浮世絵学04/外題(九州年号、九州王朝)古田武彦/失われた九州王朝 百問百答ほか 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/27362
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1982-04-25現在(2018-10-03更新)  ✓検索 浮世絵学 ◯◯   http://www.ukiyo-e.co.jp/27362

酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂主人、学芸員  

SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e

(雁註)古田武彦(1926-2015)先生は、日本思想史、日本古代史の専門家である。奈良王朝一辺倒だった日本古代史に、九州王朝を鮮やかに甦らせた。これらは、一つ一つ、実に丹念に実証事実を積み重ね、仮設を立てて、論点を分析、解析した結果である。これまでの日本史の概念を根底から覆すほどの力を持っている。岡田甫先生から、ソクラテスの論理の導くところへ行こうと教えられた。たとえ、それが何処へ行こうと。

原文を活字でなく、典拠となる当時の支那の版本*を提示して、説得力がある。*自筆原稿は無いので、写本、転写を校合した版本を基本としている。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosak40/zisyokai.html

1969邪馬壹国/史学雑誌78-9,pp.1347-1385 

*この古田新説(真説か)に対する反論は、反証を提示できぬまま、悉く撥ね替えされている。以後、確証を得ぬ教科書の記述そのものが削除されている。

聖徳太子、源頼朝など。

◯榎一雄

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku13/yamai21.html

◯山尾幸久 長里の例を提出してきたが…(古田)三国志は、魏・晋朝の短里、77m

http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/post.php?post=27362&action=edit

◯坂本太郎と井上光貞 (古田)評と郡 木簡(荷札)で年代が交替している。浜松から発見、これは九州王朝の権限が広範囲に普及していた。

700まで 評

701から 郡

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kouen2/j2kouen6.html

(雁註)古田先生、これらの批判を既に百考で想定済み。

(古代史三部作)

1971邪馬台国はなかった-解読された倭人伝の謎、朝日新聞社、のち角川文庫、朝日文庫

(古田)297陳寿/三国志を丹念に調査すると、壹(イッ)86回と臺(ダイ)56回の間に混同や誤写はない。従って、邪馬「壹」国と刻記されている以上、邪馬壹国が存在したのであって、邪馬「臺」国はなかった。また臺(ダイ)を「ト」とは読まない。

1973失われた九州王朝-天皇家以前の古代史-、朝日新聞社、のち角川文庫、朝日文庫

*662白村江の三年あと、665鱗徳2以降、唐軍は鱗徳(儀鳳)(665-)暦を使い、南朝系の元嘉暦(443-)は使うことはなかった。

1975盗まれた神話-記・紀の秘密-、朝日新聞社、のち角川文庫、朝日文庫に収録

*720日本書紀の編集意図、奈良王朝は九州王朝の史書を奈良王朝の業績であるかのように再編集した。

(1)中心を筑紫(九州)から大和(奈良)に移す。

(2)年代を自由に前後させる。高千穂は宮崎県ではなく、福岡県の高祖山(たかすやま)連峰。

(万葉集三部作)

1994人麿の運命、原書房 *人麿は九州王朝の作者(歌人)

2001古代史の十字路、東洋書林 *天香具山は奈良ではなくて、大分県別府の鶴見岳

2001壬申大乱、東洋書林 *日本書紀(天武紀・持統紀)、万葉集(巻一)の吉野は奈良県の吉野ではなく、佐賀県の吉野(吉野ヶ里)。吉野ヶ里は有明海に望む軍事基地。

*磐井の乱全体が虚像。戦勝軍(唐)が九州王朝の石人・石獣を破壊した。

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(まとめA)古田武彦と百問百答

2006古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)/古田武彦と百問百答(13部門)

1 記紀

1-1 持統紀の吉野行、9年間に13回、これは不自然(新庄智恵子)。奈良の吉野山でなく、佐賀の吉野ヶ里(有明海に望む軍事基地)

1-2 柿本人麿は、天智、天武、持統紀に出てこない。実ハ九州王朝の正三位、中枢部の歌人。701以前は九州王朝の時代。

1-3 継体の乱、実ハ磐井の乱。白村江の敗北の後、戦勝者の唐(則天武后)が倭國(九州王朝)の交替を求めた。倭国は名実共に滅びた。

磐井の乱、全体が虚像。唐軍は、戦勝軍として、九州王朝の石人、石馬を破壊した。抵抗した人々は手足を折られた。

1-4 海幸、山幸説話。高千穂は福岡県の高祖山(たかすやま)連峰。弥生墳墓が林立している地域。

1-5 崇神紀、相津(あいづ)。福島県の会津でなく、近畿の相津、近江の大津か。

1-6 持統4の詔勅、元嘉暦と儀法暦を行う。元嘉暦443、鱗徳(儀法)暦(665)。戦勝国の唐軍は、北朝系の暦を使っていた。白村江の三年あと鱗徳2年(665)から、鱗徳暦を使った。南朝系の暦は使うはずがない。白村江の戦いは、南朝系の暦(元嘉暦)と北朝系の暦(鱗徳暦)の決戦。

1-7 磐井の叛乱。架空の造作。大和朝廷の史官は、磐井の乱を史実としたかった。

1-8 法隆寺。日本書紀に法隆寺の建築記事がない、本尊の来歴、建物の来歴を精査する必要がある。釈迦三尊の年代(法興元、三十一年)621と一致しない。本尊の銘文、多利思北孤(たりしひこ)、九州王朝の天子。

1-9 仁徳紀の難波、大坂だけでなく、博多、伊予など各地にある。

1-10 聖徳太子。私(古田)は実在したと思います。薬師仏の光背銘、歳時丙午年(586)、池辺大宮に天の下を治(し)らす天皇(天皇は天子(九州王朝)に対する第二王者)小治田大宮治天下天皇及東宮聖王。東宮聖王は聖徳太子です。東宮聖王なる人物が用明天皇と推古天皇のもとにいたことは確実です。これがいわゆる聖徳太子です。聖徳太子の業跡はなかったのです。聖徳太子はいなかったという命題とは全く別。

1-11 ニギハヤの天下り、海士(あま)の國の人々は自分の根拠地以外の領域に壱岐、定着(征服)することを天下りと称した。

1-12 神武東行の出発地、古事記の日向(ひゆうが)は日向(ひなた)である。博多園源、吉武高木近辺、日向川、日向山。

1-13 奈良の大和、やまと。もとは大倭*(ダイヰ)、倭をワと訓むようになって大和と書き換えた。*倭人傳の使大倭(しだいゐ)。交易の監督官。

ヤマトという発音は、博多湾の下山門(しもやまと)からの地名移転。

1-14 八百万の神、原型は八十神(やそかみ)。*耶蘇教、蘇る、再生する、生き返る、復活する意。

1-15 702、則天武后が日本國を承認(旧唐書)。701(大宝元)が奈良王朝の年号(連続)開始点。

三国史記(1145成立)、後代成立のため、ミスも多い。

A 上宮聖徳法王帝説 聖徳太子伝説の最古のもの、それ以上のものではない。

B  法華義疏 聖徳太子の著作ではない。書紀に記録されていない。内容は「権力者に近づくな」。権力内部(聖徳太子)の人物であるはずはありません。

(古田)第一巻の右端下に旧蔵者の切り取りを発見したが、学界は反応なし。

C  十七条の憲法 九州王朝が制定したもの。奈良王朝は盗用した。

1)九州年号 実在 憲法は九州で成立

2)太宰府に紫宸殿あり。飛鳥の浄御原・橿原宮には紫宸殿ナシ。

3)神籠石要塞群は、太宰府と筑後川流域にある。近畿にはナシ。

4)元明天皇(661-721)の時、九州王朝の書籍を入手し、日本書紀が成立。古事記を廃棄したあと、主語を取り替えて成立。

 

1-16 北魏、隋書、旧唐書(くとうじょ)

