浮世絵学04/懇話会67 1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む 九州王朝、支那學 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/40406
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1982-04-29現在(2021-01-24更新) 浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定:judge

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酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人) *学芸員  *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員        *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 日本最古の浮世絵専門店

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints   

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文化藝術懇話会(67) 時: 2019-06-27(木)18.00-20.00 所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011号(パーティR) 人: 古田武彦/倭人伝を徹底して読む(大阪書籍)

・古田武彦(1926-2015)先生は、中国史書の日本古代史研究により、紀元前から700年代までの王朝は九州王朝。

・2019.7.9-8.9特別展三国志/東京国立博物館

・金印「漢委奴國王」委は周(しゅう)文の金石文字、つまり篆書で、禾本科(いね)が頭こうべ、を垂れている姿。「お辞儀の人々」として、委奴(ゐど)と表現した。

57:金印 漢委奴國王 「委奴」は篆書の象形文字で解読できる。

 委:曲がる意。しかし、朝貢した人々が全て背中が曲がっていた訳ではない。これは御辞儀の風習がなく、従って言葉もなかった。このため、御辞儀を禾本科(かほんか)の稲が頭こうべ、を垂れる姿、その人々としてイ偏を付けて、倭とした。倭は、元、委である。

 委奴國は、古代支那の漢が呼んていて、委奴國自身は何と言っていたのか分からない。分からないので、書いていない。

107:帥升(すいしょう) 帥は纒め役か。升が人名。國名は分からない。

倭(わ)は古代支那側が呼んだ名称である。

240:卑弥呼(ひめこ)、邪馬壹國(やまいちこく)

*日本書紀では、神功皇后を造作している。卑弥呼の名前を大義名分上、書くことはできないからである。

*古田武彦先生が紹熙本を見つけ、「邪馬壹國」(やまいちこく)とあるのを確認した。この紹熙本、世界に一箇所だけ、宮内庁書陵部にある。これ以前、紹興本が流布していた。紹興本は「邪馬臺國」(やまたいこく)である。しかし、臺(だい)は魏臺(ぎだい)のように王朝を表す。他国の名前に使うことは無い。

600(開皇20):多利思北孤(たりしほこ)(隋書俀國) たい

姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ)、阿輩雞弥(あほきみ)

*有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭

阿蘇山とあるので、九州である。近畿圏に阿蘇山はない。

*邪馬壹國は、北九州と南朝鮮に及ぶ海洋民族国家(沖ノ島を御神体)。

日本(にっぽん)の名称:既に九州王朝で使っていた。その後、奈良王朝が踏襲した。

*日本書紀では聖徳太子を造作している。これは多利思北孤と書けないからである。

*「北孤」と原文にある以上、これを尊重すべきである。「比孤」と原文を改定することは史料批判上、全く根拠がない。

◯浮世絵学04/外題(三国志展、東博)三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

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酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂 http://www.ukiyo-e.co.jp 文化藝術懇話会 [浮世絵学]Mobile: 090-8171-7668 100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14 電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

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◯1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む+

◯1987古田武彦/倭人伝を徹底して読む+

1 文化藝術懇話会(67) 時: 2019-06-27(木)18.00-20.00 所: 淡路町ワテラス・レジデンス2011 号(パーティR) 人: 1987 古田武彦/倭人伝を徹底して読む、大阪書籍社 ◯漢籍(分類)経 史 子 集 ◯五経 順序: 詩 書 易 禮 (樂) 春秋 また易・書・詩・礼・楽・春秋 1 易経BC1700-BC1100 周 BC403-BC222 本来の名 易 また周易 2 詩経BC770-BC222 西周から春秋 3 春秋BC722-BC481 4 書経(尚書) 最古の記録 殷周・春秋・戦国BC403-BC226 戦国以降・秦の穆公まで?-621BC 5 礼記*127-200 周秦の古書 前漢の戴聖 鄭玄ジョウゲン *らいき ◯四書 論語 大学 中庸 孟子

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◯1987 古田武彦/倭人伝を徹底して読む、大阪書籍社 はじめに *1984.04-1986.03、大阪朝日カルチャーセンター(中之島の朝日新聞ビル)24 回の講演をまとめた 序(p.3) 陳寿 大海という言葉、山島に居す *出雲風土記、 *天皇家は後代の亜流(三番手の後継者)、 *三国志の朝廷の語 倭人伝 これ以前の史書に書かれている。

