浮世絵学04/外題(懇話会76)_1970松田毅一/南蛮のバテレン―東西交渉史の問題をさぐる、日本放送出版協会 http://www.ukiyo-e.co.jp/54361
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1982-04-29現在(2020-06-15更新) 浮世絵学  http://www.ukiyo-e.co.jp/54361

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1970松田毅一/南蛮のバテレン―東西交渉史の問題をさぐる、日本放送出版協会

I 南蛮とバテレン

・南蛮という言葉

・バテレンという言葉

 なんばんのあきんど、ふねにはじめて、人げんのかたちにて、さながらてんぐとも、みこし入道とも、名のつけられぬものを、一人わたす。鼻のたかきこおt,さざいがらの、いぼのなきを、すいつけたるににたり。(1665吉利支丹退治物語) 寛文5

 日本之大敵にて候也。きりしたんの法を不知国々へ弘めそめて、彼國へとらざる所更になしとかや。ルソン、いすぱんにやのびすぱんいや、ゴア、ブルとガル、かやうの大国を十二カ国、法をてらひひろげ取りし也。(1625小瀬甫庵/太閤記)寛永2

・バテレンの数 司祭

 1591 142名のバテレン *秀吉の晩年

 1610 69名のバテレン 

 1614 バテレン追放

II 最初のバテレン

・ザビエルの世界観

 シャビエル(1506-1552

  鹿児島出身のヤジロウとマラッカ教会で会う。ヤジロウから日本のことを聴いて欣喜雀躍

  日本は戦乱状態で、滞日二年三ヶ月で日本を去り、インドへ帰ることにした。

  広東沖の三上島(サンシャン)で死ぬ

 イグナチオ・デ・ロヨラ(1491 – 1556) イエズス会初代総長 元スペインの軍人

  異教徒殲滅(せんめん)の戦士

 コロンブス(1451-1506

 ヴァスコ・ダ・ガマ(1469c-1524)アフリカ喜望峰からインド西岸

 バルボア(1475-1517) 太平洋発見

 マジェラン(1480c-1521) 世界一周

 イマゴ・ムインディ 1490s 円板形の世界図 世界の中央にエルサレルム 海に怪物

 天竺 

・東洋の使途

 清貧

・ザビエルと日本語

 ザビエルは「背の高い、温和な型。日本語はおできにならず、通訳を介して説教」(洗礼老婆)

 あるバテレン「日本語は悪魔が我々の福音を妨げるために考案した言語である」

 ロレンソ(琵琶法師)(了西)

 内田トメ

 日比屋了珪(リョウケイ)

