浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会65)1971古田武彦/失われた九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/37294
ホーム > 浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会65)1971古田武彦/失われた九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/37294

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会65)1971古田武彦/失われた九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/37294

1982-05-24現在(2019-07-26更新)  ✓検索 浮世絵学 ◯◯  http://www.ukiyo-e.co.jp/37294
酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)   http://www.ukiyo-e.co.jp
SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e
Sakai Kohkodou Gallery, the oldest gallery of ukiyo-e in Japan

◯浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)支那學・研究一覧(邪馬台国、帰結)三國志(魏志)と隋書 古田武彦 九州王朝* 帰結、ずばり九州(阿蘇山と書かれている)(古田武彦/九州王朝*)酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/37595

◯浮世絵学04/外題(三国志展、東博)三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/40771

◯1973古田武彦(1926 – 2015)/失われた九州王朝、朝日新聞社

時:2019-04-25(木) 予約完了。

所:淡路町ワテラス2011号室(パーティルーム)

人:1973古田武彦(1926 – 2015)/失われた九州王朝、朝日新聞社

*「邪馬台国」はなかった、続く古田先生の九州王朝 天皇家以前の古代史

これも、日本古代史を根底から覆えす画期的な著作です。ぜひ、単行本(字が大きい)を買って、ご一読ください。

◯浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64a)三国志(影印)1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった 九州王朝* 帰結、ずばり「邪馬台國」は九州(阿蘇山があるので確定) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/36642

◯浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)(65)1973古田武彦/失われた九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/37294

◯浮世絵学(支那學・九州年号、九州王朝)1973古田武彦/失われた九州王朝 百問百答ほか 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/27362

 

序章 連鎖の論理

古代中国の目

「後漢書」の立場

「隋書」と「旧唐書」の立場

日本列島の二つの王朝

連鎖の論理

逆立ちした池内理論

第一章 邪馬壹國以前

1)志賀島金印の謎

・金印に関する「定説」

・印文のルール

・悪適尸逐王

・滇王の印

・匈奴と委奴

・光武帝の先例

・金印の研究史を遡る

・「委奴=大和」説

・「委奴=伊都」説

・三段細切れ読法の三宅説

・三宅説への反論

・伊都国説への批判

・陳寿の目

・再び三宅説について

・極南界とは?

・范曄の真の錯覚

・「大夫」の証言

・帰結

・金印の役割

・倭国の時間軸

2)邪馬壹國より邪馬臺国へ

・卑弥呼の国と「邪馬台国」

・「後漢書」の邪馬臺国

・臺の変遷

・范曄の改変動機

・邪馬壹國と邪馬臺国との間

・日本の文献でさえも

・輪臺

・呼び名の統一

・「伊都国」の意味するもの

・郊迎の地

3)いわゆる魏晋鏡と上代音韻

・魏晋鏡

・富岡理論

・富岡理論の源流

・いわゆる景初三年鏡

・それは後魏の石碑銘

・第二の謎

・「正始元年鏡」もあやしい

・二種類の「ト]

第二章 「倭の五王」の探求

1)「倭の五王」とはどこの王か

・倭の五王とは?

・「履中」説の矛盾

・「仁徳」説の矛盾

・「武」の亡霊

・錯誤の原因ー人名比定

・奄[とも]に父兄を喪う

・説話の虚実

・六代の平和

・「日本書紀」の場合

・百済の武寧王碑

・大倭の証明

・交錯の論理

2)五王の正体

・記紀の二倍年暦

・二倍年暦はどこで終わる?

・なぜ中国風の王名か

・字名を自ら名のった

・中国風名称への転化

・和風と中国風との間

・壹與の鎖

・匈奴の単于名

・倭と壹の文字

・邪馬壹國の名はいつ成立?

・壹與朝貢の時期

・陳寿執筆時の倭王は女王か男王か

3)七支刀をめぐって

・七支刀銘文解読の歩み

・献上か下賜か

・王と侯王

・倭王旨とは?

・流伝の道

・横刀と大鏡

・いつ石上神宮に入ったのか・

4)「分国論」と倭の五王

・海北の国

・分国論と倭の五王

・人名比定の軌跡

・「宋書」倭国伝の解読

・毛人と衆夷

・畿を遐[はる]かにす

・秦韓と慕韓

第三章 高句麗王碑と倭国と展開

1)碑文改削説の波紋

・高句麗好太王の巨碑

・改削されたという文字

・承人の目

・京都より東京へ

・まぼろしの「解読謀議」

・実体不明の「緘口令」

・真相の鍵-「碑文之由来記」

・「強迫」の報告書

・酒匂筆跡の探求

・白昼夢

・玄室の実測

2)碑文解読と倭の歴史

・”浅き者の妄読”

・親征の王者

・渡海作戦

・文脈の論理

・「来」の背景

・金の武断

・倭の正体

・倭国の全史

3)「日本書紀」の証言

・「貴国」とは?

