s−1570s) 父は冷泉爲和(1486-1549)、明融の兄・冷泉爲益(1516-1570)の生没からの推測

*みょうゆう **「柏木」は3-T3、4-Mともにあり字形、字詰、行数、ミセケチなど、そのまま臨模されている。

◯冷泉明融(1520s−1570s) 明融(みょうゆう)本、行列、字詰など、定家本を原本通り臨模した。父、兄の生没年から推測

9帖:柏林社、池田亀鑑→東海大学・桃園文庫蔵 (第23初音、欠く)
44帖:松田武夫、山岸徳平→実践女子大学

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(9) 写本(光行・親行、尾州家河内本)

◯源 光行(1163-1244) *河内守 源 光行・親行  (第三に重要) (雁註)実ハ21種の写本を参照し、1255.07.07までに句読点を吟味し、校正し能書家に清書させた由緒のある、信頼できる写本である。

(雁註)池田利夫、第三に重要と述べておられるが、定家自筆本が傳定家、また写本の一つであることを勘案すれば、河内本が尤も信頼の置ける写本で、第一に重要と訂正したい。紫式部の原本に一番、忠実であると確信した。

1236.02.03-1255.07.07源光行、親行。源氏物語の復原(21種の写本)を試みた学者、河内守(かわちのかみ)。定家より一つ下で、ほぼ同時代。21種の写本の内、特に重要な八本「法性寺関白本」(藤原忠通所蔵本)をもって校合取捨して家本となせり。(河海抄)1977池田利夫/河内本源氏物語成立年譜攷、日本古典文学会

源 光行(1163-1244)

源 親行(-1236-1255-)*廿一部ノ本ヲ披クニ、殆ド千万端ノ蒙ヲ散ズ これまでの疑問を解消できたの意

北條実時(1224-1276)

1258.05北條実時が、出来上がった源光行・親行の河内本源氏物語を能書家に清書させ、金澤文庫に納めた。但し、この原本(北条実時の花押)は無く、転写本がある。

*和語ノ旧説ハ真偽舛雑ナリ。而ルニ廿一部ノ本ヲ披クニ、殆ド千万端ノ蒙ヲ散ズ。其ノ中ニ二条都督(伊房卿)、冷泉黄門(朝隆卿)、五条三品(俊成卿)、京極黄門(定家卿)、彼ノ自筆等ヲ以テ証本ニ擬フル所也。(池田利夫/源氏物語回廊/「鳳来寺本源氏物語の親行識語と書誌」)

9.1 河内本(大島本) *重厚な大和綴じの写本。

写本は「1258年(正嘉2年)5月に北条実時が作らせた写本」そのものではなく、その写本を後のある時期に誰かが花押や奥書も含めてそのままに臨模したとの見解が出されている。

  • 花押が、現存する北条実時の花押と異なること
  • 奥書の筆跡が、本文と別の筆跡とみられること
  • 金沢文庫の蔵書印が、押されていないこと

1930-1931佐渡の旧家(利休の後裔と云われている)から出た→大島雅太郎(青谿書屋)、大揃い最善本→(徳川黎明会、名古屋市蓬左文庫)

9.2 河内本(大島河内本) 大島雅太郎→天理図書館
 *影印、翻刻とも良心的で、学生、学徒などにも開かれている。
河内(かわち)本は、源光行・親行二代に亘り、ひらかなで、徹底的に句点、読点を付けて、義理(筋道の意、不審な文意)を訂正した。

*金沢文庫印など無いので、原本を臨模したと考えられている。正確な臨模であるから、原本と考えて良い。
校合するのが目的でなく、句読を切り、清濁の点を施し、仮名の本文の傍らに漢字を当て、疑わしいところに意見を傍書した。

◇1944山脇 毅(はたす)/源氏物語の文献學的研究。創元社

*最初に河内本に注目した学者である。京都大学で、西村碩園(1865-1924)、藤井乙男(1868-1946)、新村出(1876-1967)、吉澤義則(1876-1954)らに学んだ。山脇氏に続き、秋山虔、池田利夫が影印、翻刻を刊行した。

尾州家河内本

1258北條實時/河内本を書写し金澤文庫に納める

(夢の浮橋末尾)

正嘉二(1258)年五月六日<以>河州李部親行之

本終一事書冩之功畢 

       越州刺史平(花押)

◇1935(1977)山岸徳平/尾州家河内本源氏物語開題。日本古典文学会

(影印)全10册、尾張徳川黎明会

 

◇1977池田利夫/河内本源氏物語成立年譜攷。貴重本刊行会(日本古典文学会)