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第一章 「三国志」以前の倭(ゐ)と倭人 「三国志」以前の倭と倭人 一 倭人の出現 (p.7) ・東方の夷 火を通さないで生で食べている。(礼記)文身(刺青) ・皮服の民 東夷、皮服す(尚経) 海曲、之を島と謂う。島に居るの夷。(尚書) ・日の出るところの人々 海隅(かいぐう)、日を出(い)だす。率俾(そつぴ)せざるは罔(な)し 率俾:中国の天子に臣下として仕える ・倭人の鬯草(ちょうそう)貢献:お酒にひたした香り草(論衡)。屠蘇も、その一種か 成王の時、越常、雉を献じて、倭人暢を貢す(論衡)。BC1115-BC1079 *越常は南蛮 ・東夷の音楽:成王の時(BC1000 頃)、昧(まい)は東夷の楽なり。叔父である周公に助けられので天子の礼楽を以ってせしむ。 ・漢書の倭人:楽浪海中、倭人有り、分れて百余國を為す。歳時(さいじ)を来たり献見すと云う(漢書) 班固/漢書、王充/論衡 同じ太学で学び、王充は五つ年長 貢献と朝見(天子の都)は意味が違う。 ・倭人と東鯷人:東鯷は、東の端っこの意 倭人:銅矛、銅戈、銅剣圏 二 箕子(きし)と燕(えん)(p.18) 殷墟が発掘され、架空ではなくなった。箕子は詩を読んでいる。従って、架空ではない。 ・箕子韓国の成立 始皇帝(BC246-BC210)の二世胡亥(BC209-BC207)三世嬰(えい)(BC207) (古田)箕子韓国と名付けた。朝鮮半島の南半部に箕子韓国、北に衛氏朝鮮。 ・倭は燕に属す 倭人の領域は、朝鮮半島の南岸部および、かなり奥地まで入った南半部に及んでいる(山海経) 2 三 倭人の居所(p.24) 光武帝の金印:志賀島から出た金印 倭人を見た班固と王充: 四 新たな課題(p。26) ・後漢書の信憑性:後漢書は三国志の後、同時代資料ではない。しかし、班固は、三国志にない新事実も書き加えている。 ・堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)の時代:周はBC1000-BC300、殷はBC2000+BC1000。夏は先殷期 ・縄文中期の日中交流は?:BC10000 前後、(BC14000、神奈川大和市上野(かみの)遺跡) ・井戸尻の縄文土器:殷・周の時代に三本指の神、山梨と長野の境の井戸尻にも、同じような、更に古い三本指の神 ・縄文時代の楽舞:能登半島で土製のお面。その倭人が夏の時代、舞踊を行った。事実とは言えないが、保留して記憶。 ・東夷の中国大陸侵入:後漢書の事柄も、人間だけが中国に入り、文化は入っていないということはありえない。

