浮世絵学04/外題(支那學・金印「漢委奴國王」)2019酒井雁高/「委奴(ゐど)」の真解釈  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/39091
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1982-04-29現在(2023-01-22更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/88211

 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,241項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。

◯2019-05-22現在(2019-06-11更新) 漢委奴國王の「委奴」新解明 酒井雁高 

委奴の意味+

◯浮世絵学04/外題(三国志展、東博)三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

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浮世絵学13/中国古典文学(金文)青銅器_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

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周文(BC1100-BC256)、秦文(BC221-BC207)、漢文(BC206-AD220)(篆書、隷書)

◯2019-05-22現在(2019-05-26更新) 1787上田秋成(1734-1809)/金印考 57金印(漢委奴國王)☑️浮世絵學 ◯◯ 

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秋成は、漢隷などにも精通していた。


◯金印「漢委奴國王」 「委奴」の真解釈  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

*金石文、篆書(てんしょ)の象形文字で、解読する。

偽印説もあったが、全く同じ大きさの金印が、四川省から[滇(テン)印](BC278-BC85)として発見された。このため、偽印説は根拠を失った。「滇王之印」、漢の臣下ではないので、「漢」は肩書きにない。漢が滇王として認可したことを示している。漢の国内の最高位の印は、玉印(ぎょくいん)、次が金、銀、銅。。漢の国外の最高位の印は、金印。

57、光武帝(劉秀)(BC6 – AD57)より印綬されたことは明らかである(後漢書)。

711、古事記 *尚書正義から暗示を受け、稗田阿礼、太安万侶が編纂した。

720、日本書紀 *後漢書の記事から、神武天皇を造作(増作)した。継体王朝以前は二年倍暦となっているので、神武天皇は実の所、紀元前後と考えられる。つまり、日本書紀の編纂者は、委奴国王が金印「漢委奴國王」を授与(57)されたことを念頭に造作している。

なお古田武彦によると、神武と崇神、両者ともに「初めて国を作った」という意味になっていない。つまり神武から九代までの王朝は架空ではなく、神武が実在したと論証している。これは「委奴の人々」(「委」+「イ」偏を付して「倭」)、「委奴の國王」の金印の記録を否定できないからである。

 

 

1787(天明4)、金印(漢委奴國王)が福岡博多湾岸の志加島(しかのしま)で、発見されると同時に、上田秋成は五文字の漢印であることを証明した。また委奴(ヰド)國と読み、北九州に同音の地名があることも述べている。57年、光武帝(劉秀)(BC6-AD57)は、この金印を北九州の「ヰト國王」に与えたものである。 これ以前、イト國は周、前漢、後漢に「大夫」(たいふ、周の儀礼)を使者として、朝貢していたからである。「委奴」(ヰド)國は、卑弥呼*(ひみか)の女王國・邪馬壹國の以前の段階で、極く小さい共同体と見做される。しかし、当時、漢の臣下として、国家として認知されていた。

(古田)卑弥呼、読み「ひみか」。「呼」の読み「か」。「漢委奴國王印」 当時の漢印、主要な印譜を調べた結果、AがBに直接、授与。AがBのCに間接、授与の例は無い。つまり、三宅米吉の読み方、「漢の「わ」の「な」の国王」は誤りであり、漢の「ゐど」国王と読む。

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(雁註)過日、金印「漢委奴国王」の「委奴」の意味が、篆書(てんしょ)の象形文字で、解読できました。(2019-05-22) 古田先生は井川など「井」の地名かと。むろん、地名接頭語も含みますが、問題は「委」の原義にあります。

2018Winter

これまで解読できなかった理由は楷書で読み解こうとしたからです。楷書でなく象形文字の篆書でなければ、解読できません。

古代支那において、「委」は「禾」(本科、稲)が実り、「頭こうべ、を垂れる」、周文(しゅうぶん)の象形文字です。

古代支那に、そのような慣習(頭こうべ、を垂れて「お辞儀」)がなかったので、光武帝(劉秀)らは、「委」(御辞儀)の人々、イ偏を付けて「委の人々」「倭」)と呼びました。

お分かりにように、「委」の人々は人と会うと必ず「御辞儀をする」という慣習がありました。古代支那では、現代もそうですが、お辞儀の風習がありません。このため、お辞儀を周文(しゅうぶん)、秦文(しんぶん)、漢文(かんぶん)の象形文字「委」で表現しました。周文、秦文は篆文の金石文字で、隷書、楷書の原義と考えられます。

つまり「委」の原義は、「曲がる」(1940田中慶太郎/支那文を読む爲の漢字典)。「御辞儀」を象形文字の「委」(曲げる)と考えたのです。これまで「委」の原義を理解せず、二義的な「委(まか)せる」、「委(ゆだ)ねる」と考えてしまったので原義の意味が分からなくなったと言えます。。

・「西周」文(BC1100-BC770)、

・「東周」文(BC770-BC256)、

・「秦」文(BC221-BC207)、

・「前漢」文(BC206-AD6)、

・「後漢」文(25-220)