・「貴国」はどこか?

・貴倭の女王

・「改定」の書写者

・明白な証跡

・「晋の起居注」の内実

・重ねて「貴倭」とは?

・基山と基肄城

4)「隋書」俀(たい)伝の示すもの

・日出づる処の天子

・「北」と「比」

・自撰の署名

・疑いの山

・違和の国交

・阿蘇山と如意宝珠

・筑紫への道行き

・俀(たい)と倭の間

・倭国と推古紀

・二つの道

・東方孤立の王者

・東西五月南北三月行

・「日出づる処」

・俀(たい)国の由来

・二人の天子

・菩薩天子

第四章 隣国史料にみる九州王朝

1)磐井の「反乱と滅亡」

・誰と誰とが死んだのか

・平子説と喜田説

・わたしの視点

・日本という国号

・天皇の称号

・いわゆる「磐井の反乱」

・一王朝の全面的敗北

・社稷(しゃしょく)の存亡

・「反乱」の大義

・占領地分割案の示唆するもの

・古老、伝えて云う

2)二つの王朝

・倭と日本

・「旧唐書」の日本国

・「旧唐書」の史料価値

・二つの「実」

・倭国と日本国の境界

・代表王者は、いつ交替したか

・不明の学問僧たち

・泰山の召集(p.375)

665(麟徳二年)八月以後、是に於て仁軌、新羅・百済・耽羅・倭人の四國の使を領し…

封禅(ほうぜん)の儀に出席しているのは倭であって、近畿奈良王朝は参列していない。665天智4(日本書紀)に対応する記事ない。

・唐からの使者

・二つの施設団

・年代の誤差

3)九州年号の発掘

・「海東諸国記」

・日本側の記録

・「襲国偽僭考」

・明治の学界

・昭和の学説

・わたしの論証

・公権力別在の証明

・僧聴という年号

・発倒とは?

・「兄弟」と「煩転」

・九州年号の最終証明

・九州年号研究史の問題性

4)仏教伝来と任那日本府

・戊午と壬申

・編者の選択

・「仏教伝来」の論証力

・任那日本府とは

・三面の史料

・「日本府」架空説

・「三国史記」の史料的性格

・日本兵、国に還らん

・朝鮮側からみた「倭と日本」

・珠玉の説話「堤上」

・死を誓って倭国に向かう

・「三国遺事」の描く「堤上」悲話

・君は逃れよ、我は留まる

・悲痛な説話の語るもの

第五章 九州王朝の領域と消滅

1)九州王朝の黄昏

・百済王子の人質と九州王朝

・筑紫の君、薩夜麻三十年ぶりの帰国

・葛城襲津彦と沙至比跪

・白雉と朱鳥

・蝦夷国

・「会丞」のエピソード

・残映

2)二つの金石文

・人物画像鏡

・福山氏の判読

・水野-井上説

・「寿」ではなく「泰」

・両者は対等の位置

・開中費直とは

・穢人今州利

・使者の性格

・大王と男弟王

・兄弟王朝

・大王の名

・わたしの論証

・「オシサカ」か「イシサカ」か

・無称号の理由

・天智称制の場合

・男弟王の特定力

・どのようにして伝来したのか

・船山古墳の太刀

・□でなく、獲

・金錫亨の解釈

3)九州王朝の領域

・漢代に始まった九州王朝

・三十国の領域と青銅器文化圏

・狗奴国の拠点

・范曄の狗奴国観

・狗奴国の地名比定

・邪馬臺国の領域

・遷都論

・読者に

4)結び-三つの真実

一、仮説について

二、「豪族」について

三、滅亡の原因について

あとがき


僭越ではあるが、ざっと纏めてみた

文化藝術懇話会(65)
時: 2019-04-25(木)18.00-20.00
所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011号(パーティR)
人: 古田武彦/失われた九州王朝、朝日新聞社

◯書名:古田武彦/失われた九州王朝、朝日新聞社
1971邪馬台国は無かった、
1973失われた九州王朝、前二世紀から七世紀まで、倭国とよばれ、中国に朝貢していたのは、卑弥呼を含む連綿たる九州王朝だった。それは近畿の天皇家に先在した 数々の古代史の矛盾と謎がここで明快に解きほぐされた。ユニークな視点と細密な論証が鋭く歴史の書き換えを迫る…
1975盗まれた神話など *次回、5-30予定