A  魏書に、倭國の記事なし。倭國は北魏に朝貢していないので史書に書かない。南朝に朝貢した倭の五王、九州王朝の天子を無かったことにした。

B  神功皇后と俾弥呼・壹与 俾弥呼・壹与は北魏(鮮卑)、西晋の初期と厚い国交を結んでいた。日本書紀は、それに合わせて倭國側の俾弥呼・壹与の国交記事を挿入した。そのため、古事記になかった神功皇后紀を捏造した。

C  古事記序文、天武天皇の「削偽定実」は中国南朝、九州王朝を偽として削(けず)る。

 

 

1-17 聖徳太子 日本書紀が偽として削除していた「日出ずる処の天子」を聖徳太子と合体させた。

*九州王朝の多利思北孤を盗用するさいの受け皿が必要、女性の推古天皇では不足。

 

1-18 蘇我氏の役割 八佾*(はちいつ)の舞を行えたか。周代の天子の舞楽、八人八列、六十四人。佾(いつ)は舞の列。

蘇我氏が排除されたのは、親・九州王朝勢力、反・唐勢力だったから。

その滅亡は、白村江の662と701の間。日本書紀は史実を偽り、あたかも645にあったかのように書き換えている。

(37)斉明天皇が再祚、(35)皇極天皇時代、蘇我に支えられていた天皇。クーデターの後、(36)孝徳天皇になった。

白村江の敗戦の結果、反唐派であった新蘇我氏集団は窮地に追いつめられた。反唐勢力の根絶を要求した。その結果、石舞台の惨状。

1-19 天武の登場 中国南朝、九州王朝もなかった、これを実とした。古事記方式か、日本書紀方式か。

1-20 古事記を抹殺、日本書紀を編纂した黒幕は持統か、元明なのか。

黒幕は唐朝(郭務悰など)。持統、元明は黒幕に價しない。

1-21 天孫降臨 三種の神器(銅剣、勾玉、銅鏡)のある弥生王墓。

・吉武高木(福岡市)、三雲(前原市)、須玖岡本(春日市)、井原(前原市)、平原(前原市)。

・弥生前期、BC2世紀初頭。縄文土器がBC1,000年前後(800年より前)となると、弥生前期も変動する。

・900sBC-300sBC   弥生時代

1-22 海彦、山彦の説話 記紀神話以前の母胎をなす神話

1-23 神武と九州王朝と出身地 神武の東侵は、紀元元年頃(最近の考古学編年)。使大倭(したいゐ)の立場にあった。

・懿徳(いとく)、孝安、孝霊、孝元は大倭を称した。

・神武の出発点は、宮崎県ではなく、福岡県。日向(ひゅうが)ではなく、日向(ひなた)です。

1-24 成務・反正記事の欠落

・古事記の場合、あった伝承の記録。成務・反正は記録が乏しかった。

1-25 神武の出発地 →(1-12)

1-26 縄文草期文明 南九州(鹿児島県の大半)、有明海中心、出雲の文明

1-27 506(25)武烈が没して、大和の大伴金村らが日嗣皇子を迎えにいく。しかし日嗣皇子の倭彦皇子は逃げてしまう。

九州王朝を消し去るため、倭彦皇子を卑怯者に仕立てた、イメージ操作。

1-28 (26)継体王朝の大和入り 継体系列下の王朝である(40)天武、(43)元明、(44)元正によって記紀に記録が残されている。

・(25)武烈天皇の妹の手白髪(たしらか)命との間にもうけた子孫、天国押波流岐広庭命(34)(欽明天皇)

1-29 527磐井の叛乱 架空の造作

1-30 継体天皇は、どうやって見附られたか

1-31 継体天皇が没した年 534 531(百済本紀)

・531 高句麗の安藏王が殺された。倭國では天皇、太子、皇子が同時に死んだ。

・継体天皇の事績が明瞭でなかった。

・宋書倭國傳は九州王朝の史実である。

1-32 庚午年籍の保存

・天智紀の近江令でなく、筑紫令。九州年号の白鳳は661-683。九州年号は筑紫令。白鳳の年号、続日本紀、聖武の詔勅で明白。

・聖武天皇、神亀4(747)、秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午籍七百七十巻。以官印々之。これは隠滅・廃棄のため。

1-33 近江令・浄御原令 日本書紀の擬装。筑紫令、筑紫律令。

・戦勝國(唐)の軍隊の来日(倭國)駐在。天智紀では九年間に五回。天智10年11月、二千人。

・日本書紀の筆法で、全員が引き上げたように見せている。

・天智10年11月、筑紫君、薩夜麻が返されている。唐が利用したかった。九州王朝の天子を釈放した。白鳳は23年間も存続した。701まで使い続けた。

1-34 天照(あまてる)大神 弥生の女性のリーダー。本来、人間。

 

2 662白村江  

2-1 丁亥の吉野

・軍舩は各地で作られた。満潮の時、航行、停泊は可能。

2-2 三船山の歌 柿本人麿の歌、佐賀県の御舩の山、充分、ありうる。

2-3 白村江 統率力と経済的基盤

・宋書倭国傳の倭の五王 使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦漢、慕漢六国諸軍事、安東大将軍、倭王

488宋書 宋・斉・梁に仕えた沈約(441 – 513)が斉の武帝に命ぜられて編纂した。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体。二十四史の一つ。 宋代のうちに何承天、山謙之、蘇宝生、徐爰 …

・都督のいるところは都督府、すなわち筑紫都督府。

(雁註)倭の五王 幼名の何文字目がどうだから◯◯天皇だ云々。子供だましで、全く納得できない。つまり奈良とは全く関係がない、九州王朝の天子である。

2-4 倭軍舩400艘が炎上 倭國は海洋国家であった。

2-5 大和の勢力が、戦闘直前に抜けた。口実として、斉明天皇の喪に服すため。

2-6 唐の戦勝軍は、九州王朝の山城群、天子の宮室、陵墓などを破壊した。しかし、大和に大挙侵入した形跡はない。天皇陵は破壊されていない。

・反唐勢力の蘇我氏が覆滅されている。石舞台古墳。しかし、物部氏の墳墓(天理市の石上神宮周辺)は暴かれていない。

2-7 唐は白村江で敗れた薩夜麻を釈放、帰還させ、政治的に利用した。701年まで続いた。朱雀、朱鳥、大化と年号は替わったが、倭王は替わらず。

・日本書紀は薩野馬、熊曾建、磐井を悪いイメージで塗り付けた。

2-8 唐の倭国占領とアメリカによる進駐軍

 

3 九州王朝

3-1 安倍仲麻呂

3-2 九州王朝の成立年代

1)三種の神器群(福岡市、前原市、春日市)BC200(考古学編年)

2)二中暦の冒頭 年始五百六十九年内丗九年…

 

4 東北王朝関係

4-1 東日流外三郡誌

4-2 隋書俀(たい)傳 阿蘇山あり、日出ずる処の天子 九州王朝の天子、奈良ではない。

4-3 蝦夷國領域(多賀城問題)と観世音寺 九州だけでなく、彼方此方に仏教の影響、観世音寺があった。

4-4 多賀城の観世音寺 宮城と呼ぶのは蝦夷國。

 

5 風土記関係

5-1 沿海州と日本の関係 黒曜石 黒龍江の探索(秋田孝季)

5-2 オロチ族(トナカイ飼育の民) ハバロフスク州のオロチスカヤ オロチ語で解釈できる。

・スサノオ 海人(あま)族

5-3 ヤマタノオロチ 八つの瓶に入れた酒

5-4 ウラジオストック周辺の黒曜石 50%出雲の隠岐島産 40%男鹿半島産(北海道赤井川産に訂正)

・國引神話 新羅、ムスタン岬、ウラジオストック、能登半島

5-5 黒龍江流域のツングース族の言語か

5-6 出雲王朝 出自 黒龍江、沿海州、南方流域、瀬戸内海領域など

5-7 出雲王朝 成立 陶塤(とうけん) 塤(けん)は土笛 出雲の陶塤は丸底。この陶塤が殷・周の陶塤に影響した。BC1,000頃、予想以上に古い。

5-8 出雲王朝 王朝以前の交流 ずうずう弁はツングース系の言語

 