第二章 日本の文献にみる倭 一 新たな倭国の出現(p.35) ・チクシかツクシか 現地ではチクシ ・邇邇芸命 古事記のニニギノミコト 筑紫に遣わされたのは主流、直系の子孫でない。本国の天国に兄、祖母の天照もいる。 ・天津日高日子穂穂手見命を襲名する 穂穂手見命は高千穂の宮に伍佰捌拾(580)歳坐ましき。代々、同じ名前を襲名。 ・波限建(なぎさたける: 天津日高日子波限建・鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)命 ・地名が先か、説話が先か:産屋(うぶや)が出来上がらぬ内に生まれた 実ハ地名が先 説話は新しく、地名は古い7 ・天皇に姓はないか:天(あま)という姓 鵜葺草葺(うがやふき)という職業による姓 ・職掌が姓になる:地名、職掌 鵜葺草葺に似合わぬ素晴らしい息子 ・四兄弟の旅立ち:鵜葺草葺の職掌が下落していった。 ・神倭伊波礼毘古命:かむやまといわれひこ 倭:本来「ヰ」の発音。 井原、井尻 このヰがワに替わる(7 世紀末-8 世紀) ・倭と大和:弥生の近畿の人々は東鯷人。倭は、九州の分流。神武~開化の九代の天皇名中の倭、大倭はチクシの意。 二 「記」「紀」以前の倭(p.49) ・大国主説話:倭が出てくるのは古事記。日本海が舞台。奈良は出ない。宣長は倭を「やまと」と呼び、奈良ととっている。 ・天孫降臨の真相:大国古事記は筑紫̶出雲̶越、倭國へ上る 天照が大陸の金属器を使い、大国主命の主権を奪った。 対馬海流では出雲から筑紫へ、海流は遡(さかのぼ)る(千歳竜彦さんの示唆) ・山田のかかし:かかし、稲を守る神 ・大物主説話か?:大国主は一人では自信がなかった。故(かれ)、其の大年神… 海の光らしてやって来た。 ・宣長の誤謬:御諸山は三輪山だから、この神は大物主神と解釈した。「其の」は直前の名詞。チクシの倭 ・筑紫の青垣:倭ハ筑紫(ちくし)。福岡県鞍手郡小竹町に亀山神社(大歳大明神)、福岡の東の方。 ・倭の多元化:倭を大和と決めてはいけない。他にも多元的にある。 三 伊場木簡の若倭部(p.62) ・部民一元論に反対する:◯◯部 木簡は荷札。地名を全て部民に当てることは出来ない。 ・神麻績(かみ・おみ)部と神人部:神は「渺としてとして遠い淵源をあまた含んでいるもの」 ・浜名湖の倭:若倭部(わかわべ)(わかいべ)、近畿に出てこない。筑紫の倭ではないか。 四 常陸風土記の倭(p.68) ・記紀の相違:倭部天皇 日本書紀の日本武尊は東北地方へ出かけ、やたら征伐する。 景行天皇は古事記では九州へ行っていない。日本書紀では九州を巡回し遠征している。しかし筑前には立ち寄らない。 追加、また削除 ・大橘と弟橘:大橘比売命「倭より来る」、筑紫の倭の意。大橘を妃としている倭武天皇は日本武尊ではない。結論 3 ・日本武尊は天皇ではない:帰途、三重県で不慮の死を遂げた。景行天皇がいたので、日本武尊は天皇扱いに出来ない。 ・倭王武の常陸巡行:宋書の倭王武が筑紫にいる。倭王は雄略に一致しない。 ・筑紫と常陸の関係: 1 対馬海流、大陸から銅器・鉄器が最初に入ってくるのは越の国、また信州を通って群馬に入ってくる 2 利根川の上流が群馬。関東の下流域を襲撃した。 五 出雲と播磨の倭(p.76) ・出雲経由越行き:常陸の倭が筑紫の倭、出雲の倭は、それ以上に筑紫の倭。 ・官位の暴落:出雲風土記(八世紀半ば)の文責署名者がずらりと臣。これまで臣は最高位の姓(かばね)。 額田部臣(六世紀の古墳から) ・「姓」本来の性格:神武の家来(大九米命)が目のところに入れ墨をしていて、不思議がられている。 神武自身も入れ墨をしていた。若倭部、額田部。倭は筑紫の倭。 ・混在する倭:播磨風土記は倭が、第一次の倭と第二次の倭が混在 六 初期天皇家の若倭と大倭(p.81) ・大和盆地の若頭:九州の倭国の別国、大和における倭の新しい主である。 ・倭よりの使者:使大倭という官職名 ・倭人伝の「大倭」なり:筑紫なる中心権力からの派遣者、としての大倭。 ・初期天皇家は筑紫の分家:橿原近辺にしか陵墓をおけなかった。九代目になって、盆地内の固めが終わった。若倭の意。

