浮世絵学02/刊年 廣重/東海道五十三次(保永堂+僊鶴堂)とうかいどう 1830.03-12(文政13.03-12)に版下画成る。酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/17992
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浮世絵学02/刊年 廣重/東海道五十三次(保永堂+僊鶴堂)とうかいどう 1830.03-12(文政13.03-12)に版下画成る。酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/17992

1982-04-25現在(2018-08-21更新) http://www.ukiyo-e.co.jp/17992

酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂 浮世絵鑑定家 [浮世絵学] 検索
SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e

*廣重の東海道五十三次(保永堂)が何年何月に刊行されたか。この画証に関する新発見である!

*恐らく、特筆すべき発見である。学術雑誌好古堂版「浮世絵」を創刊した祖父、酒井庄吉、文助、忠吉を初めてとして、大正期の廣重研究の第一人者、小島烏水さん、松木喜八郎さん、そして父・酒井藤吉(日本浮世絵博物館初代理事長)、叔父・酒井貞助、酒井泉三郎、先年、お亡くなりになった鈴木重三先生ほか、最大の関心事であった。きっと喜んでくださるに違いない。

酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

浮世絵学**     →御案内 酒井好古堂 [http://www.uiyo-e.co.jp/16738]

◯2018廣重/東海道五十三次之内 保永堂+僊鶴堂

2018廣重1(ひろしげ1)/東海道五十三次之内_246項目

*結論を述べると

1)1830.03+.08(文政13.03閏.08)以降 伊勢内宮大々御神楽を描くため、東海道の宮から伊勢参宮道へ。

この往復で、東海道の宿駅を描いていた。鈴鹿越えをしていない。

2)1831.01.02(天保2=文政14)、廣重/大横/東海道五十三次 (保永堂+僊鶴堂)1年間で、13点

*前年1830.12(文政13)に彫、摺が出来ている。

3)1831.01.02-1833.12.30(天保2-天保4)保永堂) 3年間かかり、42点

4)1834.01.02(天保5) 保永堂単独で出版

*下記の図録(展覧会)を是非、御覧下さい。

1975酒井藤吉/廣重東海道風景版画(五種類すべて、保永堂、行書、隷書、中判、狂歌)。大阪市立美術館

1994酒井雁高/廣重(図録)、秋田市千秋美術館、岐阜市歴史博物館、岡山城天守閣、岩国歴史博物館、ほか

*廣重の図版(廣重/東海道<保永堂版>、國貞/東海道五十三次之内、芳重/東海道五十三駅・鉢山圖繪、廣重/五十三次名所圖會)編年資料集成(伝記、年表)などは、これまでの資料を全て網羅し、博捜した図録、資料です。

(雁註)図録の年表に1912小島烏水、1934漆山天童、1965林美一、1970鈴木重三など先学の諸賢を記載しておいた。林美一氏が、廣重の伊勢内宮大々御神楽之図を記録している。三代廣重の伝聞により、八朔に東海道へ出掛けたとの記録があるが、実際は役者の旅姿(夏の衣服ではない)などから、閏三月に出掛けたと見るべきである。四月、幸四郎、團十郎などは伊勢古市にて興行をしている。

1995酒井雁高(編)/超豪華復元浮世絵 歌川廣重 東海道五十三次。小学館

*この冊子に、先学の諸賢をほぼ網羅して、彫、摺、絵の具の差異を詳細に記した。残念なことに、発刊と同時に完売で、図書館などで御覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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1994酒井雁高/廣重(展覧会図録)(資料集成、年表)、岡山城天守閣ほか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目次)

1 1830.03+.08(文政13.03閏.08)以降、廣重は、伊勢へ出掛けて、東海道の宿駅の下絵、そして伊勢内宮大々御神楽を描いている。

2 1830.03(文政13.03)廣重/大3/美人風俗合・伊勢古市(三枚続)を描いている。

3 1831.01.02(天保2=文政14)、廣重/大横/東海道五十三次を刊行した。

4 年月、外題、役名(役者)の特定

5 廣重が、将軍家の御馬献上に随行した(三代廣重の伝聞)

