浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64a)1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった 三国志・魏志(影印)九州王朝* 帰結、ずばり「邪馬台國」は九州(阿蘇山があるので確定) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/36642
ホーム > 浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64a)1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった 三国志・魏志(影印)九州王朝* 帰結、ずばり「邪馬台國」は九州(阿蘇山があるので確定) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/36642

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64a)1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった 三国志・魏志(影印)九州王朝* 帰結、ずばり「邪馬台國」は九州(阿蘇山があるので確定) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/36642

1982-05-24現在(2019-07-26更新)  ✓検索 浮世絵学 ◯◯  http://www.ukiyo-e.co.jp/36642
酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)   http://www.ukiyo-e.co.jp
SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e
Sakai Kohkodou Gallery, the oldest gallery of ukiyo-e in Japan

(雁註)古田武彦先生の三国志底本は何れであろうか。

長澤規矩也先生が戦前に「紹興」本の影印を上海の涵芬楼で入手した。これが日本で広まった。この「紹興」本は、邪馬「臺」國と刻記されている。古田先生は、その後、咸平重刻の「紹煕」(しょうき)本影印を入手し、「邪馬臺國」でなく、「邪馬「壹」國」と結論づけた。

1958、上海の涵芬楼本の影印が刊行されているので、これを底本としたか。古田先生の著書に、底本について書かれていないが、年代から見て、ずばり1958刊行(涵芬楼本)の三國志が底本であろう。この原本は、宮内庁書陵部にある。

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)支那學・研究一覧(邪馬台国、帰結)三國志(魏志)と隋書 古田武彦 九州王朝* 帰結、ずばり九州(阿蘇山と書かれている)(古田武彦/九州王朝*)酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/37595

◯浮世絵学04/外題(三国志展、東博)三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/40771

時:2019-03-29(金) *予約完了しました。

所:淡路町ワテラス2011号室(パーティルーム)

人:1971古田武彦(1926 – 2015)/「邪馬台国」はなかった

◎三国志/魏志/邪馬台国/参照一覧

http://www.ukiyo-e.co.jp/37595

◎ここ数回にわたり、古田武彦先生の古代史(九州王朝)に関する著書を一緒に読んでみよう。

1971古田武彦/「邪馬台(ヤマタイ)国」はなかった、あったのは「邪馬壹(ヤマイチ)國」。

(雁註)当時の読みは正確には分かりませんが、地名は、ヤマ、ヤメ。古代支那王朝の意味付けで、「イ(チ)」は、「イ(ヰ)」でしょうか。委奴は委(ヰ)の人々の意。

・当時の支那漢籍、「白髪三千丈」などを例に、これまで信を置けないと蔑視する風潮があったが、西暦という「基準尺」で暦法、距離、系譜など、その前後関係を検証すると、驚くほど詳細、緻密で正確なことが理解できる。今後とも、基準尺で、「生没年」「事件年」などを確認することが最重要である。

・神功皇后(?-?)と卑弥呼(-238-247-)が同一人物にならない。しかも神功皇后は実在の根拠が乏しく、伝承上の人物と考えられる。

古田先生の文庫本もありますが、これは是非、単行本を入手して、お読み下さい。教科書や、これまでの学校教育での古代史を根底から覆す内容の名著です。

———————————————————————————-

文化藝術懇話会(64a

時: 2019-03-29(金)18.00-20.00

所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011号(パーティR

人: 1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった、朝日新聞社

◯書名:古田武彦/「邪馬台国」はなかった解読された倭人伝の謎、朝日新聞社

*あったのは、「邪馬壹国」(やまいちこく)(紹熙本、ショウキ)

*これ以前、邪馬壹國/史学78-9

1971邪馬台国は無かった、

1973失われた九州王朝、

1975盗まれた神話など)

—————————————————————————————

(雁註)(まとめ)僭越ですが

序章

・原文を改定してはならない *恩師・村岡典嗣* (1884-1946)(つねつぐ)

・筆跡の筆圧曲線

・学問の論証は単純であること。説得力をもち、ハッキリと理解されるもの

・それは「邪馬台国」ではなかった

・「壹」(いち)と「臺」(だい)

戦争前、長澤規久也さん(1902-1980)が、上海の商務印書館・涵汾樓で研究・調査の際、「紹興本」の写真版を入手。

・紹興本(1131-1162)(しょうこう)

・紹熙本(1190-1194)(しょうき)