*山脇毅(はたす)、山岸徳平、池田亀鑑、稲賀敬二ら諸先学の業績に負うたと記されている。

◇1977-1978秋山虔、池田利夫/尾州家河内本・源氏物語 全5。武藏野書店

*http://www.genji.co.jp/kawachi-genji-srch.php

(翻刻) 語句を入力すれば、直ぐ該当個所が検索できる。

試しに「とぞ。本に侍るめる」を検索。河内本では該当個所がない。紫式部自身が書いていれば、本(もと)の本などあるはずがない。

*テキストの一致率

各帖によって違いがあるが、花散里(定家本64%、河内本100%)、澪標(定家本74%、河内本100%)、鈴虫(定家本94%、河内本100%)。一致率が分かり難いが、河内本100%とすると、花散里の定家本64%が一致した。すると残り36%は一致しなかったという意味であろう。全体のテキスト量は、定家本が多いと認識している。これは傍書、傍注などが竄入したからだと云われている。結論として、たった一つの写本で校合を行った定家は、狼藉不審を解消できなかっとと嘆いている。河内守・源光行、源親行は親子で二十一本の写本の校合を行い、区点、仮名の漢字書き(歯+余、この字は、漢字に変換する意であろう)などを施し、疑問を解消した。いわば科学的に処理した河内本を底本とすべきである。

◇1988池田利夫/源氏物語の文献的研究。笠間書院

影印、翻刻も刊行され、公開されている。他の出版社の超高額本もある。しかし、下記の書籍が価格も手頃で、良心的である。北條、足利、豊臣、徳川と代々、継承されて、現在、尾州徳川家の蓬左文庫に保管されている。

(雁註)今後、この尾州家河内本・源氏物語を底本とすべきである。しかも、尾州家河内本の現代語訳は未刊である。

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(10) 写本(雅康)(1481c)
飛鳥井雅康(1436-1509) 浮舟を欠く

*雅康以降、定家本が大勢を占めるようになり、河内本はその存在さえ知られなくなる。

*経緯が複雑で、纏め難いが、整理すると飛鳥井雅康が、以下のように定家本を書写したことは明らかである。

山口の戦国大名・大内政弘の所望で文明13年(1481)に書写した(関屋の奥書)。

大きさは袋綴装の冊子本、27.5 x 20.9 cm 青色の表紙、後表紙、後題簽。

大内氏→宮河氏(宮川房長)(?-1553)→1564吉見正頼(1513-1588)→→→某氏(佐渡)→大島雅太郎→小浜利得→古代学協会

(2005藤本孝一/定家本源氏物語 冊子本の姿。日本の美術No.468)

10.1  1481c 大島河内本 佐渡貝塚・田中家(田中とみ、千利休の後裔)←長州藩毛利家←大野毛利家(吉見氏を継承)。
池田の桃園文庫→京都文化博物館

1958 小汀利得(小汀文庫)、重要文化財に指定

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(11) 三條西実隆(1455-1537)

実隆は、当時、第一の源氏学者であった宗祇(1421-1502)、和歌の飛鳥井雅康(1436-1509)、牡丹花肖柏(1443-1527)などの業を受け、八十の高齢に至るまで源氏物語の研鑽をした。実隆公記によると、二十一歳の時、初音を見たのが最初で、五十八歳まで、嘉礼として読初を続けた。

(雁註)和泉式部日記の多くの写本末尾も、「本にはべりめる」(もとの本に書いてある)とあり、書写の時、書き加えている。混成本は、これらの語句が無い。和泉式部本人が書いている以上、もとの本などある訳がない。

1941原勝郎/東山時代に於ける一縉紳の生活

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(12)立圃/十帖源氏(1654) 野々口立圃(1595-1669)

立圃/十帖源氏(1654)

野々口立圃(1595-1669)松永貞徳(1571-1653)門

(かほる心)すさましく中々なりとおほす事 さまさまにて 人のかく しすへたるにやと おほす。

(雁註)「本に侍る。」無い。

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(13) 春正/絵入源氏物語(1654)

*原本に「絵入源氏物語」と刻記されていない。俗に「絵入~」
山本春正(1610-1682) 貞徳門
◇1654s/絵入源氏物語 60巻

(絵入源氏物語)
思ひよらぬ くまなく.おとしをき給へりしならひにとそ(細字 本に侍るイ)

1659源氏小鏡、3冊

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(14) 季吟/湖月抄(1673)

北村季吟(1624-1705)
◇1673湖月抄(延宝1)

*春正の絵入源氏物語の本文を底本

(湖月抄)
思ひよらぬ くまなく.おとしをき給へりしならひにとぞ.(細字 本に侍めりイ)