第三章 倭人伝以前の倭(p.87) 一 松本清張(1909- 1992)説批判 ・松本清張氏の提議:倭人(日本列島)と倭國(朝鮮半島)は別 ・漢文の基本ルール:名前の次に出生地(郡県名)を書く。 ・松本氏の盲点:魏志の帝紀に「倭国女王卑弥呼、使を遣わして奉献す」 ・読み方の順序:「韓は帯方の南に在り、東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」、陸地で接する意。 韓、濊、倭は通貨制度がなく、通貨の代わりに鉄を使っていた ・414 好太王碑の証言:新羅は高句麗の好太王に、「倭が国境にやってきて脅かしている」と。倭の五王。 倭人とは倭国の人である。結論 ・なぜ倭人伝なのか: 1) 楽浪海中、倭人有り(漢書、地理志)…と云う。周代の話 2) 倭人鬯草を貢す(論衡、巻八) 3) 倭人は帯方の東南大会の中に在り(三国志、倭人伝) ・新羅国王は倭人:瓠公(ここう)、本、倭人。初めて瓠(ひょうたん)を以て腰に繋ぎ、海を度りて来る。 脱解、本、多婆那國の所生なり。其の国は倭国の東北一千里に在り。*これは短里 ・多婆那國の舟:東鮮暖流 倭国は博多あたり。 二 東夷伝と濊(わい)伝にみる倭(p.103) ・東夷伝序文:長老説くにに、異面*の人有り、日の出ずる所に近しと。*異面:鯨面、顔に入れ墨 卑弥呼が景初二年、大夫難升米らを遣わして魏の明帝に朝献す。陳寿は誇りをもって、倭人のことを記している ・濊伝のリアリティ:耆老(きろう)言う、風に遭い吹かるること数十日、東のかた一島を得。上に人有り。言語相 暁(さと)らず。その俗、常に七月を以て童女を取りて海に沈む。*人身御供の少女を海に沈めた ・女神の島:宗像(むなかた)の沖ノ島 *昔は女の島、三女神 ・水蛭子の話:項中復面有り … *シャム双生児 ・海、北道の問題:海の北道 東鮮暖流(西享子さん指摘) 号して道主貴と曰ふ:海の北道の安全を守る神 沖ノ島から出土した宝物は九州王朝か近畿王朝か 4 第四章 帯方の東南大海の中に在り 一 帯方の東南(p.111) ・帯方の地:後漢の終わり、楽浪郡から帯方郡が分かれた。 好太王の碑:倭不軌侵入帯方郡 帯方郡は高句麗と倭の争点 316 西晋は、匈奴の侵入により滅亡 このため、空白地帯となった。 沙里院から塼(せん)が出てきた。ソウルより遙かに西北。帯方太守・張撫夷の墓があっても中心ではない。 海の彼方に漁陽を望めるところだったか。つまり中心であるとは言えない。 ・帯方の東南 1) 韓国を歴(ふ)るに、乍(たちま)ち南し、乍ち東し、其の北岸、狗邪(こや)韓國に到る。 2) (対海國)南北に市糴(してき)す。 3) (一大國)亦、南北に市糴(してき)す。 4) (末盧国→伊都国)東南陸行。 5) 《伊都国→奴國》東南。*傍線行程 6) (伊都国→不弥國)東行 7) 《不弥國→投馬/國》南 二 大海(p.117) ・尚書にみる海: 四海 なぜ四になるか分からない。中国にとって海は東と南 海とあれば、東海を意味していた。周王朝は、黄河中流域を本拠にしていた。南海は後に認識が拡がった ・海を知っていたか 海を知らない人もいた ・四海と海隅 尚書→魏志 長老云う、異面の人々。 ・粛慎と日本の交流は:粛慎は北方民族で沿海州あたりを本拠としていた。 周の武王が殷を滅ぼしたので、粛慎氏、来賀す。 三 今使訳所通三十國(p.126) ・使訳:前漢・武帝の時、張騫を西域に派遣し、名馬を求め、河源を窮めた 我が魏朝は、周王朝以来の神秘の国、東の倭の使者を到着させた。 「使」(し)を遣わす ・通ずる関係:中国の天子の家来になる。 後漢が禅譲という名で滅ぼされ、曹操が天子の位について魏朝を名乗った。後漢の献帝は殺されたとの噂。 公孫氏は、魏朝に従う必要はないと。 ・大夏之属に通ずる:史記に張騫の西域の大宛列伝。現在では雲南省。当時は外国。 数万人の捕虜を得て、農業生産を増大させる。 倭人伝の場合でも、中心国一つに「通」ではなく、三十國と国交をもった。 ・差錯問題:(差錯)さかく、入りみだれる、ごっちゃになる意。三十ヵ国が勝手に帯方郡へ朝貢した訳ではない 実際、倭国は女王が軍事力で、各國の統制をとっていた。統一権力と軍事力をもっていた。 三世紀は、出雲支配の時代ではなく、国ゆずりで、筑紫中心の勢力が確立していた。 ・卑弥呼は三十國の代表:卑弥呼が上表分を書いた。貢物を付けて送った。文書に三十國の名前が書かれていた。 ・三十國の國名:狗奴國は呉朝に朝貢していたか。漢が滅ぼされ、魏朝になったが、公孫淵は魏朝を認めていない。 三角縁神獣鏡、呉の工人が日本列島へ来ている。 ・狗奴国と倭国の対立:難升米は率善中郎将(魏の官職名)を与えられている。 拝仮(はいか) 詔書と黄幢(こうとう、旗) 狗奴国は迂闊に邪馬壹國を攻められなくなる。魏を相手にする。 狗奴國は魏朝とは通じていなかった。 5 四 「狗邪韓國、倭地」論(p.142) ・倭地五千里:海の上に散らばっている全領域。12,000-7,000(帯方郡から狗邪韓國)=5,000(倭地) ・任那日本府の問題:朝鮮半島の南岸部に倭地があり、それが狗邪韓國であった。

