浮世絵学(支那學・文化藝術懇話会67)1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/40406
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1982-04-25現在(2019-07-03更新) 浮世絵学 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

文化藝術懇話会(67)
時: 2019-06-27(木)18.00-20.00
所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011号(パーティR)
人: 古田武彦/倭人伝を徹底して読む(大阪書籍) 

  
・古田武彦(1926-2015)先生は、中国史書の日本古代史研究により、紀元前から700年代までの王朝は九州王朝。

・2019.7.9-8.9特別展三国志/東京国立博物館

・金印「漢委奴國王」委は周(しゅう)文の金石文字、つまり篆書で、禾本科(いね)が頭こうべ、を垂れている姿。「お辞儀の人々」として、委奴(ゐど)と表現した。

57:金印 漢委奴國王 「委奴」は篆書の象形文字で解読できる。

 委:曲がる意。しかし、朝貢した人々が全て背中が曲がっていた訳ではない。これは御辞儀の風習がなく、従って言葉もなかった。このため、御辞儀を禾本科(かほんか)の稲が頭こうべ、を垂れる姿、その人々としてイ偏を付けて、倭とした。倭は、元、委である。

 委奴國は、古代支那の漢が呼んていて、委奴國自身は何と言っていたのか分からない。分からないので、書いていない。

107:帥升(すいしょう) 帥は纒め役か。升が人名。國名は分からない。

倭(わ)は古代支那側が呼んだ名称である。

240:卑弥呼(ひめこ)、邪馬壹國(やまいちこく)

*日本書紀では、神功皇后を造作している。卑弥呼の名前を大義名分上、書くことはできないからである。

*古田武彦先生が紹熙本を見つけ、「邪馬壹國」(やまいちこく)とあるのを確認した。この紹熙本、世界に一箇所だけ、宮内庁書陵部にある。これ以前、紹興本が流布していた。紹興本は「邪馬臺國」(やまたいこく)である。しかし、臺(だい)は魏臺(ぎだい)のように王朝を表す。他国の名前に使うことは無い。

600(開皇20):多利思北孤(たりしほこ)(隋書俀國) たい

姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)

*有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭 

阿蘇山とあるので、九州である。近畿圏に阿蘇山はない。

*邪馬壹國は、北九州と南朝鮮に及ぶ海洋民族国家(沖ノ島を御神体)。

日本(にっぽん)の名称:既に九州王朝で使っていた。その後、奈良王朝が踏襲した。

*日本書紀では聖徳太子を造作している。これは多利思北孤と書けないからである。

*北孤と原文にある以上、これを尊重すべきである。比孤と原文を改定することは史料批判上、全く根拠がない。

酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂 http://www.ukiyo-e.co.jp
文化藝術懇話会 [浮世絵学]Mobile: 090-8171-7668
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

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◯1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む+

1
文化藝術懇話会(67)
時: 2019-06-27(木)18.00-20.00
所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011 号(パーティR)
人: 1987 古田武彦/倭人伝を徹底して読む、大阪書籍社
◯漢籍(分類)経 史 子 集
◯五経
順序: 詩 書 易 禮 (樂) 春秋 また易・書・詩・礼・楽・春秋
1 易経BC1700-BC1100 周 BC403-BC222 本来の名 易 また周易
2 詩経BC770-BC222 西周から春秋
3 春秋BC722-BC481
4 書経(尚書) 最古の記録 殷周・春秋・戦国BC403-BC226 戦国以降・秦の穆公まで?-621BC
5 礼記*127-200 周秦の古書 前漢の戴聖 鄭玄ジョウゲン *らいき
◯四書
論語 大学 中庸 孟子

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◯1987 古田武彦/倭人伝を徹底して読む、大阪書籍社
はじめに
*1984.04-1986.03、大阪朝日カルチャーセンター(中之島の朝日新聞ビル)24 回の講演をまとめた
序(p.3)
陳寿 大海という言葉、山島に居す
*出雲風土記、
*天皇家は後代の亜流(三番手の後継者)、
*三国志の朝廷の語 倭人伝 これ以前の史書に書かれている。

