浮世絵学04/外題(懇話会77)_1990松田毅一(1921-1997)/日欧のかけはし、思文閣 http://www.ukiyo-e.co.jp/54365
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1990松田毅一(1921-1997)/日欧のかけはし、思文閣

I 宣教と殉教(p.1)

#ザビエル(1506-1552)の見た日本 イエズス会の世界進出p.3)

1549.08.15(天文18.07.22 阿王(アワン)のジャンクで鹿児島に渡來 新しいイエズス会

・イグナチウス・デ・ロヨラ(1491-1556)とコンパニア(p.4

1534.08.15パリ、モンマルトルの小聖堂で清貧、貞潔、布教 イエズス会を結成 戰う兵士

・ザビエル、ガンジスの彼方へ(p.6) ローマ、ジェズ教会

 アフリカから日本の地域はポルトガル領。

1541.04リスボアからアフリカ喜望峰迂回の航海 

1542.05インド、ゴアに到達。

1545.11ザビエル、マラッカからヨーロッパへ書翰、異教徒で、布教に学問は不必要

1547ザビエル、マラッカでヤジロー他二名に会う。

1549.08.15-1551.11.20 ザビエル、西日本に滞在し、新たな日本人に接し、布教の変更をした。

 日本、イスラム、ユダヤ人がいないので、イエズス会が論破し、折伏できると考えた。

 しかし、地の果てに、ヨーロッパ人に比肩する能力を有する人々がいたことに驚いた

・大論争ー布教か、征服か(p.9

1556イエズス会員、1000名以上いた。

ザビエル、スペイン国王宛、日本に軍事的征服を試みるべきではない

南蛮貿易の利益を得るため、領主の命令でキリシタンになっただけ。

ポルトガルは1480sから、衰退、イエズス会の主流はスペイン人、イタリア人に変わっていた

#キリシタンの殉教p.12

・まえがき キリシタンと称されたのは、ポルトガル語から。

1597.02.05(慶長1.12.19)長崎の西坂で処刑された。スペイン人宣教師、日本人信徒ら26

1951(昭和26)信仰のために殺害された3171名、獄中死は874

・伴天連追放令(p.17

1586(天正14)コエリョが大坂城を訪ねている。その折、秀吉は宣教師が軍事に関わっていることを直接、耳にした。博多湾に大砲を備えた帆船を所有。長崎がイエズス会の所有となっていた。

コエリョ: フィリピン総督に対し、3-4隻のフラガタ船を派遣するようにと依頼

コエリョ:  小西などキリシタン大名に秀吉に敵対せよと勧告したが、誰一人、従わなかった。

1587(天正15)秀吉がバテレン追放令。島津氏討伐の帰路、北九州箱崎で国外追放令

1587(天正15.06.1811カ条、伊勢の神宮文庫だけにある特殊な文書

1587(天正15.06.195カ条、宣教師にも渡されている。

 日本は神国である。

1597.02(慶長1.12)秀吉、宣教師と信徒を処刑

1614.02(慶長18.12)、家康が崇伝にキリシタン禁教令を執筆させた

・二十六聖人殉教(p.22

1596(慶長)サン・フェリーペ号、

 マニラからメキシコ・アカプルコへ向かっていたスペインの巨船

 土佐の浦戸湾で座礁した。秀吉は、船荷を没収。

 水先案内人オランディアはスペインの偉大さを豪語した。

 イエズス会の宣教師は、秀吉に対して、スペイン国、スペイン系宣教師を中傷した。

徳川の禁教令(p.27

1602(慶長7)、マニラから、フランシスコ会8名、ドミニコ会5名、アウグスチノ会3名、渡日

家康、フィリピン総督宛、与が欲すること(貿易)をなし、「予が欲せざること(布教)を行わないように」と書面で通告

家康は、地球儀や世界図で、南蛮の国王が広大な海外領土を征服により獲得している

教会、修道院を没収する。バテレンに対して、追放に処した

1614.02.01(慶長18.12.23)金地院崇伝は、禁教令を秀忠に提出。

 刑人あるを見れば、すなわち欣び、すなわち奔る。自ら拝し、自ら礼し、これを以て宗の本懐となす。処刑塲にいたキリシタンが処刑者の霊魂のために祈った。これが誤解された。