6 万葉集関係

6-1 天香具山 *奈良ではなく、大分の香具山

1)大分県別府の鶴見岳 海士(あま)郡の香具山

・倭建命の遠征説話は、九州王朝また現地の伝承からの転用。

・別府の鶴見岳とする文献(未公開)

・倭建命の出発地は吉武高木(戸栗、平群)、日向(ひなた)。凱旋地の帰着点として、これ以上、相応しいところはない。

2)人麿の淡海 元暦校本では舡(コウ)、ジャンク、後代写本は舩に改定されている。

・万葉集の歌は前書きを保留して、歌そのものを読む必要がある。

・淡海 阿波の女神 ここに鯨がいたことは知られている。琵琶湖では不可。

3)さねさし相模 小野神社にアラハバキが祀られている。民謡的相聞歌を転用。

 

7 古墳および出土物関係

(雁註)出土品の年代(年月)確定、同時に遺跡の年代(年月)確定 これを科学的に確定しなければ、仮説も理論も根底から崩れる。

7-1 江田船山古墳被葬者

・江田船山古墳被葬者は九州王朝の天子ではない。銀文字である。九州王朝の大王の可能性はある。

稲荷山古墳出土黄金文字銘鉄剣

7-2 文献と考古学的出土物

*出土物の年代確定が先決である。

1)記紀の天孫降臨と福岡市・春日市・前原市の三種(剣、勾玉、鏡)の神器の五王墓。

2)中国側の文献(後漢書倭傳)と志賀島の金印 *漢委奴國王 漢の委奴(イト)國王 現在の糸島市 高祖山

3)古事記、日本書紀の天皇陵の記載と近畿の天皇陵の分布、対応

4)中国の文献(宋書倭國傳)と神籠石山城群の分布の対応。

5)中国の文献(隋書俀國傳)と太宰府の遺構(紫宸殿、大裏、大裏岡、朱雀門)

6)古事記、日本書紀に銅鐸がない。自己の王朝のみを記録している。それ以外を排除。

7)古事記、日本書紀の磐井の乱、九州(筑紫)に大変動の痕跡がない。

8)日本書紀に大化の改新、その痕跡がみえない。

7-3 神籠石(こうごいし)の設置 *福岡県を中心とする山城要塞

・朝鮮半島の高句麗、新羅との対立、抗争に基づくもの。やがて唐との対立の時期(白村江の戦い)

・武帝による韓半島の侵略・四郡設置 史記、漢書の記述にない。関連は九州王朝の年始問題、博多湾岸中心の前漢式鏡。

7-4 前つ君(ニニギ)の九州一円征服譚

・玉(ぎょく)、剣(つるぎ)、鏡(かがみ) 弥生時代、鏡が新たに登場、太陽信仰と鏡岩・鏡石尊崇 新来の中国銅鏡

・これらを掲げて、ニニギに同調した勢力の宣言。

7-5 巨大古墳

・継体天皇の陵墓と継体天皇陵、別である。つまり資料批判が大切。

7-6 周成王への倭人の朝貢

・縄文水田 BC800−1000前後 縄文、弥生は時代区分であって、一線を画したものではない。

7-7 高松塚古墳 キトラ古墳

・周辺の古墳を発掘し、公開し、その上で被葬者を検討する。中国式か高句麗式か、また一分派か。

7-8 吉武高木遺跡 三雲市小路遺跡 唐津の宇木汲田遺跡 前漢の武帝の四郡支配の痕跡

・全体として三種があるが、管玉・曲玉が出土していない古墳もある。

・(雁註)福岡県北部は、古墳だらけである。

西川寿勝)1994考古学/2000年 前 の 舶 載 鏡 異体字銘帯鏡 と弥生の王 (雁註)舶載鏡ほか、青銅鏡に関する画像、分類の集大成

・著者 は,こ れ までに中国 ・日本で発見 された700面 以 上の異体字銘帯鏡 を再検討 し,外 縁形態書 体 をそれぞれ3区 分 し,そ の組 み合 わせ で都合7型 式 を設定,編 年 を試みた。あわせて,各 型式 に お ける鏡 の価値観 の違 いを格付 け し,も っとも上 位 に位置づ け られ る大型鏡 は前漢 帝国の王侯 ・太 守 階級 の墳墓 か ら発見 され る特別 な ものであ るこ とを確認 した。

1 わが 国 に もた らされた漢 式鏡 は福 岡県三 雲南小路 遺 1号 甕棺 墓が もっ とも古 く,弥 生時 代中期 中頃~ 後半頃 と考 え られて い る。副葬 されて いた鏡 は異体 字銘帯 鏡な ど30面 以上 に及 ぶ。 内訳 は直径27cmの 戦 国式 鏡 な ど前漢 中期 の一群,異 体字銘帯鏡 で はIa~IIb式 鏡 が ある。特 徴 的 な ことは,前 節で示 した王墓か ら発 見 され る格付 け の高い大型 鏡 が大量 にある ことだ。 この よ うな鏡 が市場 を通 じて辺 境 のわが国 まで一 括 して もち込 まれた とは考 えに くい。 紀元前1世 紀前半 を通 じて流通 した鏡式 が含 まれ る ことを直視 すれ ば特別 な入手契機 が複 数回,あ る いは世代 を こえて蓄 積 され た鏡群か もしれ ない。 『漢書』 地理 志 の記 事の ように楽浪 と倭 人が歳時 を もって活発 に 献見 した様 子 を彷彿 させ る。

2 ほぼ 同様 の様相 が福 岡県須 久岡本遺跡D地 点 の甕棺墓 発見 鏡群 に もあては まる。 この鏡 群 には草葉紋鏡 ・花弁 紋鏡 ・星雲鏡 とい う前漢中期 の一群9面 と,20面 以上 の 異体 字銘帯鏡 群が あ る。や は り,異 体字 銘帯鏡 に は新 旧 の型 式が認 め られ る。

3 その他,福 岡県立岩遺 跡か ら10面 の異体 字銘帯 鏡が発 見 されてお り,大 型鏡 が中心 にな る ものの中 ・小 型鏡 も 含 まれIb・IIa~cの 型式差 が見 られ る。一 括 して入手 さ れた鏡群 と考 える ことに は躊 躇 す る5)。

詳しくは下記を御覧下さい。

19984西川寿勝/舶載鏡異体字銘帯鏡と弥生の王/考古学

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/7/10/7_10_25/_pdf/-char/ja

BC900s-BC300s  弥生

BC900s-800s-700s-600s 吉武高木遺跡 弥生前期末~中期初頭

BC600s-500s                         三雲市小路遺跡   弥生中期

(古田)細石神社は「三雲」にあり、その隣は「井原」です。いずれも「戦国式鏡、前漢式鏡」(三雲)「後漢式鏡」(井原)の大量出土地です。
1822三雲の南小路で、甕棺・銅剣・銅弋・銅矛・銅鏡三五面・玉類・璧(へき)等が文政五年(一八二二)に出土しました。

1781-1788井原村鑓溝、三雲遺跡の南一〇〇メートルの井原村と三雲村の境界の、井原村鑓溝であり、天明年間(一七八一~八八)、壷(甕棺か)の中から古鏡片数十個と鎧の板状のもの、前漢中期から後漢前半の方格規矩四神鏡類三五面、巴形銅器三個等が出土しています(青柳種信『柳園古器略考』、森貞次郎『北部九州の古代文化』等)。

(雁註)239卑弥呼が魏から鏡百枚を贈られた。これらの鏡は三角縁神獣鏡ではなく、方格規矩四神鏡、また画文帯神獣鏡である。三角縁神獣鏡は日本製で、稚拙、このため魏から贈られた鏡ではない。鏡の旁、竟(キョウ)は、これらの鏡を通じて、幽冥の境を意味するものであろうか。鏡の向こうに、彼の世、幽界を写していた。つまり、それらの写された情景が実在のものであると考えていたのではなかろうか。