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第一章 「三国志」以前の倭(ゐ)と倭人
「三国志」以前の倭と倭人
一 倭人の出現 (p.7)
・東方の夷 火を通さないで生で食べている。(礼記)文身(刺青)
・皮服の民 東夷、皮服す(尚経) 海曲、之を島と謂う。島に居るの夷。(尚書)
・日の出るところの人々 海隅(かいぐう)、日を出(い)だす。率俾(そつぴ)せざるは罔(な)し
率俾:中国の天子に臣下として仕える
・倭人の鬯草(ちょうそう)貢献:お酒にひたした香り草(論衡)。屠蘇も、その一種か
成王の時、越常、雉を献じて、倭人暢を貢す(論衡)。BC1115-BC1079 *越常は南蛮
・東夷の音楽:成王の時(BC1000 頃)、昧(まい)は東夷の楽なり。叔父である周公に助けられので天子の礼楽を以ってせしむ。
・漢書の倭人:楽浪海中、倭人有り、分れて百余國を為す。歳時(さいじ)を来たり献見すと云う(漢書)
班固/漢書、王充/論衡 同じ太学で学び、王充は五つ年長 貢献と朝見(天子の都)は意味が違う。
・倭人と東鯷人:東鯷は、東の端っこの意 倭人:銅矛、銅戈、銅剣圏
二 箕子(きし)と燕(えん)(p.18)
殷墟が発掘され、架空ではなくなった。箕子は詩を読んでいる。従って、架空ではない。
・箕子韓国の成立 始皇帝(BC246-BC210)の二世胡亥(BC209-BC207)三世嬰(えい)(BC207)
(古田)箕子韓国と名付けた。朝鮮半島の南半部に箕子韓国、北に衛氏朝鮮。
・倭は燕に属す 倭人の領域は、朝鮮半島の南岸部および、かなり奥地まで入った南半部に及んでいる(山海経)
2
三 倭人の居所(p.24)
光武帝の金印:志賀島から出た金印
倭人を見た班固と王充:
四 新たな課題(p。26)
・後漢書の信憑性:後漢書は三国志の後、同時代資料ではない。しかし、班固は、三国志にない新事実も書き加えている。
・堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)の時代:周はBC1000-BC300、殷はBC2000+BC1000。夏は先殷期
・縄文中期の日中交流は?:BC10000 前後、(BC14000、神奈川大和市上野(かみの)遺跡)
・井戸尻の縄文土器:殷・周の時代に三本指の神、山梨と長野の境の井戸尻にも、同じような、更に古い三本指の神
・縄文時代の楽舞:能登半島で土製のお面。その倭人が夏の時代、舞踊を行った。事実とは言えないが、保留して記憶。
・東夷の中国大陸侵入:後漢書の事柄も、人間だけが中国に入り、文化は入っていないということはありえない。