・大追放と元和の迫害(p.31

宣教師(司祭と修道士)144名、そのうち90名が国外退去

信徒(イエズス会ほか)は25万人以上

ローマのジェズ教会、三幅の日本殉教図がある。

・拷問・投獄・処刑(p.36

1615(元和1)帰国して布教していたトマス荒木、逮捕され牢屋に入れられ、三週間後に棄教

棄教しない信徒は獄死、火刑、

・寛永の大迫害(p.41

 家光が將軍、翌年から寛永 弾圧は過酷さを増した キリシタンは津軽、松前に流浪

 1624(寛永1)秋田藩で、109名の殉教者 

 1627(寛永4)雲仙岳の熱湯責めは凄惨を極めた。

 1629(寛永6

 1633(寛永10)フェレイラが逆さ吊りの拷問に堪えかねて信仰を棄てた。後、澤野忠庵となる

・殉教者たち(p.46

 オルファネール(1578-1621)、火刑により殉教。記録は1633、マドリッドで刊行。ドメニコ会

 デ・アンゲリス(1568-1623)札の辻で火刑。イエズス会、

 ソテロ(1574-1624)大村の放虎原(ほうこばる)で処刑。フランシスコ会

 ヴィエイラ(1573-1634)逆さ吊り、後、焚殺 イエズス会

 アゴスティン(1601-1637)穴吊り 日本人司祭 アウグスチノ会

 デ・サンフランシスコ(1570s-1632-

 岐部ペドロ(1587-1639) 転び申さず候、吊し殺され候。豊後生まれ、イエズス会

・殉教史の終末(p.51)

 島原・天草の乱(1637.07-1638.04) 

 松倉勝家(1597-1638) 島原藩 原城に37,000人が立て籠った 大名として異例の斬首刑

 寺澤堅高(1609-1647) 天草領没収で、自殺 唐津藩 天草藩 かたたか

・歴史的回顧(p.56

1、キリシタンの殉教は、最大の迫害 ヨーロッパの宗教裁判の処刑者は数十万から数百万人

2、神社仏閣を破壊したため、厳禁された

31965、ローマ法王

「信教の自由に関する宣言」真理そのものの力によらなければ、義務を負わせない

「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度」諸宗教の社会的、文化的価値を認め、推進する

 教会は、民族や人種、身分や宗教の違いのために行われたいかなる差別や圧迫をも、キリストの精神に反するものとして退ける

#京都のキリシタンと史跡p.62

ミヤコ(京都)の賛辞

1577.09.29オルガンティーノ(伊)、ローマイエズス会宛 かれらを野蛮人などと考えてはいけない。これほど聡明で、明敏な人々はいない 他の同僚は九州しか知らない。ミヤコと周辺。

ミヤコは9万人。リスボアより大きい。

南蛮人伴天連の来往(p.64) *来住

1543(天文12)ポルトガル人が種子島へ来着

1549夏、ザビエル、鹿児島に来た。

1551.01(天文19.12)ミヤコに辿り付いた。天皇は威信を欠き、將軍は洛外に追われていた。応仁の乱、復興していなかった。11日間、ミヤコにいたが、九州に立ち去った。