6 廣重は、幕府海防の密偵として、東海道を含め、海岸線の景色を描いていた

1)廣重/1830.03(文政13.03)/大3/伊勢内宮大々御神樂之圖 

廣重は、文政13.03、伊勢へ出掛けていた *実際に、出掛けたのは文政13.03+.08(閏3月8日)以降(馬琴宅訪問の後)

偶然、この画証および書証(刻記)を見付けた。この絵の刻記だけでは、廣重が伊勢へ出掛けたことにならないと、ある方が云っていた。しかし、出掛けていなかったという否定証明は、廣重が文政13.03、特定の場所へ出掛けていたことなどを含めて、否定事実を証明しなければアリバイにならない。先ず、画証、書証を提示することが議論の大前提である。

また、廣重は、1837c(天保8*年頃)、木曾路から京都、大坂、備前、四国丸亀へ渡り、帰路は大坂から奈良、伊勢を経て、名古屋から東海道を歩んでいた。木曾海道の関連のため、東海道の宿駅の写生は少ない。このことは、天保8*年以前に、廣重は既に東海道を旅したことを示している。(木曽路写生帖、大英博物館所蔵)

*(雁註)1836c(天保7頃か)、翌年に倒産

文政13.03、廣重は東海道を四日市まで、そこから伊勢参宮道へ向かった。四日市の旅人が転がる笠を追いかけて、脇道へ逸れて行く? これは廣重の洒落であろう。つまり、この時、石薬師以西、京師まで、全く出掛けていない。

*文政13.03+、閏月(小)がある。

*馬琴/『滝沢家訪問往来人名録』 下121(文政十三年閏三月七日)
  〝庚寅(文政十三年)閏三月七日来訪 八重洲河岸火消同心隠居安藤鉄蔵事 古人豊広門人 画工広重〟
1830.03+.07(文政13閏3月7日)廣重は馬琴を訪問している。伊勢おかげ参り、その他の情報を聴いたのであろうか。
1830.04(文政13.04)幸四郎、白猿・團十郎などが伊勢古市で興行することも聴いたに違いない。
このためであろうか、幸四郎、團十郎など役者の旅姿が描かれている。
従って、廣重は翌日、閏三月八日以降、伊勢へ出掛けた。(以上、加藤好夫先生がネット上に掲載してくれた文面を追記する)
 
馬琴(1767-1848)は、廣重(1797-1858)より30歳ほど年上である。

浮世絵学に沿って、記述する

1 落款:廣重画

2 刊年:1830(文政十三庚寅三月)*文政13.12.10改元、天保1年となるが、21日間のみ。

*江戸に戻り、年末までに版下絵を校了。55枚全部ではなく、半分ほどか。翌天保2年、天保3年に刊行した。

3 判型形態:大3

4 外題/伊勢内宮大々御神樂之圖

5 版元:岩戸屋

6 内題

内題:(大3-2)文政十二丁丑年伊勢太神宮御遷宮ニ付同文政十三庚寅三月より諸國おかげ参り講中大々之圖;

内題:(大3-3)文政十二丁巳(1829)年御□*宮、同十三(1830.03)年三月より御蔭参り諸国□□ *シンニュウ+千

7 出典:日本浮世絵博物館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*伊勢太神宮遷宮は前年、1829(文政12丁丑)年、20年毎に行われて確定している(武江年表ほか)。

翌年が「御蔭参り」になる。

*廣重の名は未だ殆ど知られていなかった。東海道/保永堂版によって、初めて知名度が上がった。

*伊勢参宮は四日市から、外宮(げくう)を経て、古市を通り、内宮(ないくう)へと出掛ける。

東海道の道筋から、当時、外宮の方が盛んであったことが分かる。外宮と内宮の距離は5kmほどある。

この間に古市の遊廓、芝居小屋があったが、現在では全く面影がない。これは鉄道が敷かれて、人、物流の流れが

替わったからであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*知人から二代豊國の三枚続 伊勢太神宮参詣羣集圖の冊子が贈られてきた。