第二章 日本の文献にみる倭
一 新たな倭国の出現(p.35)
・チクシかツクシか 現地ではチクシ
・邇邇芸命 古事記のニニギノミコト 筑紫に遣わされたのは主流、直系の子孫でない。本国の天国に兄、祖母の天照もいる。
・天津日高日子穂穂手見命を襲名する 穂穂手見命は高千穂の宮に伍佰捌拾(580)歳坐ましき。代々、同じ名前を襲名。
・波限建(なぎさたける: 天津日高日子波限建・鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命
・地名が先か、説話が先か:産屋(うぶや)が出来上がらぬ内に生まれた 実ハ地名が先 説話は新しく、地名は古い7
・天皇に姓はないか:天(あま)という姓 鵜葺草葺(うがやふき)という職業による姓
・職掌が姓になる:地名、職掌 鵜葺草葺に似合わぬ素晴らしい息子
・四兄弟の旅立ち:鵜葺草葺の職掌が下落していった。
・神倭伊波礼毘古命:かむやまといわれひこ 倭:本来「ヰ」の発音。 井原、井尻 このヰがワに替わる(7 世紀末-8 世紀)
・倭と大和:弥生の近畿の人々は東鯷人。倭は、九州の分流。神武~開化の九代の天皇名中の倭、大倭はチクシの意。
二 「記」「紀」以前の倭(p.49)
・大国主説話:倭が出てくるのは古事記。日本海が舞台。奈良は出ない。宣長は倭を「やまと」と呼び、奈良ととっている。
・天孫降臨の真相:大国古事記は筑紫̶出雲̶越、倭國へ上る 天照が大陸の金属器を使い、大国主命の主権を奪った。
対馬海流では出雲から筑紫へ、海流は遡(さかのぼ)る(千歳竜彦さんの示唆)
・山田のかかし:かかし、稲を守る神
・大物主説話か?:大国主は一人では自信がなかった。故(かれ)、其の大年神… 海の光らしてやって来た。
・宣長の誤謬:御諸山は三輪山だから、この神は大物主神と解釈した。「其の」は直前の名詞。チクシの倭
・筑紫の青垣:倭ハ筑紫(ちくし)。福岡県鞍手郡小竹町に亀山神社(大歳大明神)、福岡の東の方。
・倭の多元化:倭を大和と決めてはいけない。他にも多元的にある。
三 伊場木簡の若倭部(p.62)
・部民一元論に反対する:◯◯部 木簡は荷札。地名を全て部民に当てることは出来ない。
・神麻績(かみ・おみ)部と神人部:神は「渺としてとして遠い淵源をあまた含んでいるもの」
・浜名湖の倭:若倭部(わかわべ)(わかいべ)、近畿に出てこない。筑紫の倭ではないか。
四 常陸風土記の倭(p.68)
・記紀の相違:倭部天皇 日本書紀の日本武尊は東北地方へ出かけ、やたら征伐する。
景行天皇は古事記では九州へ行っていない。日本書紀では九州を巡回し遠征している。しかし筑前には立ち寄らない。
追加、また削除
・大橘と弟橘:大橘比売命「倭より来る」、筑紫の倭の意。大橘を妃としている倭武天皇は日本武尊ではない。結論
3
・日本武尊は天皇ではない:帰途、三重県で不慮の死を遂げた。景行天皇がいたので、日本武尊は天皇扱いに出来ない。
・倭王武の常陸巡行:宋書の倭王武が筑紫にいる。倭王は雄略に一致しない。
・筑紫と常陸の関係:
1 対馬海流、大陸から銅器・鉄器が最初に入ってくるのは越の国、また信州を通って群馬に入ってくる
2 利根川の上流が群馬。関東の下流域を襲撃した。
五 出雲と播磨の倭(p.76)
・出雲経由越行き:常陸の倭が筑紫の倭、出雲の倭は、それ以上に筑紫の倭。
・官位の暴落:出雲風土記(八世紀半ば)の文責署名者がずらりと臣。これまで臣は最高位の姓(かばね)。
額田部臣(六世紀の古墳から)
・「姓」本来の性格:神武の家来(大九米命)が目のところに入れ墨をしていて、不思議がられている。
神武自身も入れ墨をしていた。若倭部、額田部。倭は筑紫の倭。
・混在する倭:播磨風土記は倭が、第一次の倭と第二次の倭が混在
六 初期天皇家の若倭と大倭(p.81)
・大和盆地の若頭:九州の倭国の別国、大和における倭の新しい主である。
・倭よりの使者:使大倭という官職名
・倭人伝の「大倭」なり:筑紫なる中心権力からの派遣者、としての大倭。
・初期天皇家は筑紫の分家:橿原近辺にしか陵墓をおけなかった。九代目になって、盆地内の固めが終わった。若倭の意。