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(15) 一竿齋/首書源氏物語(1673)

*かしらがき
◇1673首書

*源氏物語(寛文13)

1912池邊義象/源氏物語上下/國文叢書。博文館 *首書源氏物語を底本としている

人のかくしすへたるにやあらんと.わが御こころのおもひよらぬ くまなく.おとしをき給へりしならひにとぞ

*「本に侍める」は無い。*紫式部が書いたものである以上、「もとの本」などある訳はない。つまり、河内本と同文である。

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(16) Waley: The Tale of Genji(英訳)(1921-1933)

1921-1933A. Waley:The Tale of Genji 6vols., George Allen & Unwin Ltd, London

*Waleyは漢籍の専門家であるが、独学で日本語を学び、10年ほど掛かり、英訳(抄訳また意訳)した。この英訳により、紫式部の源氏物語は国際的に知られるようになった。但し、鈴虫の帖は訳していない。
WaleyがSchlossというユダヤ人であったからではでなく、欧米人、そして中国人にも、虫の音(ね)を楽しむという文化がなかった。雑音にしか感じない。従って、訳すことを断念したものであろう。

*Waleyは当時、下記の書物を底本として、英訳(意訳、抄訳)した。

*1912池辺義象/校註・國文叢書 源氏物語上下。博文館 *主格が表示されている。池辺義象は和歌の専門家。

(Waley)

人の隠しすゑたるにやあらむと、わが御心の思ひよらぬ隈なう、おとしおき給へりしならひにとぞ。

If she was indeed living at Ono, no doubt some lover had secretly installed her there and was looking her up from time to time, just as he himself, all too infrequently, had visited her at Uji.

*底本に「もとの本に書かれていた」は無く、そのような英訳もしていない。

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(17) Seidensticker: The Tale of Genji, 2 vols (1976)

1976E. G. Seidensticker:The Tale of Genji 2 vols. Alfred A. Knopf, New York

*Seidenstickerは、下記の書籍を底本としていた。

17.1 1969-山岸徳平/源氏物語 全5/日本古典文学大系。岩波書店

17.2 1970-1975玉上琢弥/源氏物語評釈 全14。角川書店

17.3 1984-阿部秋生、秋山虔、今井源衛/完訳日本の古典 源氏物語、全10。小学館

*その他、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子らの現代訳も、随時、参照した。

*現在では最善本とされる(翻刻4)、これらは公開されていなかった。

*アメリカ人で、上野の不忍池に住んでいて、虫の音の文化に親しんでいた。鈴虫の巻をBell Cricketとして英訳している。

しかし、底本に「もとの本に書かれていた」と無く、従って、そのように英訳していない。

It would seem that, as he examined the several possibilities, a suspicion crossed his mind: the memory of how he himself had behaved in earlier days made him ask whether someone might be hiding her from the world.

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(18) 谷崎潤一郎/新々訳源氏物語(1966)

1966谷崎潤一郎(訳)新々訳源氏物語

(谷崎潤一郎)

なまじ使いをお出しになったことが恨めしく、いろいろに気をお廻しになったりしまして、誰かがあそこに匿っているのではないかなとど、御自分がかってかの山里へ、抜け目なくお隠しになって捨てておおきになりました経験から、そうも考えていらっしゃいますとやら。

(雁註)「とぞ」、現代語訳では「とやら」。しかし「もとの本に書かれている」とは何処にもない。

*最善本は、1994-阿部秋生、秋山虔、今井源衛、鈴木日出男/源氏物語 全6/新編日本古典文学全集。小学館  
残念ながら、私は未だ本書を入手していない。6冊本で、かなり高額である。

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何か御気付きの点があれば、御知らせ下さい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator

浮世絵・酒井好古堂 [HP: ukiyo-e.co.jp]

[浮世絵学]文化藝術懇話会  浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

 

◯名数、源氏物語53帖について

http://www.ukiyo-e.co.jp/17259

http://www.ukiyo-e.co.jp/17259

浮世絵学06/名数(源氏物語)53帖、一致 1997SAKAI_gankow: The Tale of Genji by Lady Murasaki in 1,008AD has framed in 53 vols, not 54. 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [http://www.ukiyo-e.co.jp]

 

浮世絵学06/内題_名数(五十三)編_源氏物語、善財童子、名数五十三の一致 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [http://www.ukiyo-e.co.jp]

 

何か御気付きの点があれば、御知らせ願いたい。
酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator

浮世絵・酒井好古堂  [http://www.ukiyo-e.co.jp]

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