この写真版が流布してしまった。「紹熙」本(実は咸平本(998-1003)の重刻、従って紹興本より古い)が入手できなかった。その後、張元済/百衲本により、「紹熙」本(宮内庁書陵部)が紹介された。世界に一冊しかない孤本である。

(雁註)影印(紹熙本)をご覧いただきたい。「邪馬壹國」と刻記されている。(紹煕本)(実は咸平本の重刻)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(雁註)

中書門下 牒 蜀志 咸平六年十月二十三日

(雁註)魏志の末尾、つまり蜀志の巻頭に牒 1003(咸平六年)、最古の魏志

である。

(雁註)「邪馬壹國」と刻記されている本は孤本、宮内庁書陵部。研究者でも、これまで紹煕本の入手が出来なかった。

仕方なく、長澤規矩也先生が上海の涵芬楼で入手した「紹興」本「邪馬臺國」を紹介した。これが豪華本に掲載され、国内で流布した。

(雁註)「邪馬壹國」と刻記されている本は孤本、宮内庁書陵部。研究者でも、

これまで紹煕本の入手が出来なかった。仕方なく、長澤規矩也先生が上海の涵芬楼で入手した「紹興」本「邪馬臺國」を紹介した。これが豪華本に掲載され、流布した。

(雁註)目録巻第三十の東夷、この九番目に「僂韓」と書かれていて、ここが倭人傳になっている。「僂韓」、この言葉は今まで聴いたことがない。

・焼けない文字、これは金石文の字体を調べた。両者

(「壹」と「臺」)の取りちがえは全くなかった。

・三国志全体で、いち「壹」は86個、だい「臺」は56個。

・中国の学者は誤解、文脈の読み誤り。人名の聖「壹」を聖「臺」だろうと考えた。しかし、長男の名前は「壹」を使っていた。

・裴松之(372-451)の注は、慎重。*天子の詔を奉じて諸異本を校合していた。邪馬壹を確認していたはず。

・范曄 (398-445)/後漢書 邪馬「臺」国  *陳寿の三国志は、より古い時代に書かれている。

(雁註)范曄は、「邪馬壹」(やまゐ)の卑弥呼(ひみか)を魏の臣下の王朝と位置づけ、邪馬臺と記したか。

「魏略」(三国志と同時期)にも「邪馬「臺」国 」は存在しなかった。

・「臺」(だい)は魏「臺」(ぎだい)のように、王朝を意味する。天子の象徴。

・李賢・注:後漢書(邪摩惟、やまゐ)で

・北畠親房(1293-1364) 神皇正統記で「邪麻堆」と原文を改定

・瑞溪周鳳(1392-1473) *九州説を最初に唱えた

・松下見林(1637-1703) 異称日本伝

「邪馬臺」を「ヤマト」(大和)の和訓として書いている。邪馬壹國を邪馬「臺」國と改定

「臺」(ダイ)は「ト」と読めない。また「臺」と「台」は別字。

・新井白石(1657-1725) *見林を盗用 筑後山門説の創始者

・白鳥庫吉(1865-1942) 邪馬臺国 東京大学

・内藤湖南(1866-1934) 邪馬壹は邪馬臺の訛なること云々 京都大学

  • いわゆる「共同改定」批判
  •  東治 *東冶(とうや)の誤り 「東治が事実」 范曄は、呉の260(永安三年)の分郡を見落としていた

260(永安三年)以前は会稽「東治」 以後、建安「東冶」

・断髪文身、以て蛟龍の害を避く。 呉の太伯

  •  景初二年 *景初三年の誤り 「景初二年」が事実

238(景初二年)十二月、明帝は崩ず 239(景初三年)十二月、改元、240(正始元年)