——————————————————————————————————————————-

◯1973古田武彦(1926 – 2015)/失われた九州王朝、朝日新聞社
はじめに
「古事記」、「日本書紀」の通念で、こじつけない。読み替えない。「邪馬臺」(やまたい)→「やまと」と、読み替えてきた。「臺」(タイ)に「ト」の音なし。
中国史書、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」、「宋書」、「隋書」など、原文のまま、一字一句をそのまま読み考える。
学者にならず、専門家にならず、いつも愚かな一人の素人として求めつづけることだった。

序章 連鎖の論理(p.2¸)
・古代中国の目 前二世紀から七世紀に至る「倭国」は連続した王朝。
・「後漢書」の立場 韓(から)の東南 五世紀の南朝劉宋:楽浪郡、帯方郡は滅亡していた。一、二世紀の後漢は五世紀当時の事実を反映
・「隋書」と「旧唐書」の立場 隋書の俀国(たいこく)
・日本列島の二つの王朝 「旧唐書」(くとうじょ) 「倭国」と「日本國」 二つになっている
648(貞観二十三)以前、「倭国」
703(長安三)「日本」:其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以って対えず。故に中国、焉(こ)れを疑う。
日本国は倭国の別種なり。其の國、日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或は曰う、倭國、自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為すと。或は云う。日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。
・連鎖の論理:卑弥呼の国は、九州博多湾岸に存在した王朝である…結論。

第一章 邪馬壹國以前
1 志賀島金印の謎(p.16)
・奴(ぬ、な)国…、那珂川(福岡市域)ではなく、糸島郡の平野部。博多湾岸こそ、女王の居城する邪馬壹國の中心領域である。
・印文のルール すべて二段国名。「委奴」を「伊都」と読むことはできない。一世紀に倭人の中心地国であった可能性は認められない。
邪馬壹國=博多湾岸=倭國の中心

(雁註)好古都、中国音で、「はかた」と発音している。
・匈奴と委奴

(雁註)委(ゐ)の人々(奴)の意で、「委奴」
・范曄/後漢書、漢–魏–西晋 里単位を長里で記述している。漢の長里だと、六倍の長さ
・「大夫」(たいふ)の語: 証言「夏・殷・周」の古制 「卿・大夫・士」の名にならった
・「委奴」を「伊都」と読むことはできない。伊都國は倭人の中心国であった可能性は認められない。
邪馬壹國=博多湾岸=倭国の中心
・帥升(すいしょう) 男王で王名の確かな最初の王者である。

2 邪馬壹国より邪馬臺国へ(p.47)
・五世紀、范曄は何故、邪馬臺(やまたい)国と書いたか。宮殿名に◯◯臺(ダイ)。臺(ダイ)に「ト」という音はない。
・316(建興四)西晋の滅亡。匈奴の劉曜により、長安の都(洛陽より304に遷都)が滅ぼされて、晋朝の一族・司馬睿(276-322)(しばえい)は、かろうじて建康(後の南京)に東晋を創立した。蛮夷が中原を占拠して、五胡十六国と言われる時代となる。それぞれ天子を称して、臺を建設した。このような情勢で、倭国の邪馬壹国に邪馬臺国の名が現れても不思議ではない。
・「臺」と「台」、全く別字。「台」は「ト」と読めない。
・伊都國の意味するもの 表音、表意の結合
・卑弥呼の「卑」:へりくだる
・「邪」馬壹国の「邪」:疑問の助字 夷蛮の国々の中で、遠方より朝貢してきた神秘の女王国に対して、ふさわしい文字用法
・壹=倭(ゐ)であるので、臺=大倭(たいゐ)=タイの現地音表記とみられる。七世紀に=俀(たい)。(p.59)

(古田)諸橋を牽き、漢語の一字、二字の熟語を徹底的に調べる。

・伊都(イト)の「都」は、その地そのものを都とみなしているのではない。邪馬壹國を指している。伊都とは女王の都に遠からず、伊邇(これちかし)たる地という意味をもっている。伊闕(いけつ)が宮闕の存在する当の地でなく、洛陽という宮闕の地に隣接した関塞(かんさい)であったのと同じだ。
・郊迎(こうげい)の地 「郊」は天地を祭る地 伊都は郊迎の地、祭天の地ではなかったか