 大友義鎮(1530-1587)   *宗麟

 小西立佐(1540s-1592) *行長の父

 フロイス(1532- 1597) ザビエルは日本語を修得できなかった

・日本の史料

 日本の史料にはザビエルのことが書かれていない。

・ザビエルの方針

 日本の着く前に、日本人の特性、宗教、政治について実情を知っていた。

 布教費を賄うのは大変である。

・日本と地球分界線

 トルデシリャス条約 スペインとポルトガルで世界を二分

 南甫文之/鉄炮記  島津家の学僧

 1543.09.23 ポルトガルの商人が、種子島に漂着

 ザビエルは、日本征服が不可能

・大道寺論争 渡辺世祐は、裁許状は疑問とビリオン師を論難した。

・歴史家・作家・宣教師 

 歴史家と作家(フィクション)と別。

III 日本観の形成

・日本の変貌

 信長(1534-1582

 秀吉(1537-1598

 家康(1542-1616

 1614南蛮バテレンを追放

・開拓者の苦闘

 シャビエル(1506-1552

 トルレス(1510 – 1570)  スペイン生まれ  日本布教長

 アルメイダ(1525c – 1583) ポルトガルで医学の心得

  1556豊後で病院を開設 多くのものが薬で、治癒した そして洗礼を受けた

 ガスパル・ヴィレラ(1525c-1572

 ジョアン・フェルナンデス( 1526 – 1567) スペイン・コルドバ生まれ

 カブラル(1529 – 1609) 日本布教長 *イタリアのオルガンチーノと両極端

・南蛮貿易とバテレン

 利益が大きいので、ナウと呼ばれる大型船を就航

 支那の生糸を日本へ輸入 銀を日本から輸出した ポルトガル人は日中貿易

・神社仏閣の破壊

 大友宗麟フランシスコ(1530-1587

 カブラルに対して、日本人を改宗させるなら、日本語を学び、日本の礼法に合うように

 大村純忠ドン・バルトロメオ(1533-1586

 高山右近ジュスト(1553-1615

  1573高槻城主となり、領内の神社仏閣を破壊

 有馬鎮純ドン・プロタジオ(1567-1612

・別世界・日本

 モンテーニュ(1533-1592)/エセー 我々は、銘々が自分の習慣と違うことを野蛮と呼んできたに過ぎない

 イエスの受けた十字架の受難の聖週間 四月中で毎年、移動する

 1983フロイスの日本覚書、中央公論社

 1991フロイス/ヨーロッパ文化と日本文化、岩波文庫   609カ条の違い

・バテレンの信長観

 1568-1582信長がバテレンと31回も会っている。京都15回、安土で12回、岐阜で4回、

 フロイス、オルガンチーノ、ヴァリニャーノ、カブラル、メスキータ

 (フロイス)信長は尾張の三分の二の主君たる殿(織田信秀)の次男であり、天下を統治し始めた時、三十七歳(正しくは三十四歳)であった。彼は背丈は中位で、体躯は華奢であり、髯すくなく、はなはだ声が高く、きわめて戦闘的で、武技に耽り、名誉心に富み、正義ということで厳重であった。彼は自分に加えられた侮辱を抜歯ないでは済まさなかった。ある種のことで、は愛想と慈愛を示し、眠ること少なく、非常に早起きである。貪欲なく大いにその決断を秘し、きわめて戦術に老練で、大いに性急であり(知略にはやき事は、まことに猿猴が梢を伝うに相似たり)

激昂しやすかったが、平素はそうではなかった。彼は、僅かしか或いは殆ど全く家臣の忠告に従わず、きわめて一同から畏敬された。酒を飲まず、食を節し、自ずからの行動に極めて無拘束であり、且つ自らの見解において僭越であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、その下位にある下僕に対するように、上から下に向かった彼らに話しをした。そして人々は、絶対君主に対するように彼に服従した。彼は戦運が、己れに背いた時にも度胸があり、辛抱強かった。善き理性と明確な判断の持ち主で、神、および佛のあらゆる礼拝、尊崇、ならびに一切の異教徒の占う迷信的慣習の軽蔑者であった。霊魂の不滅とか来世の賞罰はないと見なした。何人も武器を携えて彼の前に出ることは許されなかった。

#松永久秀(1510-1577)  バテレンの危険性について忠告すると信長は、

 たかが、一人の外国人が、日本において、いったいどのような悪事を働けるというのか。予はむしろ、京都の街に多くの宗派があるところへ、いとも遠いところから、ここへ自らの教えを説くために一人の男がやって来たことは、名誉なことだと思っている。

#羽柴秀吉(1537-1598)バテレンは日本を征服する野心があって日本に来ている

 いとも遠方から、そのような企てを遂行するに足るだけの兵力を差し向けることは、能うることではない。

#フロイス *実はカリオン 祭服に着替えようとした時、光秀が信長を襲撃した

 信長は、その傲慢さのために、身を滅ぼした。

IV 布教方針の転換

ヴァリニャーノ(1539-1606) イタリア出身であるが、スペイン語を用いた

・二つの日本観

 ザビエルトルレスカブラル

 オルガンチーノ:日本人ほど天賦の才能をもつ国民はないと思われる

 カブラル:日本人ほど傲慢で、貪欲で、不安定で、偽装的な国民を見たことがない

・布教方針をめぐって

 オルガンチーノは日本に順応しようと和食、着物をきた。イタリア人というより日本人だ。

 南蛮貿易という好餌をもって、人々を吉利支丹宗門に誘い込むのも一案である。

 著名なキリシタンの殿たちは、カブラルを嫌い、彼に逢おうとしなくなった。

 豊後王の大友宗麟だけ、ポルトガル舩による利益があり、カブラルと交際していた。

 1578.08.28大友宗麟は洗礼を受ける。火薬の原料である硝石を自分だけに届けるよう要請

・ヴァリニャーノ(1539-1606) 巡察使

 パドヴァ大学を卒業 女性に重症を負わせた後、苦業用のシャツを着て、模範的となった。

 1566イエズス会に入る

 1573東インド巡察使となる(34歳の若さで) ポルトガルの聖職者は不満を抱いた

 日本は、外国人が支配していけるような国ではない。日本の教会の統括を日本人に委ねる

 日本在住バテレン礼法心得を作成(宗麟の協力を得て)