第三章 倭人伝以前の倭(p.87)
一 松本清張(1909- 1992)説批判
・松本清張氏の提議:倭人(日本列島)と倭國(朝鮮半島)は別
・漢文の基本ルール:名前の次に出生地(郡県名)を書く。
・松本氏の盲点:魏志の帝紀に「倭国女王卑弥呼、使を遣わして奉献す」
・読み方の順序:「韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」、陸地で接する意。
韓、濊、倭は通貨制度がなく、通貨の代わりに鉄を使っていた
・414 好太王碑の証言:新羅は高句麗の好太王に、「倭が国境にやってきて脅かしている」と。倭の五王。
倭人とは倭国の人である。結論
・なぜ倭人伝なのか:
1) 楽浪海中、倭人有り(漢書、地理志)…と云う。周代の話
2) 倭人鬯草を貢す(論衡、巻八)
3) 倭人は帯方の東南大会の中に在り(三国志、倭人伝)
・新羅国王は倭人:瓠公(ここう)、本、倭人。初めて瓠(ひょうたん)を以て腰に繋ぎ、海を度りて来る。
脱解、本、多婆那國の所生なり。其の国は倭国の東北一千里に在り。*これは短里
・多婆那國の舟:東鮮暖流 倭国は博多あたり。
二 東夷伝と濊(わい)伝にみる倭(p.103)
・東夷伝序文:長老説くにに、異面*の人有り、日の出ずる所に近しと。*異面:鯨面、顔に入れ墨
卑弥呼が景初二年、大夫難升米らを遣わして魏の明帝に朝献す。陳寿は誇りをもって、倭人のことを記している
・濊伝のリアリティ:耆老(きろう)言う、風に遭い吹かるること数十日、東のかた一島を得。上に人有り。言語相
暁(さと)らず。その俗、常に七月を以て童女を取りて海に沈む。*人身御供の少女を海に沈めた
・女神の島:宗像(むなかた)の沖ノ島 *昔は女の島、三女神
・水蛭子の話:項中復面有り … *シャム双生児
・海、北道の問題:海の北道 東鮮暖流(西享子さん指摘)
号して道主貴と曰ふ:海の北道の安全を守る神 沖ノ島から出土した宝物は九州王朝か近畿王朝か
4
第四章 帯方の東南大海の中に在り
一 帯方の東南(p.111)
・帯方の地:後漢の終わり、楽浪郡から帯方郡が分かれた。
好太王の碑:倭不軌侵入帯方郡 帯方郡は高句麗と倭の争点
316 西晋は、匈奴の侵入により滅亡 このため、空白地帯となった。
沙里院から塼(せん)が出てきた。ソウルより遙かに西北。帯方太守・張撫夷の墓があっても中心ではない。
海の彼方に漁陽を望めるところだったか。つまり中心であるとは言えない。
・帯方の東南
1) 韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪(こや)韓國に到る。
2) (対海國)南北に市糴(してき)す。
3) (一大國)亦、南北に市糴(してき)す。
4) (末盧国→伊都国)東南陸行。
5) 《伊都国→奴國》東南。*傍線行程
6) (伊都国→不弥國)東行
7) 《不弥國→投馬/國》南
二 大海(p.117)
・尚書にみる海:
四海 なぜ四になるか分からない。中国にとって海は東と南
海とあれば、東海を意味していた。周王朝は、黄河中流域を本拠にしていた。南海は後に認識が拡がった
・海を知っていたか 海を知らない人もいた
・四海と海隅 尚書→魏志 長老云う、異面の人々。
・粛慎と日本の交流は:粛慎は北方民族で沿海州あたりを本拠としていた。
周の武王が殷を滅ぼしたので、粛慎氏、来賀す。
三 今使訳所通三十國(p.126)
・使訳:前漢・武帝の時、張騫を西域に派遣し、名馬を求め、河源を窮めた
我が魏朝は、周王朝以来の神秘の国、東の倭の使者を到着させた。
「使」(し)を遣わす
・通ずる関係:中国の天子の家来になる。
後漢が禅譲という名で滅ぼされ、曹操が天子の位について魏朝を名乗った。後漢の献帝は殺されたとの噂。
公孫氏は、魏朝に従う必要はないと。
・大夏之属に通ずる:史記に張騫の西域の大宛列伝。現在では雲南省。当時は外国。
数万人の捕虜を得て、農業生産を増大させる。
倭人伝の場合でも、中心国一つに「通」ではなく、三十國と国交をもった。
・差錯問題:(差錯)さかく、入りみだれる、ごっちゃになる意。三十ヵ国が勝手に帯方郡へ朝貢した訳ではない
実際、倭国は女王が軍事力で、各國の統制をとっていた。統一権力と軍事力をもっていた。
三世紀は、出雲支配の時代ではなく、国ゆずりで、筑紫中心の勢力が確立していた。
・卑弥呼は三十國の代表:卑弥呼が上表分を書いた。貢物を付けて送った。文書に三十國の名前が書かれていた。
・三十國の國名:狗奴國は呉朝に朝貢していたか。漢が滅ぼされ、魏朝になったが、公孫淵は魏朝を認めていない。
三角縁神獣鏡、呉の工人が日本列島へ来ている。
・狗奴国と倭国の対立:難升米は率善中郎将(魏の官職名)を与えられている。
拝仮(はいか) 詔書と黄幢(こうとう、旗) 狗奴国は迂闊に邪馬壹國を攻められなくなる。魏を相手にする。
狗奴國は魏朝とは通じていなかった。
5
四 「狗邪韓國、倭地」論(p.142)
・倭地五千里:海の上に散らばっている全領域。12,000-7,000(帯方郡から狗邪韓國)=5,000(倭地)
・任那日本府の問題:朝鮮半島の南岸部に倭地があり、それが狗邪韓國であった。