BC150:奴(ナ、ヌ)国は、伊都国の東、BC150須玖岡本(太宰府の西)、現在の春日市。國王はいない。奴の国王は不可。

00s 紀元前後、高祖山(たかすやま)連峰を中心に多くの国があった。

57伊都(イト)國 金印「漢委奴(イト)国王」、伊都(委奴)(イト)国の國王に与えられたもの。現在の糸島市。

(雁註)この時点では、200年ほど後代の邪馬壹国、卑弥呼に関する情報は全く無かった。邪馬壹国、未成立であった。

(雁註)57金印は伊都國に授与された。その後、1700年間、転々として所在不明。経緯は不明であるが、1780s天明期、志賀島で発見された。江戸期?、佐々礼石神社に奉納されたが、盗まれて、所在が分からなくなった。細石神社に奉納された年月が不明。盗難にあった年月、これも不明。志賀島で発見された年月の前か後か、これも全く不明。

(雁註)金印、君が代の原点、佐々礼石神社にあったが、盗まれたとの伝承。金印が神社に齎(もたら)された経緯、年月は。そして、金印が盗まれた年月は。その後、農民が、1780s天明期、志賀島で発見したという。三方を巨石で覆われ、中に金印があったというが、志賀島では巨石そのものが疑わしい。金印の発見場所、明治以来、二転、三転している。

200s、魏志東夷倭人傳の記録にある57伊都国(國王がいる)、200s奴国(20,000人余、國王いない)など、そして230s吉野ヶ里(女王國)があった。

230s:金印、親魏倭王卑弥呼 *原印は未だ見付かっていない。

卑弥呼を含む吉野ヶ里との関係は、どのように理解すべきか。考古学の出土物の年代確定が先決である。先に、あれこれと推論、仮説を造作しても、出土物と齟齬があれば、全く成り立たない。

・吉野ヶ里(女王國)は瀬振山連峰(海抜1,054m)の最高峰の南に位置している。

・BC200-0c 福岡市西区 吉武高木遺跡 多紐細文鏡    *他の年代もあり、年代の確定ができない

地形を辿ると、倭人傳は伊都(イト)(高祖山)、奴(ヌ、ナ)、背振山系を回り込み、吉野ヶ里(女王国)。

殆どの古墳群は福岡県北部、佐賀県吉野ヶ里の当時の海岸線、つまり丘陵地帯に分布している。

(雁註)伊都国の解説によると、「(へき)と金銅製四葉形金具は、中国王朝が王と認めた所に与えた。これは伊都國と奴国(岡本)で出土。中国から(倭における)王と認められたのは、この二国だけか。」この文献の書名年月は何時のものか。伊都國と奴国(岡本)の遺跡年代は確定しているのか。

 

・井原・平原 漢式鏡 直径46.5cm*の大型「内行花文鏡」 *漢の2尺に相当。1尺は23cm

(雁註)原田大六らの調査によると、平原(ひらばる)の前漢の一枚、後漢の一枚、これら二枚(方格規矩文)は中国製。残り全て38枚は倭国製。八葉花弁というが、恐らく八紘の太陽文か。しかも、全て倭製。そのような青銅を加工する勝れた技術があった。詳細に中国製、倭製を比較すると、その意味では倭製は稚拙さは否めないか。これらの鏡、すべて細かく破壊されていた。何故、破壊されていたのか。武器がなく、耳飾りがあるので、女王か。しかし、倭人傳では、世々王がいると書かれていて、女王と記されていない。

・糸島市三雲小路遺跡 「世々王」がいたと。

・前原市曽根遺跡群(旧糸島郡前原町)

・BC1,000-BC300 春日市須玖岡本 奴國 太宰府の西 弥生時代BC1,000-BC300 (古田)倭人傳に奴國王と書かれていない。王はいない。

・BC950菜畑遺跡 BC950  従来の縄文を訂正、現代では弥生初期?

・唐津市の宇木汲田遺跡 多紐細文鏡 *水稲耕作など、炭化米が見付かっている。年代を確定して欲しい。

(古田)三角縁神獣鏡 日本製。韻家(文面の韻)、鏡師(銘文と図様)、鋳工、これら三者は全く別。詳しくは下記サイト。

古田武彦/三角縁神獣鏡の史料批判 三角縁人獣鏡論 (雁註)これは青銅鏡に関する最重要の論文

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai5/sankakuf.html

(雁註)前漢、後漢の鏡、方格規矩四神鏡、画文帯四神獣鏡。230s、魏が卑弥呼に贈与した鏡である。当初は九州の都督、太宰府の近辺に埋葬されたもので、100枚以下が確認されている。埋葬の情況を見ると、かなり青銅が腐蝕し、消滅しているものもある。従って、後代の日本製の三角縁神獣鏡ではない。

7-9 前方後円墳

・青銅鏡は、示威効果を群集に示すため、九州より近畿で更に発達した。これは日本製。

7-10 弥生時代

・BC500-BC200 吉武高木 BC500-BC200

・BC200 咸平草浦里 BC200 韓国の南、三種の神器の他、儀器 銅鏡は二紐式

 

8 三国志関係

8-1 狗奴(この)國

狗奴(この)國 三国志になく、後漢代の史料による追記、長里の一里(短里の六里)糸島、博多から1,000里、大坂府の茨木市、高槻市あたりで、銅鐸圏。枚方市に高野(この)山、舞鶴に籠(この)神社。

8-2 神武東征

・神武一族の存亡を掛けて、東征。熊野の高倉下(じ)、八咫烏、井氷鹿(ゐひか)、石押分之子(いしおしわくのこ)など在地勢力の協力。

8-3 親魏倭王の印

・宣倭印譜 八、銅印。つまり模印。(雁註)原印を確認したのか、確認していないで想像で作成したか。

8-4、8-5 邪馬台*国・近畿説   *魏志(紹煕本)東夷伝倭人条、邪馬「壹」国と刻記さている。

・280-297(西晋)陳壽/三国志、倭人傳に宮室、樓館、城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。兵には矛、楯、木弓を用う。

・弥生時代の矛は銅矛、博多湾岸には、多出するが、近畿には無い。

・三種の神器 銅鏡百枚、五尺刀二口、青大勾珠(まがたま)二枚。これらの弥生墓は糸島、博多湾岸、高祖(たかす)山連峰の周辺。近畿に無い。

・周・魏、西晋(265-316)_短里、秦、漢、東晋以降(317-419)_長里

・郡評論争

8-6 倭人傳の対海國から末羅國への方向

8-7 伊都国 都支國 好古國

・都支國 本来の紹煕本では「郡支國」。倭人傳、不用意に廿四史百納本を使っている。

・紹煕本 邪馬壹国。邪馬「臺」国と書いてあるものは一つもない。

8-8 倭人傳の対馬南島

8-9 三国志の孔明傳全集序文

8-10 三国志の粛慎

8-11 一大国から松浦の距離

8-12 倭人傳の其余傍國 分からない。狗奴国の場合、後漢書によれば、東、千余里。

8-13 卑弥呼

8-14 邪馬壹國 邪馬+倭(委)wi  wi に近い itt壹を当てた

8-15 張政は近畿に出陣したか。里程がない、これは行っていない。

8-16 一大率(軍団)

8-17 景初二年 景初三年は有り得ない。戦いは景初二年九月末までに勝敗は決している。

 

9 中国史書(三国志を除く) 

9-1 後漢書の狗奴國

9-2 漢書の東夷 前漢式鏡が糸島,博多湾岸から多出している。

・新の王莽の時、貨布、貨銭が九州、瀬戸内海北岸部から多出している。

9-3 漢書匈奴傳の長老の言

9-4 東鯷*人 *鯷、なまず

・近畿の銅鐸国家に当てていた時期がありましたが、撤回。南九州の東岸部。早期縄文文化圏

9-5 東鯷人 倭國にとって、先進文明

9-6 漢書の大海は黄海 三国志は、大海の彼方を明らかにしたことを誇っている。

9-7 漢書と三国志

・漢書(長里)、三国志(短里)

・後漢書(邪馬臺国)、三国志(邪馬壹国)