・順応の困難

 当時、ヨーロッパとの交信に、往復約6年の歳月を要した。往で3年、復で3年。

 1582キリシタン大名の少年使節派遣を思いついた

・長崎の開港

 1570長崎が貿易港として開港 三方を山に囲まれ、海も深かったので大村純忠に乞うた

 佐賀の龍造寺に抗するため、大村純忠は長崎をイエズス会へ寄進した。詳しい事情は不明

 当時、イエズス会は特定の国家に従属していなかった。

 イエズス会は八年間、領していたが、後に公領となった。初めの六町と隣接地の狭い区域か。

・秀吉とバテレン

1569.05.06 フロイスは信長の面前で、日乘上人と宗論をした。秀吉は討論の場に居合わせた。

1573秀吉は羽柴、1574筑前守を拝命。

1582本能寺の変があった後、大坂城で、天下人となっていた。

 オルガンチーノに対して、天満あたりに、教会敷地を与えた

1585(天正13.07.11) 秀吉は関白の位に就いた この三年前に、ヨーロッパはグレゴリオ暦

03.16ポルトガルのコエリョが巡察使となり、大坂城の秀吉に伺候した。フロイスほかも。

フロイスは、日本ではあまり知られていない自分たちを関白が引見してくれるか心配。

フロイス(ポルトガル)とオルガンチーノ(イタリア)の謁見内容が違っている。 

翌年、二十日以内に国外へ退去せよ

・伴天連追放令

1587.01.27(天正14.12.19)関白秀吉は太政大臣となる豊臣姓を後陽成天皇から賜る

#大友、有馬、大村、高山氏の領内で、領民が領主から強制的に改宗させられた

#神社仏閣が破壊された。

#キリスト教世界では、宗教的寛容は普通には考えられない。

V 新しい事態

・南蛮ブーム

天正15、キリシタンの布教を禁止。しかし、仏教の妨げをしない南蛮人は歓迎。布教と貿易を分離

・バテレンの財産

何ら一定の収入もなく、不動産もない。ポルトガル船(マカオと長崎)が難波すれば、終わり。

・托鉢修道会の渡來

逢坂より西は1543コンパニア(ポルトガル)、東は1584フラテ(スペイン・托鉢修道会)

日本人は、外国人が支配してゆけるような国ではなく、教会も日本人の司牧に委ねばならぬ。

・愛の使途

ゴンサーロ・ガルシーア修道士は、十五、六歳で日本に来て、八年間もイエズス会に奉仕した。日本語は達者であった。乞食僧、裸足、托鉢僧で所持金を持たない。

托鉢修道士たちは、聖者。癩患者を収容所で手当てした。

役人たちも、日本にかくも慈悲深い人がいることは大きい名誉である。

かれらフラーデを見ると、救いと来世があるという声が何処からともなく聞こえてくる。

太閤様はフラーデに対して、色々な宗派があることだから、また一つ別のが出来ても良い。

・長崎西坂の丘

1597.02.05(慶長1.12.19)、二十六人が処刑

1596.10スペイン船サン・フェリーペ号が土佐浦戸に座礁沈没。航海士が、バテレンを派遣し、キリスト教徒をつくり、協力を得て、その後、スペイン軍が攻め込む。

1581以来、スペインのフェリーペ二世がポルトガル国王を兼ねていた。

VI 秀吉から家康へ

・憎悪と反感

 キリストのご受難を知らないキリスト教徒がいた。

 キリスト教徒というのは、ただ地位と富を得、多大の金銭を有することであるというように考えられていた。

 フランシスコ会(清貧、跣足、無学)員が来て、キリストの弟子として来島を味わい、貧しさと賎しさと苦行でキリストの跡を継ぐことであると教えられた。

・バテレンとフラーデ*  フラーデ(スペイン系托鉢修道会)

 ポルトガル(イエズス会)とスペイン(托鉢修道会)の争い

 托鉢修道会員は、ぼろぼろの僧衣をまとい、裸足で乞食同様の姿であった

 癩病患者の友となる。孤児・棄子のために生涯を捧げる修道女

・太閤から内府(だいふ)へ *内府(徳川家康)