第五章 里程論(p.147) 一 里単位の歴史 二里余、短里で180m ・赤壁の戦い:長江は支流の流れで加速される。このため、下流に行くほど速くなる。 川幅、400-500m(冬の乾季)、800m(夏の増水季) ・魏・西晋朝/短里説:一里=77m 周髀算經によると、76-77m(谷本茂) ・秦・漢の長里:文章の一部分だけ抜き出すと、間違えることがある。 ・古宝への復帰:周髀算經(BC1000)、実際の星の運行を反映している。 ・長里、再び:316(建康4)、匈奴の劉曜が西晋を滅ぼし、東晋(劉氏)を起こす。漢の高祖、光武帝に復帰。 二 史料対比の実証(p.157) 史記の中の長里と短里:夏・殷・周は短里、秦・漢は長里、魏西晋は短里、東晋に漢の長里。 三国志を里程ぬきで読むことは出来ない。周の天子、方5,00 里。楚、方、5,000 里で、天子と同じ本拠。 三 南蛮伝の中の倭人伝(p.162¸) ・夷蛮伝の里程:倭人伝は里程列伝ともいえるほど、里程記事がある。曹操は天子ではない、太祖。 倭人伝の里程は、大嘘。<白鳥(東京帝国大学)・内藤(京都帝国大学)共通の認識> ・「韓地、魏領」問題:帯方郡治~女王國、一万二千余里。(帯方郡治~狗邪韓國が七千里+五千里) ・「二つの序文」問題:陳寿の保護者・張華が失脚したため、宙に浮いてしまった。その後、陳寿は没する。 張華を追いやった荀勗(じゅんきょく)が政敵に倒され、范□(はんいん)が恵帝に上奏した。 このため、三国志の序文はない。しかし、陳寿は夷蛮伝に二つの序文を書いている。書に称す… 実際に倭国へ赴き、見て、記録した。これが三国志全体の結論ともいうべきもの。 四 里程列伝(p.172) ・大宛列伝の里程(史記):張騫は大夏に行き、黄河の源を窮めた。 禹本紀の崑崙なる山は何処にもない。 ・余里の理解: 五 陳寿の上表文(p.176) ・三国志の災難:正史は完成すると、天子に奉呈し、上表文を述べる。 亡くなった陳寿の家に三国志がある。正史として採用していただくよう上表文を出した。 天子から詔が下され、官人が筆写した。 ・諸葛亮著作全集:中国の歴史は煮ても焼いても食えない。司馬遷は史記の中で復讐している。 諸葛亮は、魏と対立した敵将。その事績の編纂をした。若い陳寿が選ばれた。よほどの見識を買われた。 著作全集を完成し、上表文の全文を収録してある。 ・上表文の精神:三国志に上表文を書けなかった身代わりか。 ・陳寿の上表文:諸葛氏集目録 … (三国志・蜀志、諸葛亮伝第五)

第六章 記された国名 一 夷蛮の固有名詞(p.185) ・倭人伝の固有名詞: ・帝紀(魏志)の夷蛮固有名詞:民族名称、また中国式一字名 ・夷蛮伝の固有名詞:魏晋では、天子を指す臺(だい)を夷蛮に使わない。 6 ・韓伝の固有名詞:同じ名前が二度、出てくる。文字の音読、現代の漢和辞典の読みと、かなり近い。 ・倭人伝の背景:卑弥呼の倭国は「鉄」の国。(弁辰)其の瀆盧国、倭と接す。*倭地が朝鮮半島内にあった 二 九夷問題(p.194) ・「爾雅」の(李巡)九夷: 爾雅(じが)、もと周代に完成したか。周代の地名か。(後漢書より古い。後漢書にない) 1、玄兎 2、楽浪 3、高麗 4、満飾 5、鳧更(ふこう)6、索家 7、東屠 8、倭人 9、天鄙 隠岐島は島前と島後。島前の中の島は海士(あま)村、ここが天国(あまくに)の原点か。地名に天日(てんぴ) ・倭は真名井の「ゐ」:井原、井尻 倭人な「ゐ」人という読み方、後に「にんべん」を付した。 対馬の浅茅(あそう)湾の北岸に和多都神社。そこの天の真名井という井戸。 弥生の地名というより、縄文期の海人族の二つの拠点(隠岐島、対馬) ・九夷は実在した:九つは、周代の地名、氏族名。 後漢書・東夷傳、□夷、于夷、方夷、黄夷、白夷… *抽象的で自在の地名、氏族名ではない 「論語」子罕(しかん)、「子(孔子)、九夷に居らんと欲す」。孔子は九夷という言葉を知っていた。 三 倭人傳と韓伝の国名(p.199) ・記された三十の国名:国名が出てくるのは、倭人傳と韓伝だけ。全体としての意味を掴む。 通じている三十国、壹與(いちよ)の上表文に国々の名前が書かれていた。 ・韓伝に現れた国名:実際に通って確認した国々が書かれている。 ・倭人傳は韓地陸行なり:紹興本は手を加えている。韓伝は陸行であった。多くの国名が出て来る。 「史記」西域の国々に卑字は使われていない。大国になった時、卑字が使われる。 周は匈奴に追われて中国本土に逃げてきた。その周を殷が保護した。 匈奴:匈河水の種族 胡奴:胡の種族 委奴(ゐど):倭奴、倭の種族 倭人傳の官名 倭人傳の固有名詞の読みは推定。 呼:カ 狗:コ ヒミカ:日甕、太陽の甕(みか) 筑後風土記に甕依姫 奴:ヌ