二代豊國は、文政13.03、伊勢へ出掛けたこと。

大林組が発行していうPR雑誌(御師の文献30)。残念なことに三枚続の左が見えない。

内宮の鳥居前の群集。鳥居の後方に外宮(けくう)が小さく見えている。

この内宮と外宮の間に、間(あい)の山があり、遊廓、芝居小屋があって栄えていた。

二代豊國が伊勢へ出掛けて描いたものと思うが、否定する方は、否定の根拠を提出する必要がある。

昨日、稲垣進一大兄より、全三枚続が送られてきた。神宮文庫所蔵の貴重な作品である。

左の奥、この橋は何という名前であろうか。

神宮文庫所蔵

1 落款:好に□□豊國画(1777-1835-(59)-

2 刊年:1830.03(文政十三年三月)

3 外題:伊勢太神宮参詣羣集圖

4 版元:ト(山口藤兵衛)

5 内題:(内宮の鳥居、この後方に外宮の鳥居が小さく見えている)

6 出典:1998大林組広報室 季刊大林 No.43特集  御師(おんし)

豊國(とよくに) 歌川〜         1769-1825(57)
*豊國(とよくに) 二代     1777-1835-(59)- 豊重の後名    *二代が三代より年上で、二代を継いだ。
豊國(とよくに) 三代       1786-1864(79)    國貞の後

廣重(ひろしげ)         1797-1858(62) *二代豊國より、20歳ほど年下である。

2)廣重/1830.03(文政13.03)/大3/美人風俗合・伊勢古市(三枚続)

伊勢古市の妓楼を描いた画証があること。妓楼名、遊女名は無いが、廣重は古市の妓楼を描いている。当時、江戸の吉原、京の島原と並ぶほどの盛況であった。備前屋、油屋、杉本屋などが著名であった。版元は岩戸屋である。伊勢内宮大々御神樂之圖(三枚続)も岩戸屋である。従って、これらの浮世絵から、廣重が伊勢へ出掛けた確度は高い。尤も、美人風俗合・新潟、美人風俗合・長崎丸山があるが、現地に出掛けていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*それぞれに外題があるが、三枚続の右を紹介する。版元は他の図版に刻記されているように、岩戸屋で、1と同版元。これで、廣重が実際に伊勢へ行っていた確度が極めて高くなった。*六十余州名所圖會は、京都、大坂以西は名所図会からの借用、同様に関東以北も、実際に出掛けていない。甲州、信州へは木曾海道などを描くため、出掛けている。甲州日記なども記録されている。

3)廣重/翌1831.01.02(天保2=文政14)/大横/東海道五十三次を刊行した。

*版下画は前年末まで、1830.12.30(文政13=天保1)に仕上げていた。

全作品を刊行するまで、恐らく二年ほど掛かったか。

*1830(文政13.12.10=天保1)年末に改元、天保1年となるが21日間のみ。この12月は大(30日)。

*改元されても、刊記は文政13年のまま、翌文政14=天保2であるが文政14年の表記もある。

*保永堂版(僊鶴堂合板)東海道五十三次の刊年、この画証で確定できた。

この画証で、版下は1830.12(文政12.12末)、保永堂版(僊鶴堂合板)は1831.01.02(文政14=天保2)に刊行されたことが明らかとなった。

4)年月、外題、役名(役者)の特定

役者は右が三代目尾上菊五郎(1784-1849)、中が五代目松本幸四郎(1764-1838)、左が七代目市川團十郎(1791-1859)である。1830.03(文政13)、この三人は伊勢古市で演じている。菊五郎の襲名(1815-1847)、幸四郎の襲名(1801-1838)、團十郎の襲名(1801-1832.02)、1830.03(文政13)に合致する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1933吉田暎二(てるじ)/伊勢歌舞妓年代記、放下房書屋

この伊勢歌舞伎年代記を何とか入手できた。この年代記で、役者の特定が出来た。廣重も伊勢に出掛けけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文政13.04 古市 松本幸四郎、團十郎事・市川白猿の役者名が確認できる。