従って長老を一般論で違いがあると考えるなら、客観的に実証しなければならない。

9-8 漢書の西域傳の長老の言

・顔師古の注 各所に挿入されている。文意が一変するシルシでない。

・班古 依拠者(伝承者)なしに、不用意に書き付けることはない。史記に書かれていない。漢書は司馬遷の及ばなかったところに達したと誇っている。

9-9 漢書の地理志 帝紀記載は特出記事。夷蕃傳中の貢献記事に対して、帝紀記載は少ない。

9-10 倭四國酋長 665(白鳳5) 薩夜麻は唐側滞在時期ですから、倭の首長は薩夜麻。

9-11 A 倭の奴國   B 倭國の極南界なり 両者とも訓みが誤っている。正しくは

A  倭奴國 倭國の一部としての奴國に金印を与えたことになるので不可。倭奴國は倭人部族全体の倭國。

B  朱儒より東南舩を行くこと一年、裸國、黒歯国に至る。使驛の伝うる所、此に極まる。光武帝の金印授与の背景。

9-12 礼記 檀弓下 魏志倭人傳 卑弥呼以死、大作冢、径百余歩、殉葬者奴婢百余人

・大作冢と作大冢、大為我棺と為我大棺、短里と短歩。冢と墳、従来説の立場なら、冢でなく墳。

 

10 宗教関係

10-1 歎異抄 中心経典は大無量壽経 四十八願中の天本願 第十八願

・唯除逆謗闡提。闡提(せんだい)は無信の者、五逆や謗法と鞆に、これらの人々は救済から除かれると明記されている。親鸞は逆転した。彼らを救済することこそ、ミダ仏の究極の悲願だ、と。親鸞は超 大乗仏教の宗教者、思想家。

・唯円は、法然集団の中で親鸞は我々の一味ではないという風説、流れに反論した。歎異抄、執筆の動機。。

10-2 歎異抄末尾の流罪記録目安後半部切断

10-3 孔子の思想と儒教との関係、親鸞と蓮如(浄土真宗)の関係、思想のネジレ

A 思想の独創者は、それ以前の体制、思想への抵抗であり、反発として生まれた

B  その流布、一般化は、時代と実情況に合わせることが、使命であった。

・晩年、蓮如、一向一揆の波にのり、南無阿弥陀仏の文字の名号を書けば、それが多大の奉納金の代償となった。専修念仏と名付けても、支え手の生活は一変。同じ実態でありうるはずがありません。

・孔子は、禮の失われた乱世に、天の与えた倫理(禮)に伝拠し、各国の王の無礼を叱咤した。漢代の儒教は、天子(漢の高祖とその子孫)に対する忠節を第一倫理とした体制保持の思想。

10-4 斑鳩寺の創建 上限584、下限596 創ったのは蘇我馬子ではないか。

(古田)今後の勉強の対象であり、今は未だ不明。

10-5 仏教の伝来 536 552 どちらか

552(欽明13)、日本書紀の記事。もとは九州王朝の史書からの転載。百済の聖明王から、九州王朝の天子(倭王)への釈迦佛等の献呈。

538(欽明7年戊午)は帝説、元興寺縁起 日本書紀では546(欽明7年丙寅)。

・一人の仏教者が齎した。2世紀、福岡県の雷山山中の千如寺。清賀上人。インドから直接、渡来。6世紀、扶桑国、関東地方か。

10-6 聖武天皇、三宝の奴(奴隷) (古田)聖武天皇に全体を研究していないので、分かりません。

・701以来、東アジア共通の権威として仏教に依存しようとした。

10-7 仏教は九州王朝に何時、伝えられたのか。(古田)分かりません。

・福岡市丸隈山古墳寺から、小仏像が出土している。

10-8 法華義疏の成立年代 その作者

A  七世紀前半、聖徳太子撰述説は成立不可能

B   推古紀に書かれていない。撰述説は後代の成立。

・内容は六世紀後半の中葉を下限とする。

・七世紀前半の隋の仏教学者、吉藏(549-623)の著述からの引用が全くない。

・引用典籍は、南朝の仏教学者の著述(梁の法霊)を本義と称する。南朝系である。聖徳太子は隋の北朝系。

・国王、王子、大臣、官長への不親近にある。聖徳太子の主張として全く不適切。

C   真実の撰述者、その時期。不明です。南朝系仏教。六世紀後半の中葉。原本は南朝内の成立、書写本としては、日本(倭)内の成立。

・現存(御物)の第一巻末尾に法華疏とある。法華義疏という名称は、第一巻の本文の冒頭部に添付された別紙片のもの。

・隋朝を代表する吉藏(549-623)(嘉祥大師)には、法華偽書 十二巻 の著述がある。

・この別紙片は、南朝系の著述を吉藏著述に見せかけているのではあるまいか。

D  第一巻の右端下、鋭利な切断部を見出した。所蔵者(寺名など)の存在する場所。真の旧蔵者(法隆寺以前)が、隠された。

E  第一巻の右端中央部、二カ所の文字端末(墨)が残存していた。二カ所が用紙部分ともに削り取られていた(1988古代は沈黙せず、駸々堂)

10-9 新約聖書 四つの福音書のみ正統。マタイ、マルコ、ルカ伝

A  パウロ・系の伝承。イエスの反ローマ軍的言説は削られている。(トマスによる福音書には存在)

・イエスの処刑も、ローマ軍の司令官の意思ではなく、ユダヤの大祭祀たちの意思によるものとする。

B  奇跡譚 湖上を歩く、難者を直す。イエスの復活譚。敵に対する愛。これらはトマスの福音書にはない。付加部分。

C  四福音書を一福音書にしなかった。イエスの言葉や伝承を伝える種々の伝が地中海周辺にあった。

10-10、10-11 トマス福音書

A  ナグ・ハマディ写本、十三冊のコプト語(古代末期のエジプト語)のパピルス古写本(コーデックス)。

(新井誠/トマスによる福音書、講談社学術文庫)トマスの福音書が原型に属する。

B  イエスの弟子、ディディモ・ユダ・トマスがイエスの言葉を記した。生前の言葉だけ。復活譚はない。

C(古田)トマスの福音書が仏教へ伝播した可能性がある。

10-12 仏教が聖書に影響している。

(古田)トマスの福音書が仏教へ影響を与えている可能性。

11 古田先生関係

 

11-1 親鸞

・岡田甫(1905-1979)甫(はじめ)(本名、千葉治、古川柳研究家)先生から、歎異抄の中の親鸞の言葉を聞きました。

・戦前と戦後で、言説が一変して驚き、絶望を感じた。生きていてもしょうがない。その時、歎異抄の言葉を思い出した。法然上人に空かされ地獄へ落ちても後悔しないと。(古田)親鸞なら、時代が一変しても、自分の言葉を替えない。親鸞その人の書いたものを読もうと。

・版本は、カットされ、書き換えられていた。親鸞の自筆本を調べなければならない。

11-2 村岡典嗣(1884-1946)

・ギリシャ語を必ず学ぶようにと。ソクラテス・プラトン。

・アウグスト・ベエクのフィロロギー。認識されたものの、再認識。

・(村岡)宣長、師の説に、な、なづみそ。

・学問に対する真摯な姿勢。たった五十日間でしたが、私の一生の運命を決めた。

11-3 山内得立(1890-1982)(とくりゅう)(京都大学哲学)

・結城令聞(1902-1992)(れいもん)(東京大学)1952親鸞の教行信証、信巻別撰論。総序→中序(信巻序)→後序。これは不自然。

当初から信巻→中核として全体の形になった

・1954教行信証撰述の研究、慶華文化研究会(百華苑)*この序文、山内得立。教学理論的な応答でなく、即物的、実証的研究と論争を提議

・ヴルネル・イエガー、アリストテレスの文章の主語、一人称複数形、一人称単数形。この分類で、これまで最晩年とされていた神学篇(L篇)が初期の作品で、師プラトンの直接の影響下に成立していた。それが実証的に証明された。

・思想、理論から入るのではなく、文体上の調査、統計、表現の精密な実証が必要である。

・小川貫弌(かんいつ)、親鸞の筆跡研究にも感銘を受けた。

11-4 東北大学時代

・尚書正義(定本)に古事記序文と共通する筋、語法を見出した。(山田孝雄は触れず)(村岡先生は、演習で発表するようにと)