3 いわゆる「魏晋鏡」と上代音韻(p.72)
・「三角縁(さんかくえん)神獣鏡」 200枚以上、発見されている。

239(景初三年十二月)、魏鏡、明帝の詔書とされているが…
・富岡謙蔵、小林行雄  漢・220魏・266西晋・420南朝劉宋(劉裕リュウユウ)・489北魏(南北朝)589隋 *隋により、南北朝は終結
・東王父・西王母思想の盛行したのは、220s-580s南北朝。しかし、既に漢代にある。
・末永雅雄  羅振玉の魏碑、後魏、すなわち北魏(386-534)また東魏(534-550)、東魏(535-556)の石碑
・三世紀の鏡と誤断した。埋葬者は、景初三年鏡だけ、棺外の粘土の中に放って置かれていた。もっと新しい鏡と考えていたから。
・「□始」元年鏡 「□始」は中国年号で、19もある。魏の「正始」、晋の「泰始」と決めることは難しい

第二章 倭の五王の探求
1 倭の五王とは、どこの王か(p.98)
・沈約(シンヤク)(441-513)/宋書 禅譲(帝王が平和的に譲る)で朝廷文書を活用できた
・天皇名(他国)を一字だけで表示することはない。
・倭王武の上表文:奄(ともに)父兄を喪い、(p.109)
・日本書紀は百済系史料(「百済記」、「百済新撰」、「百済本記」*)を挿入。古事記は挿入されていない。*百済本紀とは別
・倭の女王(卑弥呼):神功皇后に見せかけている。「卑弥呼」という実名は出さないで、神功皇后に置き換えた。
・百済の武寧王(462-523)碑 石製の墓誌の出現
・其の大倭王、邪馬臺国に居す
・壹與(倭與) 倭は「姓」+「中国風一字名」 倭人伝の現在の女王は壹與
・三世紀の名称。陳寿/魏志: 邪馬「壹」國の表記は何時か。執筆時点(西晋)晋朝の天子の正当性という大義名分
・五世紀の名称。范曄/後漢書の邪馬「臺」國:

2 五王の正体(p.125)
・記紀の天皇寿命 (p.126¸)
・記紀の二倍年暦 531継体紀以前は、二倍年暦になっている。倭王武は雄略天皇とは全く関わりがない–帰結。
・中国は、宋書で、夷蛮王名を中国風の一字名称に書き換えていない。現音のまま、五字でも七字でも表音表記されている。
・部族風名称+中国風名称
・倭讃 倭を姓として用いている 壹與=倭與

3 七支刀をめぐって(p.154)
・解読の歩み 泰和
献上説、下賜説も、ともに根拠がない。百済王は倭王と対等の立場に立っている。「供供」の表現は丁重の辞。(p.167)
為倭王「旨」造:倭「旨」は倭「與」(三世紀後半の壹與)と倭「讃」(四世紀末~五世紀初頭の倭)との中間に在位した倭王
・七支刀は、はじめ倭王「旨」の都する國、すなわち九州北部に伝えられていた。710-720記紀が成立した七世紀以後、天皇家に献上され、天皇の神庫たる石上神宮に収蔵されることとなった。
・横刀と大鏡 阿知吉師が横刀および大鏡をもってきた。
・七枝刀と七子鏡(日本書紀)、久氐たち、複数の使者によってもたらされている。両者は別の事件
結論を要約(p.183)
・710-720記紀成立時点において、七支刀は天皇の神庫(石上神宮)には存在しなかった。
・その時点以後、七支刀は伝承し存在していた國より献上せられて、天皇の神庫に収蔵された。
・七支刀伝承、存在の國こそ、倭王「旨」の國、すなわち九州王朝の地にほかならない。

4 分国論と倭の五王(p.184)朝鮮半島を海北として、言い切った倭王武。
この王の都は近畿大和ではない。九州北岸に位置していた。
・宋書に百済国という独立した項が立てられている。倭王が百済を占有地と主張しても、中国は頑として応じない。(p.192)
・中華思想 東夷・南蛮・西戎・北狄
・記、紀でも東夷にならい、東–蝦夷、西–熊襲、東–毛人、西―衆夷、渡―海北
・畿(き)を遐(はる)かにす 中国の天子を原点。夏・殷・周に示された天子の王道。五世紀、建康(南京)が帝都

第三章 高句麗(広開土王)王碑と倭国の展開
1 碑文改削説の波紋(p.204)
412好太王没
414高句麗好太王(374-412)の巨碑 高さ6.34m 四面に1800余字が彫り込まれている。金石文だから、誤写、誤刻の心配はない 一字の大きさ、約12cm
「造作?」の犯意が不明であった。
・今西龍/広開土境好太王陵碑に就て
・池内宏/通溝
1884(明治17)酒匂景信(かげのぶ)大尉/碑文之由来記 自筆本 玄室の実測図

*(古田)酒匂は青年将校 宮崎県日向市の遺族方で、自筆を見つけた
1889(明治22)横井忠直/出土記/会余録

2 碑文解読と倭の歴史(p.239)