3 対海国 一大国 *対馬国の誤り *一支国の誤り 「対海国」が事実 「一大国」が事実 カン海 馬韓に「対」する意、

  • 身勝手な「各個改定」への反論

南宋*(なんそう)の紹熙本  *劉祐が建国

南→東 原文改定 成立しない。

陸行一月 →陸行一日 成立しない。

・榎一雄 伊都国を起点として放射状 唐代の六典によると、歩行一日五十里 *漢魏の里数 白鳥庫吉の弟子 倭人からの伝聞で逃げる

・三国志 159個の里 二点間、1000-2,000里 4000-6,000里

漢(1-3世紀の里は414m

魏(3世紀・西晋の里は75m

唐(7-10世紀の里は559m

  • 「邪馬壹國」の探求

「階段式」読法 「乍…乍」  漢文では、たちまち…たちまち…

「道行」読法

最終行程0の論理

「島めぐり」読法 島(周囲)を半周

邪馬壹國の所在地

・博多湾にのぞむ平野の一角に女王の宮室があり、楼観があり、城柵が存在していた。

(雁註)博多湾に博多、最大都市があり、かつてもそうであった。しかし、女王の宮室、楼観、城柵は、吉野ヶ里の地域ではなかったか。

・邪馬壹(やま、やめ)、つまり八女(やめ)のが中心ではなかったか。

・好古都、はかた、と読んでいる。

・奴国、「の国」「な国」

類縁地名は何処にでもあるので、地名比定を先にしてはならない

卑弥呼の墓 径100歩 1里=300歩=75m 従って1歩=25cm  100歩=25m

*100歩が神聖なる墓域として適切であると考えられていた。

1 卑弥呼以前、これほど大きな墓(25mの径)はなかった

2 魏の王墓制に準じて造られた

  •  古墳の原初的な存在

280s陳寿(233-297)/魏志

290s魚豢(240s−290s)/魏略 *魏略は相当、酷い改変を受けている。*ぎょけん

660張楚金(630s-700s/翰苑

奴(の、ぬ)国:糸島半島の前原(まえばる)および周船寺(しゅせんじ)間の付近

・水行(10日行程)4,500里  1日450里=450×75=33,750m  33km

魏晋朝 車駕(貴人、将吏)   1日300里=300×75=22,500m  22km

・陸行(1月肯定  7,500里   1日250里=250×75=18,750m       18km

・歩行             1日200里=200×75=15,111m        15km

「2万人」奴国(福岡県の西、糸島)と「7万人」邪馬壹國(福岡県の東、博多)

  • 「邪馬壹國」の意味するもの

壹:天子に対し二心なく、相相(まみ)える意

*五服、六服、九服の制、夷蛮統治の基準

弐:憎悪された意

邪馬壹國(やまゐ)

委+イ=委の人の意であったが、のち「わ」の発音が生まれた

・漢字による原音表記の多様性のため、絶対的な確かさは保証されない。

・金印「漢委奴国王」:かんの・ゐど・こくおう

漢書の注:1 如淳(魏) 2 臣讃(晋) 3 顔師古(唐)

・如墨委面:墨は墨刑 鯨面(かおにいれずみ) 1 異面 2 倭人の顔 3 礼物を君前に致して臣となる

・鯨面の倭人が天子に対する礼を守り、歳時貢献している。

白石、宣長は、邪馬臺をヤマトと読み、奈良大和国とした。同音地名で、筑後山門

  • 新しい課題

経典の翻訳に卑字は見られない。

252康 僧鎧/大無量寿経

384-417鳩摩羅什/阿弥陀経

424-453畺良耶舎*/観無量寿経  きょうりょうやしゃ *劉宋

孔子の予言:中国に礼が失われても、東夷にかえってそれが伝えられる。

(古田)帰結

倭国は、九州北岸に首都をもち、朝鮮半島の南岸を領有し、朝鮮・対馬・壱岐の三海峡をつつみこむ形の海峡国家であった

あとがき

(雁註)三国志・評点本によると、壹與が247(正始8)、朝貢した記事は下記のように評点がある。

「壹與は倭の大夫率善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし…男女生口三十人を献上し、白珠五千、孔青大句珠二枚・異文雑錦二十匹を貢した。」

(雁註)「白珠五千」、ここで句読点。それから「孔青大句珠二枚」…となっている。白珠五千であるから、珠に孔(あな)があっては意味をなさない。また、これまで大「勾」珠二枚と活字化されているが、原本は大「句」珠である。編者が原文とは違う勾玉にした。(石原道博ほか)

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator

浮世絵・酒井好古堂   http://www.ukiyo-e.co.jp

✔️浮世絵学 古田武彦 九州王朝

[浮世絵学]文化藝術懇話会    浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

———————————————————————————————-

1975石原道博/訳註中国正史日本伝、国書刊行会

*これは史料を原典から訳した最善の本です。

*ただし、訳註は原文(影印、写真版)と違うところがあり注意を要します。

*人名、地名、官職、件名など、索引も付いている。ただし、読みは当時の発音が不確定のため、推定。

*倭、日本伝が、下記に含まれている。

3 4 5 6 7 8 14 15 13 16 17 20 23 25 26 28

 