 1585-1586大坂城で南蛮ブーム

 1587バテレン追放令

 高山右近を除いて、多くの領主が棄教した。

 1594-1595南蛮ブームで、多くの武士が受洗した

 1598.09秀吉は伏見城で息を引き取る

 西葡(スペイン、ポルトガル)カトリックと英蘭(イギリス、オランダ)プロテスタント

 家康は、両者の争い(異国間)は、我の関知する所にあらず。

・キリシタン最盛期

 平戸の松浦鎮信は重臣や領民に棄教を迫った。領民は続々、亡命したので、今後、圧迫しないと慰留

 慶長4.01.01お護りのサンタマリア 日本の慣習に順応した さもないとキリシタンは仲間外れに

 1600-1604天草の志岐(しき)で画学舎(油繪、銅版画)、工芸(彫刻、楽器)

 中村拓(ひろし)世界地図を研究 ヴァチカンが除かれているのでイエズス会画学舎の制作でない

 オスチア(聖体) 餅オスチア(キリストのパン) 南蛮煎餅(せんべい)

家康とフラーデ

 第一期:1543-1587 布教公認

 第二期:1588-1614  布教黙認

 1587バテレン追放令

 フラーデ(スペイン托鉢修道会)フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会、カルメル会

・慶長使節とソテーロ

 1610 日本船第一号 フィリピン船員をメキシコへ送り返す名目 スペイン航海船員の技術

 1612 日本船第二号 浦賀水道で難破 ソテーロが乗船

  ソテーロ( 1574- 1624) 1603来日し、日本語に熟達 マニラで日本語を学ぶ

 1613.10.28 伊達正宗の家臣・支倉六右衛門外、140-150

 太平洋貿易と航路開拓を成就しようとした。

 北緯36-40度の間を東へ渡航する

 北緯38 伊達領の牡鹿半島月ノ浦

・日本占領計画

 1580-1587長崎はイエズス会の支配下にあった。

 1587バテレン追放令

 1588スペインの無敵艦隊はカレー沖で敗北

・キリシタン禁教令

 1614.02.01(慶長18.12.23)金地院崇伝の文案

 彼のバテレンの徒党、皆、件の政令に反し、神道を嫌疑し、正法を誹謗し、義を殘(そこな)い善を損す。刑人あるを見れば、すなわち欣び載(すなわ)ち奔る。自ら拝し、自ら礼し、是を以て宗の本懐となす。邪法に非ずして、何ぞや。実に神敵佛敵なり。急に禁ぜざれば、後世、必ず国家の患いあらん。殊に号令を司り、之を制せざれば、却って天譴(てんけん)蒙らん。

VII 迫害・殉教・棄教

・国外追放と潜伏

 1614.11.07-11.08 バテレンの大部分(右近ら)が長崎から出帆 37名のバテレンが殉教覚悟で在住

 1614.12.26大坂冬の陣 バテレン達に国外追放

 1615.06大坂夏の陣

 1616.06家康歿

・バテレンの足跡

 ディエゴ・デ・サンフランシスコ(スペイン)

 1612 日本に着く

 1624ソテーロら、長崎で処刑 

 1632.03.10ディエゴ、ローマへ報告書(イエズス会に反駁)最後の便り、以後、消息を絶つ

・対立と抗争 イエズス会(ポルトガル)と托鉢修道会(スペイン)の葛藤

 イエズス会内部でも、巡察師、副管区長がポルトガル人でなく、スペイン人

 イエズス会が、日本の布教を独占している。

 イエズス会が、スペインの托鉢修道会の布教を妨害している。

・潜入・検挙・殉教

 1917、日本各地に755名の信徒がいた(日本語文書) 帆船で片道3年の歳月

 アフリカ沿岸の獰猛(どうもう)な黒人 処刑人たちの悪魔のようなすざましい形相

 ローマのジェス教会 55名の殉教の情景

・転びバテレン

 長崎根元記

 1610 22万人の信徒がいた

 1633フェレイラは長崎で捕らえられ、穴吊り(逆さ吊り)で棄教 後、澤野忠庵と名乗る

 イタリア人キャラは、棄教して岡本三右衛門と名乗った

 ヨーロッパ世界では、言語に絶する異端裁判、魔女裁判による残虐な処刑が続いていた

VII バテレンと日本

・日本人と外来文化

 1587まで、バテレンの布教が公認されていた

 バテレンは日本と中国の貿易を肩代わりした

・キリシタン教義の受容

 お互いに、日本とポルトガル(スペイン)の言語を理解できなかった

 1587秀吉はバテレン追放令を発す

 イエズス会のセミナリオ、コレジオ、ノビシャド 修練機関

 キリスト教は、理解されていない。キリストのご受難を知らない者がいる。三位一体。

 1605不干齋ファビアン(1565-1621)/妙貞問答

 1606林羅山と地球球体説、地動説を主張

 1620不干齋ファビアン(1565-1621/破提宇子(はでうす)