369(泰和4)百済王は倭王のために七支刀を作り、372(咸安2)それを贈った。

好太王(374-412)が直接、戦った。高句麗の英雄時代
391(永楽元年)以来、395(五年)までの五年間。好太王18歳から22歳まで、倭が来(きた)っていた。このため、百済・新羅が属民らしい態度をとらなかった。
好太王が怒って、阿利川を渡り…

391-412(好太王の在位)の時代 倭王「旨」と「讃」の間に存在

412広開土王(好太王)の死
413(義熙9)
414甲寅 好太王の石碑が建てられた この碑面の倭 倭王「讃」
衆夷は九州という本土
毛人は東の蛮地たる現在の中国地方と四国の西半部

3 日本書紀の証言(p.259)
「貴」国とは:キ国 太宰府の近く基山(きやま)、基肄(きい)城 (p.264)
筑前、筑後の頸部(けいぶ)
晋の起居注 年度毎に、その都度に書かれた宮廷内記録

267泰初三年、初めて書かれた。
邪馬壹國=山倭国 倭国の中心が「山」国であったことを示す。
貴倭は、倭国の都をなす「キ」国のことだ。太宰府近辺の領域。

4 「隋書」俀(たい)伝(p.278)
600(開皇二十年)、俀王あり。姓は阿毎。字は多利思北孤(たりしほこ)
「日出(い)づる処の天子、書を日沒する処の天子に致す、恙(つつが)無きや。」
(雁註)阿毎、あめ? あま? 「毎」は「ま」とは読めない。
1)男帝と女帝 600推古天皇八年、女帝である。
600(開皇20)「姓は「阿毎」、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。使を遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。…王の妻は雞弥と号す。後宮に女六、七百人有り。太子と名づけて利歌弥多弗利と為す。」
(雁註)
609(大業4)「俀王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀杖を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。後十日、又大礼可多毗を遣わし、二百余騎を従え、郊労せしむ。既に彼の都に至る。其の王、清(隋の煬帝の使、裴世清ー古田註)と相見え、大いに悦んで曰く、我れ聞く、海西に大隋礼義の国有りと。」
(古田)面接している。男と女を見誤ることはない。
2)多利思「比」孤(ひこ)としているが、国書を呈していて、署名がある。
多利思「北」孤(ほこ)が正しい
3)タリシホコで、…ヒコではない。
(疑いの山)
1)阿毎(あま)
2)政治思想 天ー未明ー兄、日ー日出ー弟
3)「跏趺」(かふ)、結跏趺坐の意で、胡座(あぐら)ではない
4)冠位 十二階は隋書、日本書紀で、食い違っている。
5)官職 軍尼 伊尼翼
・違和の国交 隋書と書紀(推古)
・阿蘇山 俀(たい)国の中心にあった 魚の眼精を如意宝珠としている。海洋の民に相応しい。
・道行き記事によって導かれる結論は、俀王の都(みやこ)は竹斯(筑紫)に位置している。
・俀(たい、大倭)であって、倭(ゐ、わ)ではない。
・裴世清は第一の目的の筑紫、俀王の都で朝明を達した。
その後、東方の奥地より遣使してきた倭国使(奈良王朝)の本国の地へ出発している。
・「介居」(かいきょ)、倭皇、天皇家は孤立した存在として、隋は認識していた。
・東方からはじめて姿を現した国として天皇家を見ている。
・倭王にとり、天子は(中国正統の)南朝だけで、北朝(北狄の王朝・隋の煬帝)は倭と同列
隋の煬帝(569-618)は、天子は自分だけだと思って、夷蛮の書は無礼であると憤懣を漏らした。
菩薩天子、菩薩は仏法の多元的な言葉である。海西の菩薩天子、海東の菩薩天子。

第四章 隣国史料にみる九州王朝
1 磐井の「反乱と滅亡」(p.318)
531(継体25)、継体天皇の崩御 二説(日本書紀) 531(継体25)、崩じた(百済本紀)
534(安閑1)、甲寅 *532、533は空位となっている
百済本紀 太子・皇子、倶に崩薨(う)せぬ。継体王は一人で死ぬ。
556以降、「百済本紀」の成立は720「日本書紀」編述の150年前に成立していた。
安閑、欽明、両皇子は、天皇と一緒に死んだという形跡はない。
三年のずれ、書紀編纂者は「後に勘校(かむが)へむ者、これを知らむ」
「天皇」の称号:史記、春秋、越絶書に表記されている。
「九州」:書経、春秋、史記にある
(論点の整理)
1)百済新撰、百済本記の天王、天皇の表記。
2)天王、天皇の表記、東アジア、5-6世紀の日本に出現しても不思議ではない
3)近畿天皇に先行する使用例が存在した
4)百済新撰、百済本記に出現する人名は、大和朝廷の伝承人名と異質
5)「隋書」、「旧唐書(くとうじょ)」の天皇は九州王朝以外ではありえない。
大義名分、「磐井、陰(ひそか)に叛逆(そむ)くことを謨(はか)りて。」
筑後風土記:磐井の滅亡 磐井の君に対して、深い哀悼の涙をそそいでいる。
突如、天皇家の軍が襲来してきた。
527(継体21)末尾、物部大連麤鹿火(あらかび)に託した有名な言葉
「天皇、親(みづか)ら斧□(まさかり)を操(と)りて、大連に授けて曰く、
「長門より東をば朕、制(と)らむ。筑紫より西をば汝、制(と)れ」と。」(p.344)