七代市川團十郎(白猿)(1791-1859)別名、白猿(文政12.05-文政13.07) *文政13.03-04ならば、合致する。

また歌舞伎の専門家の意見でも、これらの役者の特定は妥当であるとの見解を得た。これらの役者の興行年月で、廣重が伊勢へ出掛けたことも判明した。

やはり、伊勢は上方(かみがた)。江戸は下(くだ)りで、江戸の役者は埒外。圧倒的に上方役者、浅尾額十郎、浅尾爲十郎などに人気が集中している。

1829(文政12.3.21)、大火、江戸三座は焼失。このため、多くの役者が地方へ出掛けた。これは最も重要な要因である。いわば出稼ぎである。

三代目中村仲藏(手前味噌)(1988安田文吉/伊勢歌舞伎考/伊勢千束屋*・歌舞伎資料図録)*ちづかや

*千束屋(妓楼)の歌舞伎資料、上段に古市、下段に中之地蔵の芝居記録

「をどり狂言・かしい志やう所、おしろい繪具類、かづら 小道具いろいろ いせ古市ちつかや」

*常設の芝居小屋は、古市廓の発展とともに、妙見、古市、中之町に設けられたが、その後、古市、中之地蔵の二所となった。伊勢三棟芝居は、操り芝居二棟、歌舞伎一棟。元禄ころから興行をしているが、毎年興行をするのは享保頃からである。

図録巻頭に、多くの豪華な衣装が掲載されている。これは江戸、京都を凌ぐ、妓楼などの娯楽施設であったことを示すものである。

1929.02.09(文政12)中之地蔵芝居(伊勢) 四代目坂東彦三郎(1800-1873)

1829.3-21(文政12.3.21)江戸三座、類焼

1829.08(文政12)中之地蔵(伊勢)、五代目松本幸四郎 *御遷宮にて江戸役者来ル(岩井粂三郎、山下八百藏、坂東のしほ)

1829.08-10(文政12)古市(伊勢)、三代目尾上菊五郎

1829.08-11(文政12)清寿院(名古屋)の芝居 四代目坂東彦三郎(男ばかり二十一人、彦三郎の食客)

1829.09(文政12.09)式年遷宮

1829.09.15(文政12)古市(伊勢)、三代目尾上菊五郎

1829.10.4-16(文政12)古市(伊勢)、三代目尾上菊五郎

六地蔵の芝居(岡崎)四代目坂東彦三郎

1830.01-02(文政13)中之芝居(大坂) 四代目坂東彦三郎、三代目尾上菊五郎(伊勢から上坂した)

1830.03下旬(文政13)御蔭参り始まる

1830.04(文政13)古市(伊勢)松本幸四郎、團十郎事市川白猿

1830.09(文政13)中之芝居、角之芝居(大坂)

1830.11(文政13)京四條の南座(京) 顔見世

1830.11(文政13)大坂堀江市之側(大坂)の芝居

1830.12.10(文政13、天保1改元)

1831.01(天保2)角之芝居(大坂)

1831.03(天保2)中之地蔵(伊勢)

5)廣重が将軍家の御馬献上に随行したことは、画証もあり事実である。

残念なことに、御馬献上については、編年譜などハッキリした記録がない。

御馬献上の行列図は肉筆もあり、はっきりしているが、殆ど記録にない。

八朔(八月朔日)、現在の九月一日ほどであるが、これらは三代廣重の伝聞である。

廣重が出掛けたのは、馬琴を訪問した閏三月七日、閏三月八日以降、伊勢へ出掛けたことになる。

四月、伊勢古市の興行のため、幸四郎、團十郎など、伊勢入りの旅姿が描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二頭の馬に御幣が掲げられて御馬献上の一行が描かれている。これは1830(天保2)東海道(保永堂+僊鶴堂)の藤川宿。二頭。