・現代と過去との対話

 1965.10.28パウロ六世 日本の諸宗教を悪魔の教え、信仰の敵 ローマのジェズ教会

 天使が悪魔を踏みつけている彫像。Cames, Fotoques, Amida et Xaca

 カトリック教会は、教外の人々から、独断的、排他的、狂信的、不寛容と批判された。

 「教会は、民族、人種、身分、宗教の違いのために行われた、いかなる差別や圧迫をキリスト教の精神に反するものとして退ける。」

引用参考文献

南蛮のバテレン関係年表

1948(昭和23)岡本良知/天正末に於ける耶蘇会の軍備問題/桃山時代のキリスト教文化

宣教師の内部文書

#イタリア・ローマ、イエズス会文書館(ポルトガル)

#スペイン・セビーリャ、インド綜合文書館(スペイン)

(雁註)宣教師やキリシタン教会の書籍では、自分たちに都合の悪いことは書かれていない。その実態を把握するには、内部文書、つまりイエズス会のマル秘文書を読み解くしか方法がない。日本人、中国人(当時、支那)の人々を野蛮人と書いている。これは支那人が、ポルトガル、スペイン人を南蛮人、南(実は西方)の野蛮人と称したのと好対照である。

1569.07.08 セブー マルティン・デ・ラーダ(アウグスチノ会)中国を征服する計画

1576.06.07 フィリピン デ・サンデ 中国に対して武力制服、軍隊派遣

1580.04.24 フィリピン デ・オルテガ 中国に使節を送る

1580.05.25 フィリピン 中国征服に対する強い意欲

1580.01-1640 スペイン国王フェリペ二世 ポルトガルを併合

1582.05 マカオ ポルトガルが併合され、忠誠を誓うように

・中国では、赤毛の人間が遠方から来て、国を奪うという予言があった

・中国はスペインの使者や贈り物を受け付けない。

・ポルトガル、スペイン人は、占領地域を拡大して、すべてに要塞を築いていく。

・ポルトガル人は、マカオにスペイン人が来るのを警戒していた。

1 生糸の貿易を独占

2 マカオを退去

1582.12.14 マカオ ヴァリニャーノ 中国征服の計画

・スペイン人がルソン島を占拠、以後、マカオの中国人官吏は警戒

アロンソ・サンチェス 中国征服のため、軍事訓練を積んでいる日本を重視する

・日本は武力で征服できない

1583.01.30 マカオ ペドロ・ゴメス 中国の福建の人々は、スペイン人、ルソンなど征服

1583.06.18 マニラ デ・サラサール 

・中国に対する武力制服事業は正当である(デ・サンチェスの中国征服計画をもとに) 

かの野蛮人ども(中国人のこと)

入国と同時に殺されるか、永久に投獄される 

・メキシコ、ペルー、フィリピンに同様に考えてはいけない

・野蛮人ども(中国人)はスペイン人の鉄炮隊を知らない

・中国を武力征服する時、日本のイエズス会の武士集団を利用する

・フィリピンのフランシスコ会が無断で中国に渡った托鉢修道士は間者(かんじゃ)だと確信

1583.06.20 フィリピン総督・ロンキリョが中国征服を計画

8,000人のスペイン兵、10-12艘のガレオン船の艦隊で充分 

#フランシスコ・カブラルFrancisco Cabral、(1529- 1609

戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任者であったが、当時のポルトガル人冒険者の典型のような人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任された。

#ガスパル・コエリョ(1530-1590)が日本に対する軍事行動を企だていた

1549ザビエル(1506-1552)鹿児島

1551ザビエル、京都に赴くが戦乱のため、天皇、將軍も権威がないことを悟り、離日

 広東沖のサンショアン島で病死

1582(天正10)、ヴァリニャーノは九州三侯の少年四人をヨーロッパへ派遣した。

ヴァリニャーノ(1539-1606)はインドで留まり、日本語に通じたメスキータが使節の指導に あった。使節は、リスボア、マドリッド、ローマなど各地で熱狂的[ページ番号]な歓迎を受けた。