第七章 戸数問題(p.215) 一 魏の制度としての戸 ・倭人傳の戸と家 合計十四万六千戸と四千家 ・落と家と戸:混用している 確証のあるものだけを書いた。分からないものは書かなかった。 北方民族は落が多い。 ・魏志の邑と戸:魏の時代 省、郡、県、邑、戸 ・「戸」が出てこない:蜀志は、戸が出てくるのは二ケ所 魏志では多く出てきた ・魏の制度としての「戸」が強引に貫ぬかれている:三国志の呉志、蜀志で、「戸」は消された。 ・郡評論争:大化の改新の詔勅、「郡」が出てくるので信用できない(井上光貞)那須国造碑の金石文は「評」(評督) 七世紀末まで評、八世紀に郡という単位が使われた。浜松の伊場遺跡から、「評」の木簡が出てきた。 日本書紀、続日本紀は、九州王朝が使っていた「評」を隠した。人物の肩書きに「評督」と出てくる。 ・戸と家の区別:「戸」は税を取る単位、また軍事力を徴収する単位。倭人以外の人がいた場合、「家」 一大国、不弥国の場合、倭人以外の人々がいたので、「家」。 三千許家:許は前後の意 ・夷蛮の地に戸なし:史記、漢書では「戸」を使っていない ・「漢書」・地理志:戸〇〇万、口◯◯◯万、県◯◯ 二 戸数問題の副産物(p.236) ・県の存在:県(あがた)の成立 県風土記は九州王朝。郡(こおり)風土記は近畿王朝の命令。 ・二つの風土記と二つの里程:県風土記は短里(75m)、 郡(こおり)風土記は長里(435m) ・万葉の短里:八世紀、土地の人が「二十許里」、これは短里。長郷で約四里。短里が出ている。 7

第八章 剣・矛・戈(p.241) 一 三国志に現れた剣・矛・戈 ・剣・矛・戈:上級の人物は上殿の時でも、剣を持っていた。 柄のついた矛(ほこ)、遼東半島、朝鮮半島、日本列島で使われていた。中国大陸では戟(げき)。 刃が片方、刀。両刃は剣。(倭国)兵に矛・楯・木弓を用いる。 ・中心は筑紫:細形銅剣分布図、青銅器分布図 ・天子を守る矛:張飛が矛を横たえて、橋に立ち、蜀の劉備を逃した。劉備は妻子を捨てて、逃げている。 馬超は、劉備を玄徳、玄徳と呼んでいたので、関羽と張飛は杖刀(刀を杖のようにして)立っていた。 その後、玄徳、おい玄徳と呼ばなくなった。 杖刀(じょうとう):将軍の姿勢 稲荷山鉄剣の金文字「杖刀人」 ・矛は戦闘用具:主たる戦闘具、矛(ほこ) 二 戈(か)の時代 ・戈を倒にす:殷の民衆は、武王の反乱軍に対して、戈を逆さまにして迎えた。(尚書、一カ所) 戈は柄の長い鎌の親玉のようなもの。つまり農具が武器になった。馬の足を払うのに最適。 ・剣履(けんり)上殿(じょうでん):諸侯が身につけていたのは剣で、矛や戈ではない(礼記) ・戈から矛への変化:戈は小隊長か部隊長が持っていた。三世紀になると、矛が主となる。 戈を振り回すと味方まで殺傷する危険があった。矛は槍のように、密集しても使えた。 ・矛盾(むじゅん)と干戈(かんか):矛(ほこ)は金属の中に柄をつける穴が開いている。中子(なかご)を作る。 三 出雲からの出土物 ・三五八本の銅剣(出雲の荒神谷遺跡):戈は、古く殷末周初の武器。矛は、周末から漢・魏の新しい兵器。 ・出雲の時代の一断片:国ゆずり神話、出雲から筑紫に中心が移った。大国主命が国ゆずりを承諾した。 ・八千戈(やちか)の神と八千矛(やちほこ)の神:剣でなく、矛や戈か ・剣は便宜上の用語:高橋建自/日本青銅文化の起源 鉾は、本の方が袋になって柄を刺しこむもの。 剣は、本の方が刀剣のように茎(なかご)になっている。その茎が柄の方へ差し込まれる。 ・剣は矛であり、戈である: ・実在の名称と学問上の名称:甕(かめ)棺と甕(みか)棺 卑弥呼(ひみか)は「太陽のミカ」 稲荷山鉄剣は刀(とう)、両刃が剣(つるぎ)、片刃は刀(とう)。 四 前期銅鐸の問題(出雲) ・先祖を祭る前期銅鐸:天子が祖先を祭り儀式に銅鐸が使われていた。(礼記) 鐸(たく)と一緒に中細剣が出土 ・国ゆずりで、消えた銅鐸:神聖な中細剣が平剣へ発展したが、出雲では断絶している。 ・斧(おの)の似合う天子:周代の天子 斧鉞(ふえつ)を操りて云々

