浮世絵学(支那學・金印「漢委奴國王」)2019酒井雁高/「委奴(ゐど)」の真解釈  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/39091
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2019-05-22現在(2019-10-12更新) ☑️浮世絵學 ◯◯ http://www.ukiyo-e.co.jp/39091

◯2019-05-22現在(2019-06-11更新) 漢委奴國王の「委奴」新解明 酒井雁高 

委奴の意味+

◯浮世絵学04/外題(三国志展、東博)三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/40771

浮世絵学13/中国古典文学(金文)青銅器_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/11374     周文(BC1100-BC256)、秦文(BC221-BC207)、漢文(BC206-AD220)(篆書、隷書)

◯2019-05-22現在(2019-05-26更新) 1787上田秋成(1734-1809)/金印考 57金印(漢委奴國王)☑️浮世絵學 ◯◯ 

http://www.ukiyo-e.co.jp/21593 

秋成は、漢隷などにも精通していた。


◯金印「漢委奴國王」 「委奴」の真解釈  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

*金石文、篆書(てんしょ)の象形文字で、解読する。

偽印説もあったが、全く同じ大きさの金印が、四川省から[滇(テン)印](BC278-BC85)として発見された。このため、偽印説は根拠を失った。「滇王之印」、漢の臣下ではないので、「漢」は肩書きにない。漢が滇王として認可したことを示している。漢の国内の最高位の印は、玉印(ぎょくいん)、次が金、銀、銅。。漢の国外の最高位の印は、金印。

57、光武帝(劉秀)(BC6 – AD57)より印綬されたことは明らかである(後漢書)。

711、古事記 *尚書正義から暗示を受け、稗田阿礼、太安万侶が編纂した。

720、日本書紀 *後漢書の記事から、神武天皇を造作(増作)した。継体王朝以前は二年倍暦となっているので、神武天皇は実の所、紀元前後と考えられる。つまり、日本書紀の編纂者は、委奴国王が金印「漢委奴國王」を授与(57)されたことを念頭に造作している。

なお古田武彦によると、神武と崇神、両者ともに「初めて国を作った」という意味になっていない。つまり神武から九代までの王朝は架空ではなく、神武が実在したと論証している。これは「委奴の人々」(「委」+「イ」偏を付して「倭」)、「委奴の國王」の金印の記録を否定できないからである。

 

 

1787(天明4)、金印(漢委奴國王)が福岡博多湾岸の志加島(しかのしま)で、発見されると同時に、上田秋成は五文字の漢印であることを証明した。また委奴(ヰド)國と読み、北九州に同音の地名があることも述べている。57年、光武帝(劉秀)(BC6-AD57)は、この金印を北九州の「ヰト國王」に与えたものである。 これ以前、イト國は周、前漢、後漢に「大夫」(たいふ、周の儀礼)を使者として、朝貢していたからである。「委奴」(ヰド)國は、卑弥呼*(ひみか)の女王國・邪馬壹國の以前の段階で、極く小さい共同体と見做される。しかし、当時、漢の臣下として、国家として認知されていた。

(古田)卑弥呼、読み「ひみか」。「呼」の読み「か」。「漢委奴國王印」 当時の漢印、主要な印譜を調べた結果、AがBに直接、授与。AがBのCに間接、授与の例は無い。つまり、三宅米吉の読み方、「漢の「わ」の「な」の国王」は誤りであり、漢の「ゐど」国王と読む。

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(雁註)過日、金印「漢委奴国王」の「委奴」の意味が、篆書(てんしょ)の象形文字で、解読できました。(2019-05-22)
古田先生は井川など「井」の地名かと。むろん、地名接頭語も含みますが、問題は「委」の原義にあります。

2018Winter

これまで解読できなかった理由は、楷書で読み解こうとしたからです。楷書でなく、象形文字の篆書でなければ、解読できません。

古代支那において、「委」は「禾」(本科、稲)が実り、「頭こうべ、を垂れる」、周文(しゅうぶん)の象形文字です。

古代支那に、そのような慣習(頭こうべ、を垂れて「お辞儀」)がなかったので、光武帝(劉秀)らは、「委」(御辞儀)の人々、イ偏を付けて「委の人々」「倭」)と呼びました。

お分かりにように、「委」の人々は人と会うと必ず「御辞儀をする」という慣習がありました。古代支那では、現代もそうですが、お辞儀の風習がありません。このため、お辞儀を周文(しゅうぶん)、秦文(しんぶん)、漢文(かんぶん)の象形文字「委」で表現しました。周文、秦文は篆文の金石文字で、隷書、楷書の原義と考えられます。

つまり「委」の原義は、「曲がる」(1940田中慶太郎/支那文を読む爲の漢字典)。「御辞儀」を象形文字の「委」(曲げる)と考えたのです。これまで「委」の原義を理解せず、二義的な「委(まか)せる」、「委(ゆだ)ねる」と考えてしまったので原義の意味が分からなくなったと言えます。。