2 二つの王朝(p.352)
倭と日本:倭、阿毎(あま)

3 九州年号の発掘(p.386)
・522善化(継体16) 建年号、為善化 以後、701大宝1まで続いている。
・645大化の改新 年号の初めとされている
・卑弥呼–倭の五王–多利思北孤  連続している
・1471(成宗2)申叔舟/海東諸国記 朝鮮から見た海の東、つまり日本列島

・1820鶴峯戊辰/襲国偽僭考 *九州年号と題したる古写本 麗気記私抄の系列
・1848清宮秀堅/新撰年表
・1884(明治17)栗田寛/逸年号考
・久保常春/日本私年号の研究 全く論証がない 僧徒が偽作した
(古田)650白雉 686朱鳥(あかみとり)
1)九州年号は、通常の日本書紀の年号とダブっている。*大化とダブっている。(p.402)
2)645大化前代の年号を創作するならば、なぜ、神武–持統間の年号を創作しなかったか
3)九州年号は、二つの天皇の治世に跨(またが)っている。
4)536(僧聴元年) 日本書紀の仏教伝来より十六年、早い。

538(宣化3)より2年、早い、
筑後風土記 磐井墳墓 「衙頭」(がとう):この用語は中国語。
・発倒(はっとう) 倒れた王朝を発(おこ)す
・兄弟(けいてい)
・煩転(ぼんてん) 煩悩を転じて、衆生を済度する
659(斉明五年)九州王朝は、新しく現れた天皇家の使者と衝突(1013「冊府元亀」、百科事典)

4 仏教伝来と任那日本府(p.410)
538戊午と552壬申 仏教初伝
1)七支刀・七子鏡 百済は、仏教伝来についても、九州王朝に対する方が鄭重、本格的
2)九州王朝に対する壬申の釈迦金銅像の伝来は、もちろん初伝ではない。
3)552壬申は九州王朝の改元「貴楽」にあたる

仏教伝来の論証力(p.425)
240s「我道本碑」が引用されている。三世紀前半、すでに高句麗に仏教私伝があった。
四世紀末、好太王の時、高句麗、百済とも、仏法が各王家の公認、保護のもとにあった。
369七支刀の示すように、384仏教百済初伝以前から、百済王と倭王は密接

538午…(上宮聖徳法王帝説) *太子像 太子は世俗、釈迦像ではない
538戊午…(元興寺伽藍縁起)
552壬申(欽明13)冬10月、百済の聖明王…(日本書紀)
*百済本紀からの記載  *九州王朝では、壬申、貴楽と改元…

倭国にとって、文字の伝来、仏教の伝来(求得)が同時期であった(隋書)。
(奈良)天皇家は、東方に介居(かいきょ)していた。

(雁註)「隋書」の俀(大委、タイの意、大いなる委)を表示する。「阿蘇山」と刻印されている。従って、俀(倭)は九州(博多湾岸)以外に有り得ない。

(雁註)隋書では後漢書に倣い、「邪馬臺」となっている。「開皇二十年、俀王、姓阿毎、字多利思北孤」「跏趺」。つまり菩薩天子。

 

「阿蘇山、其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」

「國書曰、日出處天子致書、日没處天子無恙」、日沒する云々で不快に思ったのではなく、隋の天子は自分だけが天子であり、無禮であると。」

任那日本府:百済本紀に出現している。(p.429)
百済系三史料 信憑性が高い
・貴国問題(百済記)
・武寧王陵碑との比較(百済新撰)
・天皇及び皇子倶崩□(百済本紀)

三面の史料 日本(実は朝鮮史料) 朝鮮 中国(p.453)
・中国
宋書(420-479)
南斉書(479-502)
梁書(502-557)
陳書(557-589)
隋書(581-618)
・年表
663百済滅亡
668高句麗滅亡 統一王朝・新羅
917新羅滅亡   統一王朝・高麗
・朝鮮
1145成立(三國史記) *「日本府」、この言葉なし *新羅は自ら年号を作っている
1275-1308成立(三国遺事)
・670文武王十年(天智9) これ以前を倭国、これ以後を日本国
・「融天師彗星歌」の示す「日本」は、九州王朝自身の創始した自称(美名)だ。(p.441)