第九章 銅鏡百枚 一 鏡の記録 ・記紀にない鏡:特に汝に…銅鏡百枚…(魏志) 卑弥呼は天皇家の先祖ではない ・莫大な下賜品の背景:馬韓(韓国)は、楽浪・帯方郡と戦い、滅亡した。 ・鏡を望んだ卑弥呼:後漢の献帝が武帝を魏公にするとき、周代の前例にならい、鉄鉞 卑弥呼は太陽信仰で鏡を欲した。アマテル大神であった。八割りは博多湾岸から出土する。 ・鏡と前方後円墳:アマテル信仰 (雁註)糸島、博多湾岸に、前方後円墳はない。佐賀の岩戸山古墳は、衙頭(がとう)のある前方後円墳。 8 二 三角縁神獣鏡説 小林行雄 ・三角縁神獣鏡:近畿に集中している。 ・二つの疑問:三角縁神獣鏡は中国に出土しない。弥生遺跡に出土しない。日本列島で古墳時代に作られた。 ・倭国特注説:小林行雄らの自己進化の理論。これは理解し難い。 ・伝世鏡の理論:岩清尾山(いわせおやま)古墳の猫塚古墳(香川県高松市)(梅原末治) (古田)部分伝世はあるが、全面伝世は不可能 魏(二世紀)の夔鳳(きほう)鏡:福岡県春日市・須玖岡本、一世紀の弥生墓から出土 (梅原)従来の私の発想は少し変えなければならない。 ・考古学界を憂う:多くの考古学者は、三角縁神獣鏡は国産だと思っているが、それを言って貰っては困ると ・猫塚の荒廃:讃岐の石清尾山古墳 積石塚として有名だが、荒らされたまま。 三 弥生鏡*の銘文 *漢式鏡 ・日と光の文字:弥生鏡は全部で60 ほど、その殆んどが筑前中域 ・弥生人は字が読めた:魏は、詔書を送ってきた。 ・神聖なる日を映す:太陽信仰に関係している。 ・蒼龍と白虎:後に四方となるが、当初は東西。 ・仙人は桑を食す:筑前の卑弥呼、壹與は、蚕から絹織物を作っていた。 ・崑崙山を知っていた:シルクロードの終点は、最初(弥生期)は、本来、北部九州に至る道。 四 立岩遺跡の舶載鏡 ・詩にならない銘文:音韻が合わなくなっている。つまり、舶載鏡ではない。 ・文字はデザイン:意味がわからない、つまり、文字は単なるデザイン。中国人が作った鏡ではない。 ・国産鏡の等級:日本では権力の象徴として日本列島製の鏡が作られた。文字を読まなくてもよかった。 太陽信仰の儀式の道具。中国では鏡は女性が日常愛用する日用品。良質の銅鏡もあれば、悪質もあった。

第十章 倭人伝の詔勅 一 日本初期の詔勅(p.299) ・遺言の詔勅 日本書紀・雄略紀は隋書・高祖紀から採っている。年代からみると、逆だが、書紀は盗作した ・人麿の本歌取り 二 倭人伝の詔勅(p.302) ・三国志の詔勅 武帝・曹操は天子になっていないので、詔書はない。倭人伝だけ詔書が出てくる。 ・卑弥呼に制詔す 制詔は天子の命令、天子のみことのり。 制は帝王制度の命、詔は告令。また天子が勅を下す。制勅。卑弥呼は諸侯・王侯に準じて扱われている。 ・制詔の意味 中国の制度の中に組み込まれる。たいてい「詔」で、「制詔」は、それ程、出てこない。 三 詔勅を深く読む(p.309) ・夷狄文字を識らず 鮮卑王は文字を知っていることを「親中國である」という証拠 ・太后詔 詔勅の中に「大魏」とある。「大倭」も同様に理解すべき。