第五章 里程論(p.147)
一 里単位の歴史 二里余、短里で180m
・赤壁の戦い:長江は支流の流れで加速される。このため、下流に行くほど速くなる。
川幅、400-500m(冬の乾季)、800m(夏の増水季)
・魏・西晋朝/短里説:一里=77m 周髀算經によると、76-77m(谷本茂)
・秦・漢の長里:文章の一部分だけ抜き出すと、間違えることがある。
・古宝への復帰:周髀算經(BC1000)、実際の星の運行を反映している。
・長里、再び:316(建康4)、匈奴の劉曜が西晋を滅ぼし、東晋(劉氏)を起こす。漢の高祖、光武帝に復帰。
二 史料対比の実証(p.157)
史記の中の長里と短里:夏・殷・周は短里、秦・漢は長里、魏西晋は短里、東晋に漢の長里。
三国志を里程ぬきで読むことは出来ない。周の天子、方5,00 里。楚、方、5,000 里で、天子と同じ本拠。
三 南蛮伝の中の倭人伝(p.162¸)
・夷蛮伝の里程:倭人伝は里程列伝ともいえるほど、里程記事がある。曹操は天子ではない、太祖。
倭人伝の里程は、大嘘。<白鳥(東京帝国大学)・内藤(京都帝国大学)共通の認識>
・「韓地、魏領」問題:帯方郡治~女王國、一万二千余里。(帯方郡治~狗邪韓國が七千里+五千里)
・「二つの序文」問題:陳寿の保護者・張華が失脚したため、宙に浮いてしまった。その後、陳寿は没する。
張華を追いやった荀勗(じゅんきょく)が政敵に倒され、范□(はんいん)が恵帝に上奏した。
このため、三国志の序文はない。しかし、陳寿は夷蛮伝に二つの序文を書いている。書に称す…
実際に倭国へ赴き、見て、記録した。これが三国志全体の結論ともいうべきもの。
四 里程列伝(p.172)
・大宛列伝の里程(史記):張騫は大夏に行き、黄河の源を窮めた。
禹本紀の崑崙なる山は何処にもない。
・余里の理解:
五 陳寿の上表文(p.176)
・三国志の災難:正史は完成すると、天子に奉呈し、上表文を述べる。
亡くなった陳寿の家に三国志がある。正史として採用していただくよう上表文を出した。
天子から詔が下され、官人が筆写した。
・諸葛亮著作全集:中国の歴史は煮ても焼いても食えない。司馬遷は史記の中で復讐している。
諸葛亮は、魏と対立した敵将。その事績の編纂をした。若い陳寿が選ばれた。よほどの見識を買われた。
著作全集を完成し、上表文の全文を収録してある。
・上表文の精神:三国志に上表文を書けなかった身代わりか。
・陳寿の上表文:諸葛氏集目録 … (三国志・蜀志、諸葛亮伝第五)

第六章 記された国名
一 夷蛮の固有名詞(p.185)
・倭人伝の固有名詞:
・帝紀(魏志)の夷蛮固有名詞:民族名称、また中国式一字名
・夷蛮伝の固有名詞:魏晋では、天子を指す臺(だい)を夷蛮に使わない。
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・韓伝の固有名詞:同じ名前が二度、出てくる。文字の音読、現代の漢和辞典の読みと、かなり近い。
・倭人伝の背景:卑弥呼の倭国は「鉄」の国。(弁辰)其の瀆盧国、倭と接す。*倭地が朝鮮半島内にあった
二 九夷問題(p.194)
・「爾雅」の(李巡)九夷: 爾雅(じが)、もと周代に完成したか。周代の地名か。(後漢書より古い。後漢書にない)
1、玄兎 2、楽浪 3、高麗 4、満飾 5、鳧更(ふこう)6、索家 7、東屠 8、倭人 9、天鄙
隠岐島は島前と島後。島前の中の島は海士(あま)村、ここが天国(あまくに)の原点か。地名に天日(てんぴ)
・倭は真名井の「ゐ」:井原、井尻 倭人な「ゐ」人という読み方、後に「にんべん」を付した。
対馬の浅茅(あそう)湾の北岸に和多都神社。そこの天の真名井という井戸。
弥生の地名というより、縄文期の海人族の二つの拠点(隠岐島、対馬)
・九夷は実在した:九つは、周代の地名、氏族名。
後漢書・東夷傳、□夷、于夷、方夷、黄夷、白夷… *抽象的で自在の地名、氏族名ではない
「論語」子罕(しかん)、「子(孔子)、九夷に居らんと欲す」。孔子は九夷という言葉を知っていた。
三 倭人傳と韓伝の国名(p.199)
・記された三十の国名:国名が出てくるのは、倭人傳と韓伝だけ。全体としての意味を掴む。
通じている三十国、壹與(いちよ)の上表文に国々の名前が書かれていた。
・韓伝に現れた国名:実際に通って確認した国々が書かれている。
・倭人傳は韓地陸行なり:紹興本は手を加えている。韓伝は陸行であった。多くの国名が出て来る。
「史記」西域の国々に卑字は使われていない。大国になった時、卑字が使われる。
周は匈奴に追われて中国本土に逃げてきた。その周を殷が保護した。
匈奴:匈河水の種族 胡奴:胡の種族 委奴(ゐど):倭奴、倭の種族
倭人傳の官名 倭人傳の固有名詞の読みは推定。
呼:カ 狗:コ ヒミカ:日甕、太陽の甕(みか) 筑後風土記に甕依姫 奴:ヌ