 

12 その他

12-1  豊前王朝(大芝英雄、室伏志畔) 王朝と称する場合、一定の考古学的遺物が周辺から分布する必要がある。

12-2   ナマハゲ

12-3 推古朝遺文 A C D は九州王朝側の史料 Bだけが推古朝の遺文(七世紀前半)

A  釈迦三尊の光背銘(法隆寺)

B   薬師佛の光背銘(法隆寺)

C   日本書紀の推古紀、十七条の憲法

D  日本書紀の推古紀、冠位十二階

12-4 書紀の記事に依存し、考古学、モノに依拠していない。

12-5 千葉県の常代神社

12-6 近江遷都論(古賀達也)

1 海東諸国記

2 斉明天皇と九州年号

3 二中歴(平安時代成立) 継体元年(517)-大化六(700) 近江遷都、書かれていない。

4 考古学出土物 土器なし 神籠石山城群が造られていない

5 戦勝国、唐が来入するのは筑紫だけ、近江へ来入していない。

6 唐軍侵入の痕跡が、考古学出土物にもない。

7 表函(ひょうひつ)戦勝国の唐が、敗戦国へ来て表函を進ずるなど意味不明。日本の誰に奉ったは不明。

8 表函記事、天智4年は、三年の誤差があるので、3年前の天智元年(以前)とならざるを得ない。

9 九州の薩野馬に進じた。倭国、開戦の決意となった。

10 表函 九月二十日に筑紫に至る。二十二日に、表函を進ず。近江では有り得ない。

11 庚午年籍 近江令は筑紫令の盗用。神亀四年(727)秋七月丁酉、筑紫の諸国、庚午籍七百七十巻、官印を以て印す。(続日本紀巻十)

・近江令は虚、正しくは筑紫令。

・厳密で、慎重で、良心的な反証が必要。

12-7 森鴎村碑   (栃木県藤岡町の大前神社)

・稲荷山古墳の銘文、斯鬼宮は近畿の雄略天皇の宮でなく、関東の磯城宮である。

・石川善克/大前の地名/藤岡史談、第六号、磯城宮は後代の造作

(古田)これに再批判

12-8 富士神社

12-9 神の名前が長い …個々のケースの検証が必要

12-10 七福神 (古田)知りません。

(雁註)七福神、寶舩の画証は、1543以前に遡れない。つまり、ポルトガル、スペインなど外国船が漂流して、文物を積んだまま着船した。乗り組み員の多くは、異様な風体の野蛮人として、殺された。

12-11 鶴見山神社由来記(水野孝夫)

・鶴見岳=天香具山を示す文書(現在、非公開)

12-12 和気系図(円珍系図)ー円城寺藏(滋賀県) 聖徳太子の虚像 合田さん

・(古田)知りません。 君、評造、評督、郡大領など、今後の研究で史料価値が明らかになる

12-13 一大國は倭人が命名した 倭人の漢字能力

A   前漢式鏡 糸島・博多湾岸に分布する鏡、倭國製(1979古田武彦/ここに古代王朝あり、朝日新聞社)

・LV鏡、韻律を示す末尾の文字が削られている。中国製ではない。仿製である。この日本製の銅器を中国製として、銅器分析を行い、誤判をした。

平原遺跡出土(前原市)四十面の後漢式鏡群、すべて中国製と考えているが、錯覚。これらは仿製。(超大型鏡(四面か)以外)

(伊都国、平原遺跡wikipedia)1号墓 大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。

B   金印

C  倭人傳の詔書と上表文

・使者派遣に対し、俾弥呼と自署、俾(使者)を使っている(「周礼」)

12-14 漢字 倭人の文字認識

12-15 融天師彗星歌 三国遺事(古田/失われた九州王朝) 「倭」が使われていて、「日本」ではない

・「日本」、国名ではなく領域名

・ヒノモト 博多湾岸、周辺部(筑後)に地名が存在している。701以後、日本國、国名として正規に成立

12-16 蛭神と縄文遺跡 蛭神(ヒル神)は太陽神

12-17 人、文物が単独で入ってくることはなく、思想、宗教を伴ってくる。

・劉仁顔と薩夜麻 劉仁顔は薩夜麻の非釈放の立場 劉仁顔が流罪になり、釈放された。

・薩夜麻は倭王に復帰し、白鳳、朱雀、朱鳥、大化。

・壬申の乱、背後に唐軍がいた。

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(まとめB)石田泉城さん(書家)、古田史学を信頼するファン。古田先生の諸書を読破し、箇条書きに纏めた。(まとめA)と重複するが、参考に。

図書館で「古代は輝いている」を読んで、理路整然とした、納得できる古代史に嵌まった。他の文面で、真人が八姓の一つであると述べているなど、相当な古代史の学識のある方であるようだ。石田泉城さんの文章、簡潔、明瞭で素晴らしい。明治-大正期の書家、石田泉城さんの末裔でしょうか。生年が不明だが、戦後生まれの確たる教育を受けている。可笑しいことはオカシイと明確に述べている。

https://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html

http://www.geocities.jp/pujo106blue/index.html      

(古田史学の神髄)

http://www.geocities.jp/pujo106blue/index.html

1 邪馬壹国の名称

2 魏志倭人伝における距離

3 邪馬台国までの距離12000余里

*朝鮮半島 方4000里と計算している。西→東→南、これで8000里。あと4,000里で女王国。すると北九州に着地する。

4 志賀島の金印

5 神武東侵

6 天孫降臨

7 二倍年歴

8 君が代

9 磐井の乱<旧説>
(現在は磐井の乱はなかったとする立場)

10 万葉集の歌

11 ふたたび、神武東侵

12 「撃ちてし止まむ」の歌

13 都督府

14 法隆寺釈迦三尊光背銘文

15 大化の改新

16 倭の五王

壬申大乱(整理中)

(雁註)geocities.jp  古田武彦先生のことを書いているが、このgeocities. 何を言っているのか全く支離滅裂。

他の事件、事物については、簡潔明瞭な文章で分かり易い。しかし古田史学については要領を得ない。数字で表わすより、その方程式の意味を文字で表わすことが基本であうr。残念!

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(古田史学の説の数々の一部)
1 邪馬台*国ではなく邪馬壹国である。三国志(魏志)では邪馬台国と書かれていない。全て邪馬壹国と書かれている。

(雁註)1190-1162紹煕本は「邪馬壹国」と刻記されている。紹興本(廿四史百納本)は、邪馬臺国となっている。

(古田)三国志(静嘉堂文庫)(明代に復刻された北宋本)に邪馬「一」国とある。一は、どうみても臺(台)ではない。一(いち)つまり壹である。

1131-1162紹興本(宋の南遷直後・紹興年間) *廿四史百納本

1190-1162紹煕本(紹煕年間)

(雁註)294陳寿/三国志、邪馬壹国と表記している。445范曄/後漢書に邪馬「臺」国。何故、臺と表記するようになったのか。卑弥呼(ひみか)の女王国があったので、臺(ダイ)とした。しかし、この漢字の音は、ダイであってトではない。つまり、奈良ではなかった。女王国では自分の国を何と呼んでいたか。倭(やまと)と呼んでいたか。


2 金印「漢倭奴国王」は、漢の直接統治の属国の王に与えられたのだから、「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」ではなく、「漢」の「倭奴(いど)」の「国王」と読む。

(雁註)古田先生による、漢印譜の調査結果によると、必ず一つの統治国名になっている。二つの形容は無い。「倭奴」国王、いと、こくおう。当時、伊都は島であったので伊都島(糸島)と称した。此処に世々王がいたと刻記されている。他の王については全く記録がない。

 

3 倭国は新羅と国境を接すると好太王碑にある。倭国の領地は、日本列島と朝鮮半島にまたがっている。

(雁註)当時の倭、朝鮮半島と九州北部に跨がる海人(かいじん)であった。

391辛卯、倭が海を渡り百残、□□、新羅を破り、以て臣民と為す。*海は朝鮮半島の意で、今日では否定的見解が有力。

414好太王碑、碑文には甲寅年九月廿九日乙酉 6m、1775字

広開土王(374-413)高句麗第19代の国王(在位391-413)、通称、好太王。

(雁註)海を渡り、この語句は朝鮮半島内の意、朝鮮海峡の海ではない。

寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と刻まれており、その意味内容は「寧東大将軍百済の斯麻王は、年齢六十二歳癸卯年(523年)の五月七日に崩御した」 …