・珠玉の説話・「堤上」(三國史記)(p.448)
・死を誓って倭国に向かう 人質(ひとじち)
・「堤上」の悲話(三国遺事)「君は逃れよ、我は留まる」「雞林の臣なり」
悲痛に胸迫る人間の悲話
・朝鮮半島の国々とその人々の深い嘆きと酸苦を写し絵のように映じている。(三國史記)

第五章 碑文解読と倭の歴史
1)九州王朝の黄昏(p.460)
663白村江の戦い 三国史記では倭国と百済の同盟であって、日本書紀の記事は成立不可能。
670筑紫君・薩夜麻(さちやま)の捕囚。九州王朝落日。
671突如、捕らえられた薩夜麻が帰ってくる。
690筑紫君・薩夜麻の生還のために、自分の身を奴隷に売ったという博麻が帰国した。
日本書紀の編者は、外国史料を近畿天皇家の歴史に接合している。
・卑弥呼、壹與の記事を神功皇后紀に入れた。
・七支刀を贈られた倭王を神功皇后にあてている。
・日本「天皇及太子・皇子」倶崩薨を継体天皇とその皇太子と皇子に当て嵌めた(百済本紀)
白雉と朱鳥:大化と大宝の間に、この二つの年号がある。この年号、九州年号。
日本書紀には存在しない
・白雉:九州王朝内部の白雉改元記事を日本書紀内部に挿入し、合綴(がってつ)した。
・朱鳥:九州年号の朱鳥が、日本書紀に飛び込んでいる。
(纏め)645「大化」年号が定められたが後続しなかった。701(文武天皇5年)、連続年号を大宝によって再開。
蝦夷國 659(顕慶4、高宗)、蝦夷國、倭国の使に随て入朝す。(冊府元亀)
國使として貢献したことが記録されている。しかし、日本書紀では蝦夷の男女を珍獣、珍物として扱っている。

2)二つの金石文(p.494)
・人面画像鏡(隅田すだ八幡神社) 斯麻(しま):百済の国王
使者二名:開中費直(安羅日本府の要人) 穢人、今州利(百済國内の官人)
人物画像をもたらした王朝は、九州王朝である。
倭音の訓表記:解部(ときべ)、偸人(ぬすびと)
日十:ひとの佳字表記 年:中国風、一字名称
503癸未:武寧王在世中、
・江田船山古墳太刀(熊本県)
刀身部に馬の画像 銘文の初めが欠如しているため、この太刀が誰から誰に贈られたか不明。

3)九州王朝の領域(p.544)
二つの青銅器圏 銅剣(どうけん) 銅鐸(どうたく)
三十國 狗邪韓國–邪馬壹國 九國+二十一國
地名比定は、いずこにも求めうるが故に、決め手にならぬ。
筑後の石人山古墳、人形原の古墳群 筑後の装飾古墳 豊前・豊後に京都(みやこ)郡

4)結び–三つの真実(p.560)
・仮説について:検証 史料事実や遺物の事実を過不足なく説明できるか
・豪族について:一個の王朝の歴史、これが九州王朝。天皇家に先在していた王権、九州王朝
・滅亡の原因:白村江の敗戦が原因ではない。四~七世紀、朝鮮半島へ大軍を送り続けた。朝鮮半島内、人民の怨嗟の声と武器の支配とを対立させていた

あとがき

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂 http://www.ukiyo-e.co.jp
✔️浮世絵学 古田武彦 九州王朝
[浮世絵学]文化藝術懇話会  浮世絵鑑定家
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

————————————————————————————————-

◯1975石原道博/訳註中国正史日本伝、国書刊行会
*これは史料を原典から訳した最善の本です。岩波文庫を大きく見易くしている。
*ただし、訳註は原文(影印、写真版)と違うところがあり注意を要します。
*人名、地名、官職、件名など、索引も付いている。ただし、読みは当時の発音が不確定のため、推定。
*倭、日本伝が、下記に含まれている。
3 4 5 6 7 8 14 15 13 16 17 20 23 25 26 28