1  BC91司馬遷(BC145c-BC86c)/史記  前漢   シバ・セン

420-589裴駰/史記集解      宋(六朝)ハイ・イン  *シッカイと読む  劉宋

730s司馬貞(679-732)/史記索陰      唐    シバ・テイ

736張守節(?-?)/史記正義        唐    チョウ・シュセツ

   1932-1934瀧川龜太郎/史記考証、東方文化学院東京研究所  しきかいちゅうこうしょう

2  82班固(32-92)/漢書        後漢   ハン・コ

3  445范曄(398-445)/後漢書*      南朝・宋 ハン・ヨウ  *成立は三国志の後

4  280s陳寿(233-297)/三国志      西晋   チン・ジュ  *三国志 正史

・王沈(?-266)/魏書                 オウ・シン

・魚豢(190s-270s)/魏略              キョ・カン  「キョ」の読み

・韋昭(?—273)/呉書                イ・ショウ

・裴松之(372-451)/注          南宋   ハイ・ショウシ

*これらの注により、羅 貫中(1330?-1400?)/三国志演義が書かれた。史実七割、虚構三割と言われている。蜀漢正統論の立場で、劉備を善、曹操を悪と色分けし、張飛中心を関羽中心に置き換えている。

・盧弼(1876-1967)/三国志集解           ロ・ヒツ   *注を集大成した、集解(しっかい)と称する

5  648房玄齢(578-648)/晋書      唐    ボウ・ゲンレイ

6  488沈約(441-513)/宋書*       南朝梁  シン・ヤク *倭の五王

7  530s蕭子顕(489-537)/南斉書     南朝・梁 ショウ・シケン

8  636姚思廉(?-637)/梁書       唐    ヨウ・シレン

9   636姚思廉(?-637)/陳書     唐    ヨウ・シレン *南朝最後の王朝

10  554魏収/魏書 北斉   ギ・シュウ

11  636李百薬/北斉書      唐 リ・ヒャクヤク

12  636令狐徳棻/北周書 唐 リョウコ・トクフン

13  656魏徴(580-643)/隋書*       唐    ギ・チョウ *阿蘇山が書かれている。

14  659李延壽(?-?)/南史      唐    リ・エンジュ

15  650-683李延壽(?-?)/北史       唐    リ・エンジュ

16  945劉昫(887-946)/旧唐書*       五代晋  リュウ・ク  *クトウジョ

17 1060宋祁(1007-1061)/新唐書      宋    ソウ・キ

18 974薛居正/旧五代史 北宋 セツ・キョセイ

19 1053欧陽脩/新五代史 北宋 オウヨウ・シュウ

20 1345脱脱(1314-1355)/宋史 元 トクト

21 1345脱脱(1314-1355)/遼史 元 トクト

22 1345脱脱(1314-1355)金史 元 トクト

23 1370宋濂(1310-1381)/元史 明 ソウ・カン

24* 1723王鴻緒(1645-1723)/明史 清 オウ・コウショ

24 1739張廷玉(1672-1755)/明史 清 チョウ・テイギョク

25 1919柯邵忞(1885-1933)/新元史 民国 カ・ショウビン

26 1723王鴻緒(1645-1723)/明史稿     清 オウ・コウショ

27 1927柯邵忞(1885-1933)/清史稿   民国 カ・ショウビン

28 1927趙爾巽(1845-1927)/清史 民国    ショウニ・ソン

28* 1960張其□(1900-  )/清史 民国 チョウ・キキン

 

(雁註)三国志魏志(紹熙本)(百衲本)(宏業書局、縮印)を古書で入手したので、添付します。大きい文字が本文、小さい文字は注。裴松之・注は陳寿にない事柄も書かれている。これを題材として、羅貫中が、史実でなく、物語として三国志演義を描いた。蜀の劉備、関羽、張飛、諸葛孔明など、英雄豪傑の活躍と運命が記されている。

——-

1972陳寿/三國志/紹熙本、(裴松之・注)、宏業書局

 

 

 

 

(雁註)通常の三国志の訳註では、p.858の「…二十匹」まで。評曰、魏略、以下は解説なし。

 

290s陳寿(233-297)/三国志魏志(紹熙本)(百衲本)に邪馬「壹」(ヤマイチ)と刻記されている。

432c范曄( 398-445)/後漢書、邪馬「臺」國。理由を述べず、「壹」(イチ)(三国志)を「臺」(ダイ)と置き換えた。

*998-1003(咸平本カンペイ本)*紹熙本は咸平本の重刻

(雁註)古田先生、北宋咸平六年の牒(チョウ)を紹介しておられるが、「中書門下 牒」「蜀志」「牒奉」、三国志全文検索でも表示されない。牒は正規の官文書。

*1131- 1162(紹興ショウコウ本)、紹熙本以前に刊行されているが、恣意的に改定されて、信頼できない。

*1190-1194(紹熙ショウキ本)、張元齋(1867-1957)らが、写本、版本など諸本を集めて、慎重に校訂し、最善の底本を刊行した。現在のところ、三国志に関しては、この紹熙本が陳寿の自筆本に最も近い最善本である。