第十一章 朝廷の多元性 一 玉、珠、丹(p.311) ・玉 玉(ぎょく)は崑崙山で採れる。曹操は、遺言で「葬る時、平常の服で、金銀珍宝を一緒に入れるな」 「喪乱以来、漢氏の諸陵、発掘されざるは無し。至りては乃ち、玉匣・金褸を焼き取り、骸骨并びに尽くす」 (魏志・文帝の詔勅) 壁(へき):輪のようになった玉(ぎょく) ・珠 真珠 ・丹(朱)明帝も祖父・曹操が非常に質素で、贅沢なものは使わなかった。 9 ・石車と磐船 いわふね、石を運んだ船の意。しかも石を攻撃用の投げ付ける装置。修羅(しゅら)は大きな石を運 ぶソリ。 二 朝廷の多元性(p.319) ・三国志の朝廷:漢の朝廷、魏朝、呉朝 前漢の朝廷も対象となっている。 ・朝廷の多元性と西晋朝廷の不在:執筆時点の権力の中心・西晋を朝廷と呼んだ例はない ・朝廷を疑ってみる:出雲風土記に二回、朝廷と出てくる。この朝廷は出雲朝廷か大和朝廷か ・二つの朝廷:国造り(くにつくり) *くにもみやつこ、と暗記してきた 叙述の大穴持命と孫二人の場所を朝廷 と呼んでいた。大和朝廷ではない。出雲、筑紫、大和、それぞれ朝廷 ・国を造り、国をゆずる:大国主命は大和朝廷に国をゆずったわけではなく、筑紫に天孫降臨した邇邇芸命(皇御孫 命)に譲った。出雲中心の支配を完成したことを国を造ったと表現している。 ・三津郷の大国主:大穴持命の子供が口が利けず、夢で願った。 銅の精錬で鉱毒が流れていたか。銅利器(出雲矛)を大量に生産していた。

参考書(包括的) 1 三品彰英/邪馬台国研究総覧 2 佐伯有清/研究史 邪馬台国 3 佐伯有清/邪馬台国基本論文集 *邪馬台国が正しいと考えている。 4 安本美典/邪馬台国ハンドブック *甕(みか)依姫を取り上げていない。ハンドブックにならない。

研究論文摘要 1 松下見林/異称日本伝 金印・ヤマト(大和)の地にあると信じた。金印は九州志賀島 2 新井白石/外国之事調書 晩年、ヤマトから九州、九州説、筑後の山門(やまと)郡 本居宣長 3 白鳥庫吉/倭女王卑弥呼考 九州説/筑後また肥後の山門 里程に約五倍の誇張あり(短里を知らなかった 4 内藤湖南/卑弥呼考 大和の地名、官名、人名に比定した。*版本を探った 5 高橋健自/考古学上より観たる邪馬台国 古墳墓の多い地、漢魏の鏡・出土の多い地。大和 *卑弥呼の墳墓、径百余歩(435m) 長里で計測してしまった。実際は短里(25m)、100 歩x25cm=25m 6 三宅米吉/邪馬台國について 倭(ヤマト)に従属する国として、奴(な)国を考えてしまった。 *委奴(ゐぬ)「ゐ」の(人々)国 7 橋本増吉/邪馬台国の位置について 卑弥呼の径は円形を意味している。前方後円墳は当たらない。 *筑後山門説を採ったが、山門は円墳の密集地でもないし、鏡、錦の密集地でもない。文献と考古学は別の学問 8 梅原末治/考古学上より観たる上代の畿内 青銅器から鉄器へ。三世紀、鉄器文化の中心は大和。しかし、三世 紀、近畿には金属器がない。銅矛の実物、鋳型は出土していない。大和が前方後円墳の最古型と称していたが、 近年、小郡市の津古生掛けに出現している。 9 笠井新也/卑弥呼の冢墓(ちょうぼ)と箸墓(はしはか) 全長230m、後円径150m *径を前方後円墳の円墳部と限定、ただし短里(卑弥呼の墳墓、100 歩=25m)を考慮していない。 10 榎一雄/魏志倭人伝の里程記事について 全里程を合計すると10,500 里。 *1500 里は伊都国から邪馬台国まで 唐六典に1 日の歩行・50 里から、30 日は1,500 里になると計算。 三国志と唐六典が同一の単位であることが前提。短里と長里では成立不可能 11 小林行雄/邪馬台国の所在論について 鏡は手ずれで伝世される。三角縁神獣鏡(四世紀以降の古墳)こそ魏 朝から卑弥呼に授与された鏡であると。確かに部分的には伝世もあるが、全三角縁神獣鏡が三世紀に齎(もたら) されたとするには無理がある。しかも中国から一枚も出ていない。国産銅利器は筑後になく、筑前中域である。 12 植村清二/邪馬台国・狗奴国・投馬国 九州説とすれば、筑紫郡を中心に、糸島(福岡西部)から神崎(佐賀 県北部)に及ぶ領域以外にない。 あとがきに代えて 中山千夏さんとの往復書簡 資料 倭人伝・読み下し文 以上



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