浮世絵学04/1948(昭和23)岡本良知(1900-1972)/桃山時代のキリスト教文化  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/47718
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1982-04-29現在(2022-10-02更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) Copy and Handmade reproduction 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,211項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。
 
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1948(昭和23)岡本良知(1900-1972)/桃山時代のキリスト教文化、東洋堂

高瀬弘一郎先生が、岡本良知の「天正末に於ける耶蘇會の軍備問題」を引用している。

入手し難い研究書で、しかも原文を引用しなければ本意が分かり難い。

重要な論文なので、本書の全ページをデジタルで公開する。

*岡本良知(1900-1972)は、ポルトガル語の専門家で、教会の内部文書、および手紙などから判断している。

明確な事項と不明確な事項を峻別して、事実関係だけから記録している。

しかし、「フスタ」船の語源、画像は不明。

・施薬院全宗(1526-1600)は、ポルトガルが日本を侵略しようとしていると、関白秀吉に答申した。

・コエリョ(1527-1590)は、長崎を要塞として、日本を軍事侵略するため軍備を用意していた。キリシタン大名を扇動して、反秀吉勢力を動員する軍事計画であった。しかし、高山右近(1552?-1615)、小西行長(?-1600)など、キリシタン大名は誰一人として、コエリョの動きに賛同せず、コエリョの軍事侵略は失敗した。

・コエリョ(1527-1590)は、ポルトガルの定航船・フスタ船を平戸から博多へ廻航した。

・秀吉(1537-1598)は、博多のフスタ船が数門の大砲を具備している軍船であることに危惧を抱いた。

・ヴァリニャーノ(1539-1606)は、コエリョが準備した火薬、銃器、そして大砲を処分した。

・高山右近(1552?-1615)、小西行長(?-1600)らキリシタン大名らは、コエリョが博多にフスタ船を廻航し、秀吉に見せたため、キリスト教徒に大きな破滅が来ると懸念した。

・秀吉は、フスタ船のコレリョに対して、何故、日本人を奴隷とするのかと詰問。コレリョは「売る人がいるので、買った」と抗弁した。

(雁註)松田毅一、西暦と和暦(年月日)で対称した年表を作成。国内の事項は和暦で表示する。

・1479.06.07 トルデシーリャス(西)ポルトガルとスペインがトルデシーリャス条約で境界線を確定

・1542(天文11)中国船に載ったポルトガル人が種子島に漂着

 イエズス会(ポルトガル)とスペイン托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会)の対立抗争

・1565 平戸の船隊が福田来襲に対するポルトガル船の応戦

・1573 長崎のキリスト教徒 西郷、深堀両氏の軍の攻撃に対抗した

・1578 長崎のキリスト教徒 西郷、深堀両氏の軍の攻撃に対抗した

・1578.09.30 オルガンチーノの書翰、信長が伊勢で七艘の船を建造した。大砲三門が載っていた。何処から招来したか不思議であると。

・1579 龍造寺と有馬の戦争で、耶蘇会およびポルトガル人が有馬を援助。フスタ(砲備の軍船)を出動

・1581.10 ワリニャーニ 訓令。諸侯間の戦争に関与しない。

・1585.4.25 ワリニャーニ ゴアからの書翰 フィリピンの修道者を日本へ招致してはならない。

・1586.06.26 副管区長コエリョ マニラの耶蘇会へ幾艘かの軍船、および軍事上の救援を要請

1587.7-24(天正15.06.19)宣教師追放令 秀吉は、コエリョに対して五カ条の詰問を発した。バテレン追放令を発した。長崎を没収し、代官を派遣した。そして長崎の城壁を破壊した。ワリニャーノはマカオでバテレン禁止令を知った。

・1587.10.04 フランチェスコ・パッショ 日本の一艦隊にも抵抗し得るポルトガル船、すなわち副管区長のパートレの博多へ廻船した。かの防備完全な美しい船フスタが、彼(秀吉)に疑懼と嫉妬の心を抱かせた。

・1587.10.10 アントニオ・ブレスチーノ 信長はポルトガル人を恐れなかった。遠方より日本を征服できない。その後継者(秀吉)もポルトガルに対して恐れを抱かなかった。

・1588.1.20 皇帝(秀吉)は霊魂不滅を認めぬから、吾人の電動が永遠の生命のために霊子を救ふところにあることを納得せぬので、吾人の目的が彼の国の征服を準備するに外ならぬと信ずる傾きがある。

・1588(天正16.閏5.08)ワリニャーノら、マラッカに到着

・1588.11.25 オルガンチーノ 京都から平戸への書翰 「最近、多数の日本の諸侯をキリスト教徒とした後に、反乱を起こして主権を奪ふであらう」といふことも追放の一理由であったと秀吉が語ったと伝える

・1589(天正17.10.15)ゴメス、ヴァリニャーノに宛、秀吉、インド副王使節を厚遇すべしと報ずる。

・1590.10.19 ワリニャーニの書翰 長崎のフスタ船が数門の大砲を乗せていた

(岡本註)フスタ船は長崎で建造された、国外より廻送されて来たという宣教師の書翰は見えていないので、長崎で造られたという「唐物長崎記」を信じて、長崎で来航ポルトガル船員の手を借りれば、建造も不可能ではなかったか。

・1590(天正18.6.27)ワリニャーノら、長崎に帰着する。

・1590.05.07 コエリョ、没す。

・1590.10.12 ワリニャーノ 長崎に蓄積 コエリョの軍需品を処分 コエリョの無謀無思慮のため、秀吉から迫害された

(雁註)ワリニャーノ 日本への軍事侵略はコエリョ個人の過誤で、耶蘇会の方針では無かったと弁明している。しかし、耶蘇会の布教が、侵略のためであったことは疑いのない事実である。世界各地、アフリカ、アラビア、インド、アジア、南アメリカなど、見れば明らかである。

・1591(天正19閏1.08)、秀吉は、インド副王の資格のワリニャーノら、天正遣欧使節の四人の少年と、聚楽第でインド副王の書状を受け取る。

・実ハ、この1587、鉄砲、弾薬、大砲までを用意して、切子丹大名を煽り、日本を侵略するつもりだったが、キリシタン大名の誰一人として、反秀吉の勢力に加担しなかった。ワリニャーノは大砲などルソンへ戻した。すべての宣教師は、フロイスを始めとして、この軍事計画を遂行しようとしていた。

岡本良知 著作一覧

1930岡本良知/ポルトガルを訪ねる、日葡協会

1932岡本良知/長崎開港以前欧舶来往考、日東書院

1936岡本良知/十六世紀日欧交通史の研究、弘文荘  1942六甲書房、1942原書房

1938岡本良知/十六世紀世界地図上の日本、弘文荘

1942岡本良知/天正十四年大阪城謁見記、笠原書店

1944岡本良知/中世モルッカ諸島の香料、東洋堂

1948岡本良知/桃山時代のキリスト教文化、東洋堂

1953岡本良知/吉利支丹洋画史序説、昭森社

1955岡本良知/南蛮屏風考、昭森社

1963岡本良知/豊臣秀吉 南蛮人の記録による、中公新書

1965岡本良知/日本の美術 第19 南蛮美術、平凡社

1973岡本良知/十六世紀における日本地図の発達、八木書店

1987岡本良知+高瀬弘一郎/キリシタンの時代 その文化と貿易、 八木書店

1970岡本良知+高見沢忠雄/南蛮屏風、鹿島研究所出版会

 

 

 

 

 

何か御気付きの点があれば御教示ください。

酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator 

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文化藝術懇話会 

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678



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