*紹熙(ショウキ)本 宮内庁書陵部が所蔵。もう一本は、中国の個人所蔵である。これは咸平本の重刻。咸平(かんぺい)は北宋998-1003。従って、紹興本よりも古い陳寿の自筆本(もっとも、これは無い)と同等の信頼おける文面。

*三国志 全文検索 ここに必要な単語を入力すれば、すぐに検索できる。

http://www.seisaku.bz/search/search.php?word=%E5%85%B6%E9%A4%98%E6%97%81&mode=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&taisho=honbun

三国志以前の史書、

1 BC91c司馬遷(BC145c-BC86c)/史記(しき)

2 80c班固(32-92)/漢書(かんじょ)

3 280c陳寿(233-297)/三国志(さんごくし)(紹熙本) *後漢書の成立は、三国志以後

p.854    陳寿/三国志、紹熙本    邪馬壹国

赤線は前の持ち主が書き込んだもの。やはり、この邪馬壹國を丹念に調べている。赤のボールペンのため、消すことができなかった。コピーを取り、書き込むようにするのが愛書家の義務である。

古田先生の「邪馬台国はなかった」は、日本古代史の画期的な名著である。邪馬台国論争を巻き起こしたと言っても過言ではない。

古田先生は、親鸞の研究、親鸞の自筆本の「巒」を最初の自筆と確定し、「鸞」は後のものと判定した。

邪馬台国の研究でも同様、三國志の魏志東夷倭人傳は、邪馬「壹」となっていることを確定した。

邪馬台また邪馬臺は、後代の改定(432c范曄/後漢書)であると確認。もともと「台」と「臺」は別字である。もっとも范曄は、魏の臣下としての卑弥呼の王朝として邪馬「臺」と表したとも考えられる。しかも、邪馬壹が「ヤマウィ」の訛り云々としていが、「臺(ダイ)」は「ウィ(ヰ)」と読むことはできない。

・邪馬壹の文字が示すように邪、馬、共に卑字、特に馬の字は(馬に悪いが)悪いもののたとえ。

・馬の呉音はマ、メ。すると当時、倭(ゐ)の人が何と発音したのか分からないが、邪馬壹國、ヤメと発音していた可能性もある。すると、現在の八女(やめ)か。岩戸山古墳がある。

・陳寿/三国志、紹熙(ショウキ)本によると。*「三国志 全文検索」で簡単に表示される

又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戶。自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里。

・新井白石は、邪馬「臺」國(臺は誤認、誤記)は上記に記されているよう、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の北九州であると述べている。最初、奈良近畿説、後に、北九州説へ。

・「狗邪韓國–邪馬壹國」間の九國。

・自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。

・次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。

・此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里。

(雁註)「…遠絶、不可得詳。」の國々は、此処で切れる。そして「次有斯馬國… 。」つまり以下の国々は邪馬壹國内で、実際に行った國々となる。そのため、「好古都國」(はかた)が記録されている。当時の「國」の基本的概念を再認識する必要がある。國と書かれているが、現在、使われている國の意味ではなく、かなり小さい県(あたが)以下の町(マチ)の意で國を使っている。この意味で、「好古都國」(ハカタ。マチ)と記されているのである。

・魏朝の三国志の頃、一番大きい地理単位は、州(しゅう、くに)、郡(こおり)、県(あがた)、國(くに)、家、戸。しかし、これらの「國」は、現在の市、町、村に相当する。郡県制のように、古代は郡が大きく、県は小さい。そして國は更に小さい。

・これらの國々の内、「好古都國」は「はかた」と中国人が発音していた。すると、これらの町、村などは殆ど、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後(福岡県、大分県、佐賀県)になる。邪馬國という地名もある。つまり、

・邪馬(ヤメ、八女)が首都か。太宰府の成立は、七世紀後半。当時の中心地区は邪馬(ヤメ、八女)。

p.855    陳寿/三国志、紹熙本  東冶之東 *古田先生、東治の誤記

(雁註)古田先生、原本「東治」と書かれているが、本書「東冶」となっている。これは、どのような事情があったのか不明。

陳寿/三国志、紹熙本  卑彌呼(ヒミカ)

p.856

(雁註)赤ペンは、前の持ち主が引いている。ペンのため、消す事ができない。

卑彌呼(?-247c)、これまでヒミコと読んでいたが、古田先生は「呼」は「カ」、ヒメカではないかと。「狗」(コ)と区別している。

三国志30 魏書30 烏丸鮮卑東夷傳第三十

立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國….