ヴィレラ(1525-1572)、イエズス会 

1559四条坊姥柳待ち(うばやなぎちょう)に地所を得て南蛮寺を建てる。

フロイス(1532-1597

1565.02.01(永禄8.01.01)入京する フロイス/日本史

・南蛮寺(p.66

1576.08.15(天正4)姥柳町に三階建ての教会建設準備 *扇面図 1578竣工

南蛮寺の鐘、妙心寺塔頭春光員 十字、IHS 、三本の釘 1577 各地を転々とした

・本能寺の変(p.68

1569(永禄12)信長はフロイスを工事中の二条城に呼び、堀橋で会う。

本能寺と南蛮寺は100メートルほど。

1582.6.21(天正10.6.02)信長の背中に矢が刺さる。腕に弾創を受け、部屋に入り、戸を閉じた。

その名を聞いただけで戦慄した人(信長)が、毛髪も残らず灰燼に帰した(カリオンの記事)

・豊臣秀吉とキリシタン宗門(p.69

秀吉の家臣、キリシタン大名

小西立佐(1530s-1592)

黒田官兵衛孝高(1546-1604

小西行長(1558-1600

高山右近(1553-1614

蒲生氏郷(1556-1595

1587(天正15)まで、キリシタンに好意を示していた

1591(天正19)インド副王使節としてヴァリニャーノ、日本人青年連れて上京 *8年の長旅

随員2人を含め6人 洋楽器を演奏、秀吉は三度も繰り返して演奏させた。

1592(天正20)秀吉、北九州の名護屋に大本営を設置。上方の画家が長崎を訪ね、南蛮屏風作成

1596.2.05(慶長1.12.19)長崎の西坂の丘で処刑(26名)*6名のスペイン人

フランシスコ会 托鉢修道会 *アッシジの聖フランチェスコ 托鉢極貧の生活

・キリシタンの墓(p.72

1614(慶長19)秀吉の晩年、7000名ほど

大正7、浄光寺(廃寺)境内の墓碑 

1603.08.05:慶長八年六月廿八日 音はのはうろ 雪のさんたまりやの祝日

(雁註)雪のさんたまりあ *この奇蹟に関する歴史記録が出現していない 

・ダイウス町(p.74)

デスス 大臼(だいうす)

1612以降、迫害は激烈苛酷を極めた

・京都のキリシタン代表(p.76

1588ローマ・イエズス会

1617(元和3.08.1175名の信徒の連署

1619.10.06(元和5.8.29)殉教

1621(元和7.01.02)ヴァチカン図書館 信徒総代の連署

・迫害と殉教(p.78

1614(慶長19)在日宣教師はマニラとマカオに追放された。信徒は検挙され、投獄、処刑。

1633(寛永10.10.29)ポルトガル人司祭が最期

キリシタン灯籠と呼ばれたが、これは誤り。キリシタンと関係ない。

#日本におけるキリシタン宣教師の人員p.81

1614(慶長19)、宣教師の大部分をマニラ、マカオに追放。この頃、150人ほど。

司祭(神父)、修道士、同宿(どうじゅく)またカテキスタ

キリシタン大名、殆どが棄教した。信仰を守ったのは下記の大名

大友宗麟(1530-1587

大村純忠(1533-1587

高山右近(1553-1615

小西行長(1558-1600

II 歴史の遭遇(p.85)

#日本人と西洋人の最初の出会いp.87)

・黄金のチパングを求めて(p.88)

1492コロンブス(コロン)三隻の船で大西洋に乗り出した。

 西へ行けば、ポーロの東方見聞録のインド、チパングへ行ける。

 スペインの征服者(コンキスタドール)は、カリブ海、中・南米の原住民を殺戮した。

 アステカ、インカ両大国も滅ぼされた。

1552ラス・カサス(スペインの修道僧)、ここ40年間にキリスト教徒の暴挙によりインディオは200万人以上も虐殺されたとスペイン国王カルロス一世に提出。

・ザビエルの勧告(p.89) 日本はスペイン人の征服すべきところにあらずと勧告した。

・おくれた日本への到着(p.90)トルデシリャス条約 日本はポルトガルとスペイン両方の境界線

・マルコポーロ以前 

 プラノ・カルピニ(1182-1252)(イタリア) 

 ルブルグ(1215-1255-)(フランス)モンゴルを訪ねた

・カーン軍の遠征失敗(p.91) 大嵐で、日本征服に失敗

・種子島への上陸(p.91) 