(雁註)武寧王(462-523)523癸卯五月七日、百済の斯麻王が六十二歳で没した。 *ムリョンワン


4 卑弥呼の時代には、魏では短里(77m)が用いられていた。

(雁註)BC100s-199周髀算経(しゅうひさんけい)など数学の本によると、周代から三国志代まで、一里は七十七メートル。


5 里程、魏志倭人伝で、帯方郡から邪馬壱国までに至る距離を加算すると、確かに12000余里となる。

(雁註)倭人条に邪馬壹国まで、12,000里とある。朝鮮半島を4,000里四方としているので、東西、南北、8,000里で、朝鮮南部へ到達。あと4,000里ということは、邪馬壹国は北九州となる。

 

6 邪馬壹国の首都は、九州北部の今の太宰府、都督府である。

(雁註)太宰府(だざいふ)、太(だ)、ゝがある。これは支那の術語であり、都督府であった。


7 中国側が認めていた倭国は、九州中心の国である。

(雁註)230s倭国が中国と周以来、朝貢など(交渉)をしていた。当時、奈良は未開の地。何もなかった。

*周 BC1100s、都を鎬京(こうけい)に移し、華北中元を支配。BC771、犬戎(けんじゅう)の攻略を受け、東遷し、洛邑(洛陽)に移した。BC256(一説、BC249)、秦により滅ぼされた。

 

8 230s-700九州王朝は倭(ゐ)と呼ばれ、卑弥呼から白村江の戦いまで、延々と続いた。

(雁註)230s-662倭(ゐ、わ)は中国の呼称、倭自身は、「やまと」と呼んでいたようだ。

 

9 662「邪馬壹國」は九州王朝の前身であり、その後、九州王朝は662白村江(はくすきのえ)での敗北により、九州王朝の天皇である筑紫の君薩夜麻が唐の捕虜になり、滅亡にむかった

(雁註)662-701、邪馬壹國は白村江の戦いで破れ、その後、700滅亡する。


10 天孫降臨の地は、日向国(ヒュウガノクニ)ではなく、筑紫の日向(ヒナタ)である。福岡市と前原市の間にある日向峠である。

(雁註)日向(ひゅうが)ではなく、糸島の東、日向(ひなた)峠(海抜248m)。ただし、天孫降臨の意味は曖昧。奈良王朝は(26)継体(480s?-531?)王朝(越前)を母胎とする渡来民族。応神王朝、五世の孫として、繋がりを意識しているが、繋がりは無い。


11 590s−620s古い時代、日本では2倍年歴が使われていた。

(雁註)230s−500s周代以来、推古朝あたりまで、春耕秋収で、倍暦が使われていた。(33)推古天皇(554-628)の享年が75歳。在位592-628。恐らく、この半分ほどが実年齢。これ以前、(10)崇神から(1)神武は実在せず、故意に古く装う捏造と見られている。二人とも、ハツクニシラス、初めて国を造った人の意。二人いるのは、オカシイ。


12 527磐井の乱は、ねつ造である。磐井の乱はなかった。

(古田)527磐井の乱は、奈良王朝史官(日本書紀)らの捏造。

(雁註)古田先生、旧説を撤回して、捏造としている。


13 600-607隋書/日出ずる処の天子は聖徳太子ではない。九州王朝の多利思北孤である。

(雁註)600(開皇20)、607(大業3)九州王朝の多利思北孤(タリシホコ)は、隋の煬帝(ようだい)へ国書を贈り、朝貢している。

(藤枝晃)570s-620s聖徳太子(574-622)の実在を裏付けるもは何もない。

(古田)日出ずる処の天子は、多利思北孤(たりしひこ)。

607(大業3)魏徴(ぎちょう)(580-643)/隋書/俀(たい)伝 本紀5巻、列伝50巻、志30巻からなる。特に経籍志が名高い。唐の魏徴と長孫無忌らが、唐の太宗(598-649)の勅を奉じて勅撰を行った。編纂には顔師古や孔穎達らが参加した。636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成し、第3代高宗に代替わりした後の656年(顕慶元年)志30巻が完成、編入された。

 

14 600-607天皇の称号を最初に用いたのは九州王朝である。

(雁註)600、607隋の天子に対して、多利思北孤は天皇?と称している。


15 480s−690大和王朝の前に独自の年号を使っていた。いわゆる九州年号である。

(雁註)奈良王朝の645大化以前、継体期(480s?-531?)、既に九州王朝は九州年号を使っていた。岩戸山古墳が磐井君の墓。

*璽至(応神)、善化、正和、常色、教倒(継体)、僧聴(宣化)、明要、貴楽、法靖、兄弟…(欽明)、法興(崇峻)、貴楽(推古)、聖徳(舒明)、僧要、白鳳(大化5)、白雉(白雉3)、中元(662)、朱鳥(672)、大化(686)、大和(690)。

九州年号は、1471(成宗2)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)/海東諸国紀に記されている。

 

16 672壬申の乱の吉野は、吉野ヶ里で有名な吉野のことである。  

(古田)持統天皇(645-702)、9年間に13回、吉野へ。690-697観光の花見の時期ではなかった。此の吉野は吉野ヶ里、有明海に望む軍事基地。太宰府から吉野ヶ里まで軍事道路が建設されていた。九州王朝の事績を日本書紀に取り込んだ。九州王朝は701、滅びる。

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1, 「北と南の潮流」(7700人より)

(雁註)北方、つまりシベリアか樺太、北海道、本州へ。南方、江南(揚子江)から海流に乗り、日本列島へ

2, 「磯を求めて」

(雁註)日本列島は、回りを海で囲まれ磯(いそ)で簡単に魚類を釣ることが出来る。シベリアでは、アザラシ、セイウチの骨を使い、釣り針を造った。

3, 「二倍年暦」

(雁註)倭國では、周以来の春耕秋収、つまり一年を二年に数えていた。280-297陳壽/魏志東夷傳倭人条、倭人が長命、100歳云々。これは50歳の意。

陳壽は、史実を正確に記しているが、この倭人の長命だけ間違えている。

4, 「俾弥呼の実像(その1)」

(古田)1796宣長/馭戎慨言( ぎょじゅうがいげん )、推古朝以前の中国への朝貢は奈良王朝とは無関係であると尊王排外の信念で書かれている。

(古田)邪馬「壹(やまいち)」国は博多湾。陳寿/三国志は全て邪馬「壹」国と刻記されている。卑弥呼、読みはヒミカ。三国志では狗カ。敵対する相手の死者を手厚く葬った。俾(ひ)は使者の意。

(雁註)邪馬「壹(やまいち)」国は、伊都、奴(ぬ、ど)、不弥(ふみ)の南とあるので、博多湾岸ではない。内陸部の太宰府、須玖岡本遺跡あたりを指している。本居宣長の古事記伝は、後漢書などから邪馬「臺」国と記している。しかし邪馬「臺」、ヤマトと読めない。臺はダイで、一字一音の297前後の三国志と違っている。後漢書は、なぜ、邪馬「臺」国としたのか。邪馬「壹」国を魏臺(ぎだい)と同様、国家として考えたからか。

5, 「俾弥呼の実像(その2)」

(古田)俾弥呼(ひみか)、陳寿は実際に会って、長大であると書いている。つまり同時代史料。文帝の例では三十四歳。当時の一生は短いので、三十代でも長大ということになる。筑後風土記に、甕依(みかより)姫とある。甕(みか)は神に捧げる器。鬼道に仕える。鬼は彼の世、先祖を祀る意。祝詞(のりと)を意味している。