(雁註)237景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、…鬼道を事(つかえる)。能(よ)衆(しゅう)を惑わす。

(雁註)卑弥呼は、狗奴國の男子の王・卑弥弓呼と不和であり、戦闘となった云々。この男子王の名前・「卑弥弓呼」は、これまで、「狗古智卑呼」と何のような関わりあいがあるのか不明。

247正始八年、…卑彌呼以死。

(雁註)この戦闘で卑彌呼は戦死したか。

1971古田武彦(1926 – 2015)/「邪馬台国」はなかった、朝日新聞社

古田先生は、犀利、精密な論証、分析で、誰でも理解できる日本列島の古代を明らかにした。

もっとも、この結論に行き着くために苦難、苦闘の連続であったと。

つまり九州王朝は、662白村江(はくすきのえ、朝鮮半島)の前後から次第に勢力を弱めていった。これ以前の記録は、風土記を含めて、すべて九州王朝の歴史である。

(雁註)表紙は、福岡県早良町白塔出土の銅戈(弥生後期、三世紀)に鋳でされている当時の倭人(ゐひと)の顔。拡大して、銅版画にしたもの。委面(鯨面、異面)の刺青が描かれている。

(雁註)1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志 全3/世界古典文学全集。筑摩書房

p.305  邪馬壱[やまたい]と書かれていたので、ガッカリ。これは原文と違っている。原文に振りがねを付ける場合、必ず括弧をすることが原則であるが、勝手にフリガナを振っている。壱(壹)を「たい」とは読まないし、読めない。

原文は「邪馬壹」である。後漢書は、邪馬「壹」を邪馬「臺」と改定。

p.306 1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志

好古都国[こうこと]と振仮名があるが、これは「こうこと」、つまり「はかた」と読む。中国人が、そのように発音していた。伊都國まで来て、近くの博多を知らなかったとは考えられない。古田先生は、博多湾岸が邪馬壹国の中心であると論証している。

p.306  1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志

会稽や東冶[とうや]…。。ここでは原文「東冶」となっていて、古田先生と違っている。

p.307  1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志

景初二年(237)…   これは原文通りである。

しかし、魚豢*(きょかん)/魏略、評などの全文も書き下してあり、参考になる。

*ふりがな、「きょかん」とあるものもあり、日本語の読みは分からない。


浮世絵学(支那學・金印「漢委奴國王」)2019酒井雁高/「委奴」の新解釈(真解明) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/39091

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64a)1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった 魏志(影印)九州王朝* 帰結、ずばり「邪馬台國」は九州(阿蘇山があるので確定) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/36642

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会65)1971古田武彦/失われた九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37294

世絵学(支那學・文化藝術懇話会66)1975古田武彦/盗まれた神話 九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/36655

浮世絵学(支那學・九州年号:卑弥呼、応神王朝、仁徳王朝、筑紫磐井君、継体王朝、欽明王朝、多利思北孤)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人 
http://www.ukiyo-e.co.jp/26571

浮世絵学(支那學・九州年号:九州王朝の系譜)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人 
http://www.ukiyo-e.co.jp/39816

浮世絵学(支那學・經籍籑詁)1798阮元/經籍籑詁ケイセキセンコ 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37727

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)280s陳寿(233-297)/三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/38052

浮世絵学(支那學・漢文研究法)1913狩野直喜/漢文研究法 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37653

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64b)280s陳寿(233-297)/魏志(三國志) 656魏徴(580-643)/隋書 邪馬台国 帰結、ずばり九州(阿蘇山と書かれている)(古田武彦/九州王朝*)酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37460

浮世絵学(支那學・原字)(げんじ)、甲骨文、金文、石鼓文の原文字の意 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/11568

浮世絵学13/中国古典文学(金文)青銅器_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/11374

何か御気付きの点があれば御教示ください。
酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂 浮世絵鑑定家 [浮世絵学] 検索 http://www.ukiyo-e.co.jp
SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e
文化藝術懇話会
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678
E-mail: gankow



アーカイブ

コレクション

新着情報・新着コレクション