1513ポルトガル、南支那

1521スペイン、フィリピン群島着。

・小笠原諸島の発見(p.92

1543デ・ラ・トルレ(西)、小笠原諸島をアルソビスポ諸島と命名

1543.09.23(天文12.08.25)ポルトガル人数名が門倉岬の浜辺に上陸、鉄炮が齎(もたら)された

・ポルトガル人の日本認識(p.93)中国人から日本ジッポンという島口に聞知った。

・開きのあるおたがいの評価(p.93

・南蛮人との交易

ポルトガルは、中国から絹織物を日本へ、日本から銀を支那に輸送して、莫大な利益をあげた。

中国人、天竺人(インド、シャム)以外の人々、南蛮人と称した。 

面体のすさまじきこと(p.94

 さながら、天狗とも見越し入道とも名のつけられぬもの鼻の高きこと、栄螺殻のいぼのなきをすいつけたるに似たり荒天狗と申とも、かようにはあるまじきと人、皆申しあえり

(雁註)南蛮のポルトガル、スペイン人を天狗と表現している。これで思い出すのは、宮本武藏(1584?-1645)の剣法である。異国人から剣法を学んだとある。1600s-1610sに、武藏はバテレンから剣法を学んだ。武藏は天狗僧正に剣法を学んだという伝承を裏付けている。つまり日本刀を突き刺す剣法、つまりフェンシングである。甲冑を着ていると、斬ることは難しい。しかし突き刺せば、どの場合にでも致命傷を与える。武藏は、これまでの斬る剣法から、突き刺す剣法へと発展させたのである。

交わってすこぶる感じがよい(p.95

1547アルバレス、ザビエルにヤジロウほか二名の日本人を連れて紹介した

 ジョルジュ・アルバレス(ポルトガルの船長)、ザビエルに日本に関する報告書を書いた。

 首都ミヤコから、見出した限りの地域で同一の言葉が用いられている。

1549ザビエル、鹿児島に着

 日本人は、相対的に良い性質を有し、悪意がなく、交わってすこぶる感じがよい。彼らの名誉心は特別に共立で、彼らにとっては名誉が全てである。日本人はたいて貧乏である。しかし、武士、平民ともに、貧乏を恥辱だと思っているもいない(アルーベ師、土井氏訳)

・印象の背後にあるもの(p.96

 西洋人は、これまで未開人と接していた。その比較で評価している。

#為政者の対応がもたらしたもの

・キリシタン弾圧の誘因(p.96)

1)布教と貿易、日本の為政者は布教を厳禁し、南蛮貿易も拒否した

 宣教師は、征服により日本を支配しようとした。これまで、ゴア、マラッカ、マカオ、マニラなど要塞化した都市、島嶼を手に入れようと企てた。このためキリシタン宗門弾圧となった。

・征服者となった人たち(p.97)

2)スペイン人は征服者(コンキスタドール)、中南米で残虐の限りを尽した

・日本人の僥倖*p.98) *ぎょうこう

1519コルテス(スペイン)の軍勢は、アステカを破壊。インカ、フィリピンを征服。

・日本人への恐れと鎖国の効用(p.99)

3)フィリピン、メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)

 日本人が航海術を修得して、大海に乗り出してくることを恐れた。

 オランダ、中国の二カ国だけ貿易を許可した。

 海外への軍事的経済的進出を断念し、鎖国によって多大の利益を自国民に齎(もたら)した。

#日本・スペイン交渉史話p.101)

sペインは西廻り、ポルトガルは東廻りで、大航海の探検、征服を開始した。

イタリア人が多くいたが、これはスペインがイタリア地方に大小の領国を所有していたから。

1543スペイン船サン・ファン号(船長トルレ)が小笠原諸島を発見、命名(アルソビス諸島)