1 BC91司馬遷(BC145c-BC86c)/史記  前漢   シバ・セン
420-589裴駰/史記集解      宋(六朝)ハイ・イン  *シッカイと読む  劉宋
730s司馬貞(679-732)/史記索陰      唐    シバ・テイ
736張守節(?-?)/史記正義        唐    チョウ・シュセツ
1932-1934瀧川龜太郎/史記会注考証、東方文化学院東京研究所  しきかいちゅうこうしょう
2 82班固(32-92)/漢書        後漢   ハン・コ
3 445范曄(398-445)/後漢書*      南朝・宋 ハン・ヨウ  *成立は三国志の後
4 280s陳寿(233-297)/三国志      西晋   チン・ジュ
・裴松之(372-451)/注          南宋   ハイ・ショウシ
・王沈(?-266)/魏書      オウ・シン
・魚豢(190s-270s)/魏略              キョ・カン  「キョ」の読み
・韋昭(?―273)/呉書 イ・ショウ
5  648房玄齢(578-648)/晋書      唐    ボウ・ゲンレイ
6  488沈約(441-513)/宋書*       南朝梁  シン・ヤク *倭の五王
7  530s蕭子顕(489-537)/南斉書     南朝・梁 ショウ・シケン
8  636姚思廉(?-637)/梁書       唐    ヨウ・シレン
9  636姚思廉(?-637)/陳書     唐    ヨウ・シレン *南朝最後の王朝
10 554魏収/魏書 北斉   ギ・シュウ
11 636李百薬/北斉書      唐 リ・ヒャクヤク
12 636令狐徳棻/北周書 唐 リョウコ・トクフン
13 656魏徴(580-643)/隋書*       唐    ギ・チョウ *阿蘇山が書かれている。
14 659李延壽(?-?)/南史      唐    リ・エンジュ
15 650-683李延壽(?-?)/北史       唐    リ・エンジュ
16 945劉昫(887-946)/旧唐書*       五代晋  リュウ・ク  *クトウジョ
17 1060宋祁(1007-1061)/新唐書      宋    ソウ・キ
18 974薛居正/旧五代史 北宋 セツ・キョセイ
19 1053欧陽脩/新五代史 北宋 オウヨウ・シュウ
20 1345脱脱(1314-1355)/宋史 元 トクト
21 1345脱脱(1314-1355)/遼史 元 トクト
22 1345脱脱(1314-1355)金史 元 トクト
23 1370宋濂(1310-1381)/元史 明 ソウ・カン
24* 1723王鴻緒(1645-1723)/明史 清 オウ・コウショ
24 1739張廷玉(1672-1755)/明史 清 チョウ・テイギョク
25 1919柯邵忞(1885-1933)/新元史 民国 カ・ショウビン
26 1723王鴻緒(1645-1723)/明史稿     清 オウ・コウショ
27 1927柯邵忞(1885-1933)/清史稿   民国 カ・ショウビン
28 1927趙爾巽(1845-1927)/清史 民国    ショウニ・ソン
28* 1960張 其昀(1900-  )/清史 民国 チョウ・イン


浮世絵学(支那學・金印「漢委奴國王」)2019酒井雁高/「委奴」の新解釈(真解明) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/39091

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64a)1971古田武彦/「邪馬台国」はなかった 魏志(影印)九州王朝* 帰結、ずばり「邪馬台國」は九州(阿蘇山があるので確定) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/36642

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会65)1971古田武彦/失われた九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37294

世絵学(支那學・文化藝術懇話会66)1975古田武彦/盗まれた神話 九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

http://www.ukiyo-e.co.jp/36655

浮世絵学(支那學・九州年号:卑弥呼、応神王朝、仁徳王朝、筑紫磐井君、継体王朝、欽明王朝、多利思北孤)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人 
http://www.ukiyo-e.co.jp/26571

浮世絵学(支那學・九州年号:九州王朝の系譜)酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人 
http://www.ukiyo-e.co.jp/39816

浮世絵学(支那學・經籍籑詁)1798阮元/經籍籑詁ケイセキセンコ 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37727

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)280s陳寿(233-297)/三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/38052

浮世絵学(支那學・漢文研究法)1913狩野直喜/漢文研究法 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37653

浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会64b)280s陳寿(233-297)/魏志(三國志) 656魏徴(580-643)/隋書 邪馬台国 帰結、ずばり九州(阿蘇山と書かれている)(古田武彦/九州王朝*)酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)
http://www.ukiyo-e.co.jp/37460

浮世絵学(支那學・原字)(げんじ)、甲骨文、金文、石鼓文の原文字の意 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/11568

浮世絵学13/中国古典文学(金文)青銅器_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)
http://www.ukiyo-e.co.jp/11374

何か御気付きの点があれば御教示ください。
酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂 浮世絵鑑定家 [浮世絵学] 検索 http://www.ukiyo-e.co.jp
SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e
文化藝術懇話会
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678
E-mail: gankow



アーカイブ

コレクション

新着情報・新着コレクション