第七章 戸数問題(p.215)
一 魏の制度としての戸
・倭人傳の戸と家 合計十四万六千戸と四千家
・落と家と戸:混用している 確証のあるものだけを書いた。分からないものは書かなかった。
北方民族は落が多い。
・魏志の邑と戸:魏の時代 省、郡、県、邑、戸
・「戸」が出てこない:蜀志は、戸が出てくるのは二ケ所 魏志では多く出てきた
・魏の制度としての「戸」が強引に貫ぬかれている:三国志の呉志、蜀志で、「戸」は消された。
・郡評論争:大化の改新の詔勅、「郡」が出てくるので信用できない(井上光貞)那須国造碑の金石文は「評」(評督)
七世紀末まで評、八世紀に郡という単位が使われた。浜松の伊場遺跡から、「評」の木簡が出てきた。
日本書紀、続日本紀は、九州王朝が使っていた「評」を隠した。人物の肩書きに「評督」と出てくる。
・戸と家の区別:「戸」は税を取る単位、また軍事力を徴収する単位。倭人以外の人がいた場合、「家」
一大国、不弥国の場合、倭人以外の人々がいたので、「家」。
三千許家:許は前後の意
・夷蛮の地に戸なし:史記、漢書では「戸」を使っていない
・「漢書」・地理志:戸〇〇万、口◯◯◯万、県◯◯
二 戸数問題の副産物(p.236)
・県の存在:県(あがた)の成立 県風土記は九州王朝。郡(こおり)風土記は近畿王朝の命令。
・二つの風土記と二つの里程:県風土記は短里(75m)、 郡(こおり)風土記は長里(435m)
・万葉の短里:八世紀、土地の人が「二十許里」、これは短里。長郷で約四里。短里が出ている。
7

第八章 剣・矛・戈(p.241)
一 三国志に現れた剣・矛・戈
・剣・矛・戈:上級の人物は上殿の時でも、剣を持っていた。
柄のついた矛(ほこ)、遼東半島、朝鮮半島、日本列島で使われていた。中国大陸では戟(げき)。
刃が片方、刀。両刃は剣。(倭国)兵に矛・楯・木弓を用いる。
・中心は筑紫:細形銅剣分布図、青銅器分布図
・天子を守る矛:張飛が矛を横たえて、橋に立ち、蜀の劉備を逃した。劉備は妻子を捨てて、逃げている。
馬超は、劉備を玄徳、玄徳と呼んでいたので、関羽と張飛は杖刀(刀を杖のようにして)立っていた。
その後、玄徳、おい玄徳と呼ばなくなった。
杖刀(じょうとう):将軍の姿勢 稲荷山鉄剣の金文字「杖刀人」
・矛は戦闘用具:主たる戦闘具、矛(ほこ)
二 戈(か)の時代
・戈を倒にす:殷の民衆は、武王の反乱軍に対して、戈を逆さまにして迎えた。(尚書、一カ所)
戈は柄の長い鎌の親玉のようなもの。つまり農具が武器になった。馬の足を払うのに最適。
・剣履(けんり)上殿(じょうでん):諸侯が身につけていたのは剣で、矛や戈ではない(礼記)
・戈から矛への変化:戈は小隊長か部隊長が持っていた。三世紀になると、矛が主となる。
戈を振り回すと味方まで殺傷する危険があった。矛は槍のように、密集しても使えた。
・矛盾(むじゅん)と干戈(かんか):矛(ほこ)は金属の中に柄をつける穴が開いている。中子(なかご)を作る。
三 出雲からの出土物
・三五八本の銅剣(出雲の荒神谷遺跡):戈は、古く殷末周初の武器。矛は、周末から漢・魏の新しい兵器。
・出雲の時代の一断片:国ゆずり神話、出雲から筑紫に中心が移った。大国主命が国ゆずりを承諾した。
・八千戈(やちか)の神と八千矛(やちほこ)の神:剣でなく、矛や戈か
・剣は便宜上の用語:高橋建自/日本青銅文化の起源
鉾は、本の方が袋になって柄を刺しこむもの。
剣は、本の方が刀剣のように茎(なかご)になっている。その茎が柄の方へ差し込まれる。
・剣は矛であり、戈である:
・実在の名称と学問上の名称:甕(かめ)棺と甕(みか)棺 卑弥呼(ひみか)は「太陽のミカ」
稲荷山鉄剣は刀(とう)、両刃が剣(つるぎ)、片刃は刀(とう)。
四 前期銅鐸の問題(出雲)
・先祖を祭る前期銅鐸:天子が祖先を祭り儀式に銅鐸が使われていた。(礼記)
鐸(たく)と一緒に中細剣が出土
・国ゆずりで、消えた銅鐸:神聖な中細剣が平剣へ発展したが、出雲では断絶している。
・斧(おの)の似合う天子:周代の天子 斧鉞(ふえつ)を操りて云々