1587(天正15.06.19-20)博多で発令、キリスト教宣教師を国外退去を命令(バテレン追放令)

1590(天正18)、インド副王の資格で長崎へ帰国する。

1591(天正19)、聚楽第で、秀吉に謁した。千々石ミゲルは棄教し、他の三名も司祭になったが、 病死、殉死した。

#アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、Alessandro Valignano / Valignani1539 – 1606

安土桃山時代から江戸時代初期の日本を訪れたイエズス会員、カトリック教会の司祭。イエズス会東インド管区の巡察師として活躍し、天正遣欧少年使節派遣を計画・実施した。

1583.06.25 マカオ カブラルがスペイン国王宛(中国征服を強く勧告している)

*ヴァリニャーノにより、カブラルは布教長の職を解かれた

・中国を征服すれば、15千万人の年貢がスペイン国王のものとなる

・中国全土に青銅の弾丸は一つもない。

・中国征服に際し、日本のイエズス会のキリスト教徒が助力するだろう。

・イエズス会のルジェリ羅明堅、リッチ利瑪竇らも力になる。

1584.06.27 マカオ サンチェスが国王宛に送った書簡

・アルカラ、サラマンカで暇つぶしのような無駄な議論より、現地の人々の見解の採用を望む

1584.07.05 マカオ サンチェス、イエズス会(コエリョ宛)中国征服

・説教により、中国人を改宗させることは不可能であるから、武力で制服すべきである。

・メキシコ、ペルーと同様、武力で国土を制服して、改宗させる。

1584.09.17 松浦法印 フィリピン総督宛 スペイン、総督の命令に従う

1585.03.03 有馬 コエリョがセデーニョ宛(フィリピン、イエズス会の上長)

・日本への軍隊派遣を求めた 兵隊、弾薬、大砲、兵隊のための食量、3-4艘のフラガータ船

・日本人を利用して、中国征服をする。

・小西行長、平戸王(松浦)などキリシタン教徒が、中国に対して、武装兵隊を差し向ける

1587 秀吉、バテレン追放令を発する

1588.03.01 マカオ マンリーケ(アウグスチノ会) スペイン国王宛 日本の王達に働き掛ける

・松浦(平戸)、小西行長(ドン・アウグスチン)ら、キリシタン大名の軍事援助が期待できる

キリシタン大名 生年順

・京極高吉(1504-1581) *たかよし

・三ヶ頼照(1516-1575) *サンチョ

・小西隆佐(1520-1593) *棄教

・有馬義貞(1521-1577) *純忠の兄 

・大友宗麟(1530-1857) *フランシスコ 天正遣欧使節の伊東マンショ

・高山飛騨守(1531-1596) *友照

・大村純忠(1533-1587) *ドン・バルトロメオ 天正遣欧使節の中浦ジュリアン

・池田丹後守教正(1540s-1595) *シメアン

・一条兼定(1543-1585) 

・黒田孝高(1546-1604) *よしたか 棄教

・高山右近(1552-1615) *マニラに流される

・蒲生氏郷(1556-1595) *棄教

・小西行長(1558-1600) *切腹を拒否して、斬首

・伊東祐兵(1559-1600) *棄教 すけただ

・細川忠興(1563-1645) *忠興は受洗しない

・細川たま(1563-1600) ガラシャ 忠興の妻

・有馬晴信(1567-1612) *棄教  天正遣欧使節の千々石ミゲル 原マルチノ

・小早川秀包(1567-1601*棄教 ひでかね

・大村喜前(1569-1616)  *棄教 よしあき

秀吉(1537-1598)による宣教師追放令発令の原因

1 イエズス会の日本への領土的野心説

2 キリシタン勢力の本願寺的性格(一向一揆)説

3 キリスト教が日本の国法、伝統、宗教を否定するものであったという日本神国説

4 ポルトガル船の博多湾への廻航拒絶、ポルトガル人の日本人奴隷売買、不品行など

   ポルトガル商人の失策説

5 秀吉側近の施薬院全宗(1528-1596)ら反キリシタン勢力による画策説

6 キリシタン勢力の神社、仏寺破壊など、過激な活動によるものとする説

7 教会領長崎の没収を目的とする説

 *各地の教会は没収、破壊された

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator [浮世絵学]

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酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator 

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