6, 「俾弥呼の実像(その3)」

(古田)実際に小さな舟(ヨット)で、アメリカ大陸、世界一周をしている若者がいた。エクアドルまで黒潮に乗って到達。釣り針と糸、雨を溜める壷があれば、可能であると。これまで、ユダヤ人が世界へ移動しているとされていたが、実ハ、ベーリング海を渡って、アジアのモンゴロイドがアメリカ大陸へ移動した。陸地だけでなく、海流を航海してアメリカ南北大陸へ出掛けている。ヨットのような近代的な渡航舟は無かったので、筏(いかだ)で航海した。つまり、筏は、アウトリガーの双胴船といえる。また日本列島の人々と南米のインディオ、ウイルス、遺伝子などでも同じ種族であることが分かってきた。

7 , 「崇神天皇の時代」

(古田)(2)綏靖(すいぜい)天皇から(9)開化(かいか)天皇までの説話、伝承は何らかの都合で削られた。神武は実在。「天皇」名は後世。崇神は義理の母と関係を結んだ(不倫の子)。古事記の序文、中国の南朝が偽り。鮮卑が北魏を作り、唐、宋になった。南朝、265-280晋、280-316西晋、317-419東晋。

(古田)江上波夫/騎馬民族征服説。成り立たない 1 ミマキイリヒコは日本語で、高句麗語の痕跡は全く見られない。2 好太王(374-412) 3 支配者は高句麗人、しかし高句麗語が見られない。古事記、日本書紀、風土記、万葉集に痕跡がない。

(雁註)騎馬民族の発祥地は、ロシアのミヌシンスク。古墳に馬が何頭も埋葬されている。西方へ移動したのがスキタイ(現ウクライナ)、東方へ徐々に移動し、日本列島に渡来した。当時、馬を一度に何頭も運搬できる大規模な造船技術が無かった。

8 , 「倭の五王と磯城宮」

(古田)◯縄文海進、瀬戸内海は陸であった。サヌカイトが敷詰められている。◯414好太王(374-413)◯神籠石(こうごいし)阿蘇の溶岩を切り出し、木柵を二重にした朝鮮式山城。神聖な場所で、要塞でもあった。◯488沈約(441-513)/宋書(そうじょ)宋・に仕えた。蛮夷伝に倭の五王(讃、珍、済、興、武)とある。これらは奈良王朝とは無関係。すべて、九州王朝の王である。

9 , 「東北王朝」

10, 「日出ずる処の天子」   636魏徴(280-643)、長孫無忌ら/隋書

11,「九州年号」

12, 「”大化の改新”の虚実」(3600人より)

(雁註)日本書紀の645大化改新、全く裏付けがない。木簡で、701以降、評が郡に替わる。奈良王朝は、九州王朝の小郡の正倉院の宝物を奈良へ強奪し、分配した。それ以前は評。北朝の魏書(鮮卑)、西晋の土地を略奪。小郡の正倉院の玉、銅の細工人、鷹狩りの鷹匠などを奈良へ移した。

(新庄)持統天皇の吉野山。櫻見物にしては季節が合わないし多過ぎる。しかも日本書紀の干支では合わない。662白村江直前とすると合う。701前後の事実を、645前後のこととして古く見せている。九州王朝は700まで続いていた。701、奈良王朝にとって替わられた。

(古田)人麿の雷山は、奈良ではなく、九州。千如寺大悲王院(せんにょじだいひおういん)。寺伝(雷山縁起)によれば、(13)成務天皇48年(178年)、天竺(インド)霊鷲山の僧「清賀」が渡来し、開創したとする。(あくまで寺伝であるが仏教公伝より300年以上前という事になる)。人麿は唐からの開戦を誘導され、結果、白村江で敗れた九州王朝の天子に対して、庶民の悲惨な情況を和歌で表現して、抗議した。

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◯中国歴代正史 東夷傳 *正史というが、編年に前後がある。ここでは中国歴代正史の順序とした。

1 BC91司馬 遷(BC145?-BC86?)/史記(しき) 130巻 前漢   

2 80班 固(32-92)/漢書(かんじょ) 100巻 後漢

3 432范 曄*(398-445)+司馬彪/後漢書(ごかんじょ)の東夷伝  120巻  *はんよう

 後漢書/巻八十五 東夷列伝第七十五では、夫餘国,挹婁,高句驪,東沃沮,北沃沮,濊,三韓,倭のことが記されている。

4 280s陳 壽(233-297)/三国志の東夷伝 65巻 晋(しん)

 三国志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝では、烏丸鮮卑夫餘高句麗東沃沮挹婁倭人のことが記されており、夫餘以降が東夷伝となる。

5 648房玄齢(578-648)/晋書の東夷伝 130巻 唐

晋書』列伝第六十七 四夷では西域諸国,匈奴とともに、 夫餘国,馬韓辰韓肅慎氏(挹婁),倭人,裨離国,養雲国,寇莫汗国,一群国について記されている。

6 488沈 約*(441-513)/宋**書の東夷伝 100巻 梁 *シンヤク **劉宋 南朝最初の王朝。420東晋の武将、劉裕が建国。リュウソウ 都は建庚(南京)。479、八世の順邸が武将、蕭道成に帝位を譲り滅びた。

宋書では「東夷伝」として独立しておらず、「列伝第五十七 夷蛮」の中に南蛮諸国とともに列記されている。ここでは高句驪国,百済国,国のことが記されている。

7 537蕭 子顕*(487-537)/南斉書の東夷伝 59巻 梁  *ショウシケン

南斉書』でも東夷伝と南蛮伝が一緒になっており、「列伝第三十九 蛮東南夷」となっている。ここでは高麗国(高句麗),加羅国,国について記されている。

8 636姚 思廉(557-637)/梁書の東夷伝 56巻 唐

梁書』では、東西南北の異民族(海南諸国東夷西北諸戎)の伝を一つにまとめて「列伝第四十八 諸夷」に収録している。ここでは高句驪,百済,新羅について記されている。

9 648姚 思廉(557-637)/陳書 36巻 唐

10 554魏 収(506-572)/魏書の東夷伝(なし) 130巻 北斉

魏書』列伝第八十八では、高句麗,百済国,勿吉国,失韋国,豆莫婁国,地豆于国,庫莫奚国,契丹国,烏洛侯国の国々が記されているが、倭国についての記述がない。

11 636李 百薬(565-648)/北斉書 50巻 唐

12 636令孤 徳棻(583-666)/周書の東夷伝 50巻 唐   *レイコトクフン

周書』列伝第四十一 異域上では、高麗,百済,庫莫奚について記されている。

13 656魏徴(580-643)(魏徴)/隋書の東夷伝  85巻 唐 636紀伝 656志

隋書』列伝第四十六 東夷では、高麗,百済,新羅,靺鞨,琉求国,俀国*(倭国)について記されている。*タイ

14 659李 延壽(?-659?)/南史の東夷伝  80巻 唐

南史/列伝第六十九 夷貊下では西戎南蛮西域諸国,蠕蠕とともに、高句麗,百済,新羅,倭国について記されている。

15 659李 延壽(?-659?)/北史の東夷伝  100巻 唐

北史』列伝第八十二では、高麗,百済,新羅,勿吉国,,契丹国,室韋国,豆莫婁国,地豆干国,烏洛侯国,流求国,倭国について記されている。

16 945劉 昫*/旧唐書**の東夷伝 200巻 後晋 *りゅうく   **クトウジョ

旧唐書/列伝第一百四十九上 東夷では、高麗,百済国,新羅国,倭国,日本国について記されており、倭国と日本国が並記されているのが特徴的である。また、契丹,奚国,室韋,靺鞨,渤海靺鞨,烏羅渾国といった諸国は鉄勒と共に「北狄伝」に含まれている。

17 1060欧陽 修(1007-1072)/新唐書の東夷伝 225巻 宋

新唐書/列伝第一百四十五 東夷では高麗,百済,新羅,日本,流鬼について記されている。

18 974薛 居正*(912-981)/旧五代史 150巻 (南)宋 *セツキョセイ

何か御気付きの点があれば御教示ください。

酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator 

浮世絵・酒井好古堂 浮世絵鑑定家 [浮世絵学] 検索 http://www.ukiyo-e.co.jp 

SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e

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