浮世絵02/刊年(暦法)編 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)   [HP: ukiyo-e.co.jp]
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刊年(暦法) 2015-06-23現在

 

◯年号 Japanese Era

年、月日(干支)は、暦法の計算、仕組みを理解することが基本であるが、なかなか難しい。

下記の論文を読み、理解できれば大丈夫。相当、難解であるが…

*1946小川清彦/付・日本書紀の暦日に就て 

1972源豊宗/日本美術史年表、座右宝

1975内田正男/日本暦日原典445-1872AD  暦法編  

1977内田正男/日本書紀暦日原典[-666]~697] 

2007藤原 有/史書に記された暦法/超名品図録、巻末

 

和暦 日本列島では倭國以来、中国暦の元嘉暦443(29.5305) 儀鳳暦66429.5305)を採用。これは太陰太陽暦で計算している。つまり日常は太陰暦(月の満ち欠け、朔望日、29.5308日)、太陽暦(365.24日)で補正。(以下、2007藤原 有/史書に記された暦法/超名品図録、巻末)

1 太初暦(-104年11月の干支指数、月齢一ヶ月=29.5308、太陽暦一ヶ月=30.4375)

2 三統暦(-104年11月の干支指数月齢一ヶ月=29.5308太陽暦一ヶ月=30.4375)、

3 四分暦(-161年11月の干支指数月齢一ヶ月=29.5308太陽暦一ヶ月=30.375)、

4 景初暦(-3809年1月の干支指数月齢一ヶ月=29.5305太陽暦一ヶ月=30.4372)、

5 元嘉暦(443年から5703年前、-5260年1月の干支指数月齢一ヶ月=29.5308太陽暦一ヶ月=30.4372)、

6 戊寅暦(626年から164348年前、-163722の前年、−163723年11月の干支指数、月齢一ヶ月=29.5306、太陽暦一ヶ月=30.4370)、

7 儀鳳暦(663年から269880年前の前年、−269216の前年、-269217の11月の干支指数、月齢一ヶ月=29.5305太陽暦一ヶ月=30.4370)

8 現在の天文学 月齢一ヶ月=29.5303、年(回帰年)365.242195  太陽暦一ヶ月=30.4368

つまり、年月日は、その地域毎(ユダヤ、ギリシャ、中国、キリスト、イスラム)に異なった暦法を使って、恣意的である。地球は一つであるから、地球規模の共通尺度は(実測に基づく計算、現在ではコンピュータで)計算された地球の公転周期365.2564日、月の周期(朔望月)は約29.5日である。

◯推古(592-628)朝以前は倍暦(ばいれき)、つまり一年を二年(春耕・秋収)と数えている。春分、秋分を各々一回づつ数えて、その中間を中元(ちゅうげん)としたからである。つまり逆算して、紀元前666まで遡って記録されているが、実在するのは恐らく、西暦0年頃である。九州志賀島で1784年、発見された金印「漢倭奴國王」は57年(光武帝)。この金印、後漢書・東夷伝から明らかなように、九州に王朝があったことを示している。

日本書紀の初期天皇の多くが、100歳以上の長命を保っていて、戦前の学者は「捏造」であると否定した。しかし倍暦と考えれば、半分の50歳。当時としては長命であるが、全く不思議ではない。

◯1975内田正男/日本暦日原典は445(允恭天皇34年)から始まっている。美術史で定評のある、1972源豊宗/日本美術史年表は、591年(崇峻天皇4年)から始まっている。太田博太郎、山根有三、河北倫明/原色図典 日本美術史年表は実質的に550欽明朝、古写経・菩薩処胎経(443から記録しているが、銅鏡作品で、503説もある)の奥書。敏達、用明、崇峻、推古の確実な作品はない。615法華経義疏、622天寿国繍帳。舒明、皇極、孝徳期に作品なし。

四分暦-161(29.5308) 元嘉暦443(29.5305) 儀鳳暦66429.5305

*太陽太陰暦(元嘉暦、儀鳳暦とも、現在の天文学、年365.24日で計算されている) 

 ◯暦法が替わっても日の干支は不変。暦法が替わると朔の位置が替わる。太陰太陽暦は日を干支で数える。

◯倭の五王(宋書)413-502

この五王は、九州王朝であることを示している。この時期、奈良王朝は存在しない。奈良王朝は662年以降。

720年に成立した日本書紀(奈良王朝)は、これ以前、つまり紀元前666まで遡り、計算で年号を定めた。全く無関係の継体(507-531)、応神(270-310)、崇神(97BC−30BC)王朝を繋ぎ合わせ、紀元前660sまで遡らせた。しかし662年、九州王朝が白村江で全滅する以前、奈良に王朝は無かった。九州王朝の倭国(都府樓、太宰府)は、57(金印)以降、230s倭国の内乱。450s倭の五王。662年白村江で全滅するまで、倭國は九州王朝であった。奈良王朝は662年以前に存在しなかった。

 1471申 叔舟(-1471-)/海東諸國記

国内の記録は焼却されたが、朝鮮外交官が古代の日本の状況、九州王朝の年号を記録していた。

◯同時に、1604-1608ロドリゲス/日本大文典 (ポルトガル) Arte da Lingoa de Iapam 。これにも、奈良王朝の大化以前の年号、つまり九州王朝の年号が、ポルトガル綴りで記録されている。

 ◯2011年、福岡市西区の元岡古墳群G6号墳から出土した「庚寅」銘文は、570年を刻記している。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(□は「練」か)の19字が、約12センチにわたり1文字5ミリ四方で刻まれている。表面に細い溝を刻み、中に金属を嵌(は)め込む象嵌(ぞうがん)の技法を用いている。

◯「570(庚寅)年正月6日(庚寅)に刀を作った」。「庚寅の年」で、しかも「正月6日が庚寅」である特定年を刻記している。「庚寅の年」は、60年毎に廻ってくるので、510630もある。しかし、510年正月6日は己卯、630年正月6日は壬申であるから、該当しない。つまり、570庚寅の年、正月6日のみが庚寅で該当する。年号が刻印されていたこと、これは北九州に王朝(九州王朝)があったことを示している。何故なら、年号(和暦)は、王朝が制定するからである。

 最初の年号とされる奈良王朝の645大化(たいくわ)は、662年を契機として、九州王朝の695大和(たいくわ、おおいなる倭の意)を簒奪した年号である。他にも645大化、650白雉、662中元、661-670s白鳳、686朱鳥、695大和の年号は、九州年号を借用したものである。推古帝(590s)以降、奈良王朝は多くの女帝を輩出させ、倭の卑弥呼(230s)の継承者であることを画策した。推古朝の聖徳太子も実在する事績は全くない。

(参照)古田武彦/失われた九州王朝(角川文庫)

 *何かお気づきの点ございましたら、下記まで御知らせください。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂   [HP: ukiyo-e.co.jp]
[浮世絵学]文化藝術懇話会    浮世絵鑑定家
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

E-mail: gankow@gmail.com

 



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