いわゆる周、秦の金石文(篆書、てんしょ)で原義を確認すれば、分かります。

1 「委」→原義は禾(いね)が実り、頭こうべ、を垂れる意(甲骨文、金石文の象形文字)→委の人々、ニンベンを付して「倭」、音が転じて、ワ。委を倭の略と考えることは本末転倒です。「漢委奴國王」を所与の方程式とすると、勝手に、その一変数、一定数を書き換えれば、元の方程式を解いたことになりません。

2 「倭」→「委」の人々としてニンベンを付した→「倭」と表示したため、原義の「委」の意味が失われた。倭、元は委。従って、倭の文字に全く蔑視の意はない。委が元の篆字であって、倭は委の人々という意で新たに作字したものです。「倭→元、委」と古代支那の字典に記されています。

三国志の紹煕本の目録に「僂韓」とあります。本文は「倭韓」です。「僂」は傴僂(せむし)の意です。しかし、倭の使者全員が、背中が曲がっていた訳ではありません。 つまり、「御辞儀をする」風習が古代支那ではなかった。 「委」:「曲がる」「屈む」人々というので、「委奴」(お辞儀をする人々)と表現したものだと思います。

倭の人々、そして現代の日本でも、皆、人と会うとお辞儀をします。傑作なのは、電話で相手が面前にいないのに、お辞儀をしています。しかし、諸外国では、御辞儀をしません。そのような習慣がないのです。真っ先に霊前の古田武彦(1926-2015)先生に御報告したかったが…(合掌) 1971古田武彦/邪馬台国はなかった、1973失われた九州王朝、1975盗まれた神話、朝日新聞社

1798阮元/經籍籑詁(けいせきせんこ)にも、原義「曲がる」と示されている。

http://www.ukiyo-e.co.jp/37727    1798阮元/經籍籑詁ケイセキセンコ 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

委(倭)の原義から、「お辞儀をする」人々と解明した研究者は、これまで、いなかったようです。何とか、難問を苦心の末、解明できたと思っています。(2019-05-22)

追加(2019-06-21)

・金印 滇王之印  *てんおうのいん 王は上中下、上中が短い

・金印 廣陵王璽    *こうりょうおうじ  王は上中下、等間隔で、やや疑問

(雁註)廣陵王は、近年、発見された金印で、墳墓、他の副葬品など、詳細を欠く。金の含有率、組成分析など、再調査が必要。

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委奴國前後の経緯

・57 前漢の光武帝(劉秀)は「委(曲がる、御辞儀)の人々」、「委奴」(いど)と命名した。沖ノ島を御神体とする南朝鮮、対馬、壱岐、宗像、隠岐の海の民。東夷(とうい)えびす。漁業の人々。鯨面(げいめん、顔に入墨)文身(からだに入墨)

(雁註)継体以前は神武まで倍暦で計算されている。実ハ、その半分であるから、神武は、この年代(57AD)に相当する。

むろん、四分暦でも紀元前103までで、それ以前は無い。逆算して紀元前660を割り出したが、暦法が無いので、架空の年代である。

・107 帥升等 帥(すい)は纒め役。名前が升。やはり委奴の役人。しかし、印授されていない。漁業では単なる採取労働で、人口が増えない。

・240 卑弥呼(ひめか)、邪馬壹國(やまいちこく)。農耕が主体となった。

*邪馬壹國は紹熙本に刻記されているが、世界にただ一つ(日本帝室図書寮)のため、これまで紹興本が流布していた。

紹興本は、邪馬臺國とある。しかし、魏臺(王朝)と称するように、他国に臺は使わない。

・369(泰和四)七支刀(しちしとう) 百済王シマが倭王「旨」に贈った。

・450s 大山(だいせん)古墳 二代青銅器圏の内、こちらは宗教的儀礼の銅鐸(どうたく)圏で、武器圏ではなかった。

・?-528? 磐井の君 岩戸山古墳 「竺紫君石井(ちくしのきみ いわい)」(古事記)、「筑紫君磐井」(『筑後国風土記』逸文)*衙頭(がとう)の石人、石馬は裁判所を現していて、王国があったことを示している。

・?-531? 継体王朝 越前、つまり大陸からの騎馬民族である。従って、殺戮の仕方が徹底している。大陸からの騎馬民族は鉄製武器をもっていた。国内は未だ青銅器武器であった。

・510-571 欽明王朝

・570 北九州に初めて鉄剣が出土している。

・600(開皇二十年) 多利思北孤(たりしほこ)(隋書) 俀たい(大いなる委)

 俀王、姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕

◯浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会)支那學・研究一覧(邪馬台国、帰結)三國志(魏志)と隋書 古田武彦 九州王朝* 帰結、ずばり九州(「阿蘇山」と書かれている)(古田武彦/九州王朝*)酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/37595

・662 白村江 九州王朝は白村江で敗れ、次第に力を失い、奈良王朝にとって替われる。

・701 大宝律令が出来、奈良王朝が成立する。

何かあれば、御教示下さい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator [浮世絵学**]  gankow@gmail.com

浮世絵・酒井好古堂

[浮世絵学]文化藝術懇話会  浮世絵鑑定家

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