第九章 銅鏡百枚
一 鏡の記録
・記紀にない鏡:特に汝に…銅鏡百枚…(魏志) 卑弥呼は天皇家の先祖ではない
・莫大な下賜品の背景:馬韓(韓国)は、楽浪・帯方郡と戦い、滅亡した。
・鏡を望んだ卑弥呼:後漢の献帝が武帝を魏公にするとき、周代の前例にならい、鉄鉞
卑弥呼は太陽信仰で鏡を欲した。アマテル大神であった。八割りは博多湾岸から出土する。
・鏡と前方後円墳:アマテル信仰
(雁註)糸島、博多湾岸に、前方後円墳はない。佐賀の岩戸山古墳は、衙頭(がとう)のある前方後円墳。
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二 三角縁神獣鏡説 小林行雄
・三角縁神獣鏡:近畿に集中している。
・二つの疑問:三角縁神獣鏡は中国に出土しない。弥生遺跡に出土しない。日本列島で古墳時代に作られた。
・倭国特注説:小林行雄らの自己進化の理論。これは理解し難い。
・伝世鏡の理論:岩清尾山(いわせおやま)古墳の猫塚古墳(香川県高松市)(梅原末治)
(古田)部分伝世はあるが、全面伝世は不可能
魏(二世紀)の夔鳳(きほう)鏡:福岡県春日市・須玖岡本、一世紀の弥生墓から出土
(梅原)従来の私の発想は少し変えなければならない。
・考古学界を憂う:多くの考古学者は、三角縁神獣鏡は国産だと思っているが、それを言って貰っては困ると
・猫塚の荒廃:讃岐の石清尾山古墳 積石塚として有名だが、荒らされたまま。
三 弥生鏡*の銘文 *漢式鏡
・日と光の文字:弥生鏡は全部で60 ほど、その殆んどが筑前中域
・弥生人は字が読めた:魏は、詔書を送ってきた。
・神聖なる日を映す:太陽信仰に関係している。
・蒼龍と白虎:後に四方となるが、当初は東西。
・仙人は桑を食す:筑前の卑弥呼、壹與は、蚕から絹織物を作っていた。
・崑崙山を知っていた:シルクロードの終点は、最初(弥生期)は、本来、北部九州に至る道。
四 立岩遺跡の舶載鏡
・詩にならない銘文:音韻が合わなくなっている。つまり、舶載鏡ではない。
・文字はデザイン:意味がわからない、つまり、文字は単なるデザイン。中国人が作った鏡ではない。
・国産鏡の等級:日本では権力の象徴として日本列島製の鏡が作られた。文字を読まなくてもよかった。
太陽信仰の儀式の道具。中国では鏡は女性が日常愛用する日用品。良質の銅鏡もあれば、悪質もあった。

第十章 倭人伝の詔勅
一 日本初期の詔勅(p.299)
・遺言の詔勅 日本書紀・雄略紀は隋書・高祖紀から採っている。年代からみると、逆だが、書紀は盗作した
・人麿の本歌取り 二 倭人伝の詔勅(p.302)
・三国志の詔勅 武帝・曹操は天子になっていないので、詔書はない。倭人伝だけ詔書が出てくる。
・卑弥呼に制詔す 制詔は天子の命令、天子のみことのり。
制は帝王制度の命、詔は告令。また天子が勅を下す。制勅。卑弥呼は諸侯・王侯に準じて扱われている。
・制詔の意味 中国の制度の中に組み込まれる。たいてい「詔」で、「制詔」は、それ程、出てこない。
三 詔勅を深く読む(p.309)
・夷狄文字を識らず 鮮卑王は文字を知っていることを「親中國である」という証拠
・太后詔 詔勅の中に「大魏」とある。「大倭」も同様に理解すべき。