稲垣進一氏の指摘により、1855(安政2)竪東海道の吉田にも、御馬の御幣がある。こちらは一頭だけ。

御馬献上は、何年毎、また人数、馬も二頭、また一頭など決まりは無かったのか。幕府の諸記録などを専門家が調べて欲しいものである。廣重が、無いものを描くとは考え難い。

この時、廣重は東海道の宮より桑名、四日市までで、薬師寺以西、京都へ出掛けていない。追分より、伊勢へ向った。保永堂版の四日市を御覧になれば、分かるように旅人の笠が飛ばされ、それを追い掛けている。これは廣重の洒落っ気であり、追分から伊勢参道へ向かったことを暗示している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6)幕府海防の密偵として、北齋(1760-1849)を含めて、廣重(1797-1858)は房総、東海道ほか海岸線の詳細な景色を描いている。これらの真の意図を隠蔽するため、単に景色として刊行した可能性も否定できない。しかし機密であったため、記録に出ていない。表面に出れば、密偵の意味がなくなる。20数年後に、ペリーが浦賀に黒船を着船させ、開港を迫っている。

*崋山(1793-1841)も、1825.06-07(文政8)、肉筆/四州真景武蔵・上総・下総・常陸の四州を描いている。北齋、廣重と地域を分担して描いたのだろう。もともと崋山は田原藩であったから、この地域の海岸線を詳しく描いて幕府へ提出していた。後年、崋山が貧乏藩の田原藩家老となってから、藩主の依頼で、武藏の日野の農家に嫁いでいる藩主の母親を訪ねている。日野村では供を連れた立派な馬上の武家が、突如、訪問したので、大変な騒ぎになった。農家の主婦は、直ぐ「のぼる(登)であるな」と崋山を労(ねぎら)ったという。登(のぼる)は崋山の本名である。1839(天保10)、鳥居耀蔵らによる蛮社の獄で、尚歯会の崋山は自決に追い込まれる。師の松崎慊堂*(1771-1844)(こうどう)は崋山の赦免運動のため、彼方此方に働きかけた。慊堂と同門の佐藤一齋(1772-1859)は自分の身が危ないと、何もしなかった。(1941石川淳/渡辺崋山)

*従って、鈴鹿越えの宿駅は名所図会などを参考に描いた。京師の三条大橋の橋脚は、当時、石造りであった。廣重は、どのような理由か分からないが、木製の橋脚を描いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*江戸へ戻り、1830.12.30(文政13)年末までに、保永堂+僊鶴堂の合板分ほかの版下絵を描いていた。

*1981酒井雁高(編)/浮世絵聚花14/103-008、廣重/総目録に記録したが、外題だけ記録したので、内題に気が付かなかった。色々な図録などを点検したが、見付けられず、本図は唯一のもののようである。東海道は廣重のデビュー作のようなもので、本図は、その画証となる現在では尤も貴重な作品である。

*これまで、東海道(保永堂単独)の刊行は、1834.02(天保5)に四方瀧水*(よものたきすい)の序文が附されて全て刊行されたことは確定していたが、それ以前が不明であった。55枚の大作で、刊行は、その数年前、つまり天保3-4、というのが定説であった。本図の出現により、天保2(文政14)正月から、刊行されたことが明らかとなった。むろん、版下画は、全てでないが、前年末(文政13)までに出来ていた。廣重研究の第一人者、小島烏水さんなどがおられれば、きっと大喜びしたことであろう。*若年の狂名は酒月米人(さかづきの こめんどう)

なお、1837(天保8)、保永堂は倒産したようだ。1837天保8年以降の刊記が全く見当たらない。

*以前、記録したサイト。この時は刊年の確たる画証が提示できなかった。今回は画証、画刻を提示できた。

http://www.ukiyo-e.co.jp/7176

(2018-02-05、吉田隆志先生より、画像のサイズ、容量を限定してとの修正提案を戴き、何とか悪戦苦闘で一応の形にした。吉田先生、ありがとうございました。)

何か御気付きの点があれば、御知らせ下さい。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂 [http://www.ukiyo-e.co.jp]
[浮世絵学]文化藝術懇話会  浮世絵鑑定家
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

 

 

 



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