・「西周」文(BC1100-BC770)、

・「東周」文(BC770-BC256)、

・「秦」文(BC221-BC207)、

・「前漢」文(BC206-AD6)、

・「後漢」文(25-220)

いわゆる周、秦の金石文(篆書、てんしょ)で原義を確認すれば、分かります。

1 「委」→原義は禾(いね)が実り、頭こうべ、を垂れる意(甲骨文、金石文の象形文字)→委の人々、ニンベンを付して「倭」、音が転じて、ワ。委を倭の略と考えることは本末転倒です。「漢委奴國王」を所与の方程式とすると、勝手に、その一変数、一定数を書き換えれば、元の方程式を解いたことになりません。

2 「倭」→「委」の人々としてニンベンを付した→「倭」と表示したため、原義の「委」の意味が失われた。倭、元は委。従って、倭の文字に全く蔑視の意はない。委が元の篆字であって、倭は委の人々という意で新たに作字したものです。「倭→元、委」と古代支那の字典に記されています。

三国志の紹煕本の目録に「僂韓」とあります。本文は「倭韓」です。「僂」は傴僂(せむし)の意です。しかし、倭の使者全員が、背中が曲がっていた訳ではありません。
つまり、「御辞儀をする」風習が古代支那ではなかった。
「委」:「曲がる」「屈む」人々というので、「委奴」(お辞儀をする人々)と表現したものだと思います。

倭の人々、そして現代の日本でも、皆、人と会うとお辞儀をします。傑作なのは、電話で相手が面前にいないのに、お辞儀をしています。しかし、諸外国では、御辞儀をしません。そのような習慣がないのです。真っ先に霊前の古田武彦(1926-2015)先生に御報告したかったが…(合掌)
1971古田武彦/邪馬台国はなかった、1973失われた九州王朝、1975盗まれた神話、朝日新聞社

1798阮元/經籍籑詁(けいせきせんこ)にも、原義「曲がる」と示されている。

http://www.ukiyo-e.co.jp/37727    1798阮元/經籍籑詁ケイセキセンコ 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

委(倭)の原義から、「お辞儀をする」人々と解明した研究者は、これまで、いなかったようです。何とか、難問を苦心の末、解明できたと思っています。(2019-05-22)

追加(2019-06-21)

・金印 滇王之印  *てんおうのいん 王は上中下、上中が短い

・金印 廣陵王璽    *こうりょうおうじ  王は上中下、等間隔で、やや疑問

(雁註)廣陵王は、近年、発見された金印で、墳墓、他の副葬品など、詳細を欠く。金の含有率、組成分析など、再調査が必要。 

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委奴國前後の経緯

・57 前漢の光武帝(劉秀)は「委(曲がる、御辞儀)の人々」、「委奴」(いど)と命名した。沖ノ島を御神体とする南朝鮮、対馬、壱岐、宗像、隠岐の海の民。東夷(とうい)えびす。漁業の人々。鯨面(げいめん、顔に入墨)文身(からだに入墨)

・107 帥升等 帥(すい)は纒め役。名前が升。やはり委奴の役人。しかし、印授されていない。漁業では単なる採取労働で、人口が増えない。

・240 卑弥呼(ひめか)、邪馬壹國(やまいちこく)。農耕が主体となった。

*邪馬壹國は紹熙本に刻記されているが、世界にただ一つ(日本帝室図書寮)のため、これまで紹興本が流布していた。

紹興本は、邪馬臺國とある。しかし、魏臺(王朝)と称するように、他国に臺は使わない。

・369(泰和四)七支刀(しちしとう) 百済王シマが倭王「旨」に贈った。

・450s 大山(だいせん)古墳 二代青銅器圏の内、こちらは宗教的儀礼の銅鐸(どうたく)圏で、武器圏ではなかった。

・?-528? 磐井の君 岩戸山古墳 「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい)」(古事記)、「筑紫君磐井」(『筑後国風土記』逸文)*衙頭(がとう)の石人、石馬は裁判所を現していて、王国があったことを示している。

・?-531? 継体王朝 越前、つまり大陸からの騎馬民族である。従って、殺戮の仕方が徹底している。大陸からの騎馬民族は鉄製武器をもっていた。国内は未だ青銅器武器であった。 

・510-571 欽明王朝

・570 北九州に初めて鉄剣が出土している。

・600(開皇二十年) 多利思北孤(たりしほこ)(隋書) 俀たい(大いなる委)  

 俀王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕

◯浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)支那學・研究一覧(邪馬台国、帰結)三國志(魏志)と隋書 古田武彦 九州王朝* 帰結、ずばり九州(「阿蘇山」と書かれている)(古田武彦/九州王朝*)酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/37595

・662 白村江 九州王朝は白村江で敗れ、次第に力を失い、奈良王朝にとって替われる。

・701 大宝律令が出来、奈良王朝が成立する。

何かあれば、御教示下さい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator [浮世絵学**]  gankow@gmail.com

浮世絵・酒井好古堂

[浮世絵学]文化藝術懇話会  浮世絵鑑定家

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