第十一章 朝廷の多元性
一 玉、珠、丹(p.311)
・玉 玉(ぎょく)は崑崙山で採れる。曹操は、遺言で「葬る時、平常の服で、金銀珍宝を一緒に入れるな」
「喪乱以来、漢氏の諸陵、発掘されざるは無し。至りては乃ち、玉匣・金褸を焼き取り、骸骨并びに尽くす」
(魏志・文帝の詔勅) 壁(へき):輪のようになった玉(ぎょく)
・珠 真珠
・丹(朱)明帝も祖父・曹操が非常に質素で、贅沢なものは使わなかった。
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・石車と磐船 いわふね、石を運んだ船の意。しかも石を攻撃用の投げ付ける装置。修羅(しゅら)は大きな石を運
ぶソリ。
二 朝廷の多元性(p.319)
・三国志の朝廷:漢の朝廷、魏朝、呉朝 前漢の朝廷も対象となっている。
・朝廷の多元性と西晋朝廷の不在:執筆時点の権力の中心・西晋を朝廷と呼んだ例はない
・朝廷を疑ってみる:出雲風土記に二回、朝廷と出てくる。この朝廷は出雲朝廷か大和朝廷か
・二つの朝廷:国造り(くにつくり) *くにもみやつこ、と暗記してきた 叙述の大穴持命と孫二人の場所を朝廷
と呼んでいた。大和朝廷ではない。出雲、筑紫、大和、それぞれ朝廷
・国を造り、国をゆずる:大国主命は大和朝廷に国をゆずったわけではなく、筑紫に天孫降臨した邇邇芸命(皇御孫
命)に譲った。出雲中心の支配を完成したことを国を造ったと表現している。
・三津郷の大国主:大穴持命の子供が口が利けず、夢で願った。
銅の精錬で鉱毒が流れていたか。銅利器(出雲矛)を大量に生産していた。

参考書(包括的)
1 三品彰英/邪馬台国研究総覧
2 佐伯有清/研究史 邪馬台国
3 佐伯有清/邪馬台国基本論文集 *邪馬台国が正しいと考えている。
4 安本美典/邪馬台国ハンドブック *甕(みか)依姫を取り上げていない。ハンドブックにならない。

研究論文摘要
1 松下見林/異称日本伝 金印・ヤマト(大和)の地にあると信じた。金印は九州志賀島
2 新井白石/外国之事調書 晩年、ヤマトから九州、九州説、筑後の山門(やまと)郡 本居宣長
3 白鳥庫吉/倭女王卑弥呼考 九州説/筑後また肥後の山門 里程に約五倍の誇張あり(短里を知らなかった
4 内藤湖南/卑弥呼考 大和の地名、官名、人名に比定した。*版本を探った
5 高橋健自/考古学上より観たる邪馬台国 古墳墓の多い地、漢魏の鏡・出土の多い地。大和
*卑弥呼の墳墓、径百余歩(435m) 長里で計測してしまった。実際は短里(25m)、100 歩x25cm=25m
6 三宅米吉/邪馬台國について 倭(ヤマト)に従属する国として、奴(な)国を考えてしまった。
*委奴(ゐぬ)「ゐ」の(人々)国
7 橋本増吉/邪馬台国の位置について 卑弥呼の径は円形を意味している。前方後円墳は当たらない。
*筑後山門説を採ったが、山門は円墳の密集地でもないし、鏡、錦の密集地でもない。文献と考古学は別の学問
8 梅原末治/考古学上より観たる上代の畿内 青銅器から鉄器へ。三世紀、鉄器文化の中心は大和。しかし、三世
紀、近畿には金属器がない。銅矛の実物、鋳型は出土していない。大和が前方後円墳の最古型と称していたが、
近年、小郡市の津古生掛けに出現している。
9 笠井新也/卑弥呼の冢墓(ちょうぼ)と箸墓(はしはか) 全長230m、後円径150m
*径を前方後円墳の円墳部と限定、ただし短里(卑弥呼の墳墓、100 歩=25m)を考慮していない。
10 榎一雄/魏志倭人伝の里程記事について 全里程を合計すると10,500 里。
*1500 里は伊都国から邪馬台国まで 唐六典に1 日の歩行・50 里から、30 日は1,500 里になると計算。
三国志と唐六典が同一の単位であることが前提。短里と長里では成立不可能
11 小林行雄/邪馬台国の所在論について 鏡は手ずれで伝世される。三角縁神獣鏡(四世紀以降の古墳)こそ魏
朝から卑弥呼に授与された鏡であると。確かに部分的には伝世もあるが、全三角縁神獣鏡が三世紀に齎(もたら)
されたとするには無理がある。しかも中国から一枚も出ていない。国産銅利器は筑後になく、筑前中域である。
12 植村清二/邪馬台国・狗奴国・投馬国 九州説とすれば、筑紫郡を中心に、糸島(福岡西部)から神崎(佐賀
県北部)に及ぶ領域以外にない。
あとがきに代えて 中山千夏さんとの往復書簡
資料 倭人伝・読み下し文 以上



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