幕末にスペインは領有権を放棄したため、日本の領土となった。

ポルトガルはインドのゴア、マカオから長崎へ。中継貿易で利益を上げた。

スペインはノビスパニア(メキシコ)のアカプルコとフィリピン、北上して金華山から東航した

ヴァリニャーノ、日本人の儀礼と風習は他の国民と甚だしく異なっている。反対の世界である。

食事、衣服、儀式、言語、交際、座り方、建築反対

フロイス/日欧風習対照論 611カ条を列挙した

1580ポルトガル王家の継承者が絶えたので、スペイン国王フェリーベ二世が王位を継承

 一人の君主が、両国の王位についた。

1641ポルトガル人の国王が王位に就く ポルトガル政府はスペインのマドリードにあった。

 フェリーペ(スペイン王、ポルトガル王)は天正遣欧使節を謁見した。

日本はポルトガルと関係が深いが、日本関係史料は、スペインに多く存在する。

1582(天正10-1590(天正188年と5ヶ月、天正少年使節が長崎から出港

 ヴァリニャーノ宣教師が企画した。この使節は、ヨーロッパで日本ブームを引き起こした。

秀吉はフィリピン総督・ダスマリニャスを威嚇した。フィリピン(スペイン)は世界中に多くの領土を持っていて、フィリピンは一部に過ぎない。スペインの托鉢修道会が来日した。日本の布教禁止を無視した。26名が長崎で磔刑となった。

1592-1595(文禄)南蛮ブーム 

テンプラ、コンペイトウ、カルメラ、ボーロ、サラサ、ジパン、メリヤス、ラシャ、カッパ、マント、モール、ボタン、ベンガラ、カルサン、タバオ、カルタ、ビードロ、ベランダ、オルガン、ランビキ(蒸溜器)、牛肉のすき焼きなど

家康、洋式船を建造して、ノビスパニア(メキシコ)との太平洋貿易を計画。しかし、スペイン人の船員の協力なしには不可能。スペインは協力しない。

慶長遣欧使節 政宗の家臣、支倉六右衛門(死刑囚の息子)のスペイン、ローマへの使節

実はソテーロ。イエズス会はソテーロの陰謀をスペインに報告。180名の船出で、ローマに達したのは20名。スペインを離れる時、数名であった。

サンタ・カタリナ、(サンフランシスコ会)、幕府から冷遇された。スペインをアメリカ、アフリカの土人と同じと思っている。交渉を止めるべきであると進言。

#信長をとりまく国際的環境p.113

秀吉、ポルトガル、スペインの宣教師は表向き、布教であるが、目的は征服であると信長に進言。

信長、あれほど遠方から日本征服を企てる軍勢を派遣してくることはないと答えた。

ポルトガル、スペインは、強制的布教手段をとるようになる。

1512ポルトガル、香料諸島(ニューギニア、西イリアン、スラウエシ)

1517南支那海の珠江河口

1519マガリャンイス(マゼラン)(ポ)、スペイン艦隊、南アメリカ南端から太平洋、110日間で、フィリピン

コルテス、アステカを滅ぼす

ピサロ、インカ帝国を滅ぼす

1529サラゴサ条約で、香料諸島はポルトガル領となる。

1542、デ・ラス・カサス(修道司祭)、スペイン人はインディオに残虐行為を重ねていると告発

1550スペイン、ヴァリャドリードで、ラス・カサスはカルロス王の前で、征服、暴虐を許されぬ行為として議論展開した。

1580-1581、ドレーク(イギリス)が世界周航

1580(天正8.4.27)大村純忠、喜前親子が連名で、イエズス会に長崎と茂木を譲渡した

(松田)信長は遠隔の地で、この件について知らなかった。

1587秀吉、長崎をイエズス会から没収。

1640、ポルトガル、独自の国王を選び、スペインの支配を抜け出した。共通の国王を仰いでいた。

小笠原諸島は、ブニンという名前であった。無人(ぶにん)、これは日本に属する。

#大坂冬・夏の陣とヨーロッパ人p.125)

・「大王」家康

1600.04.29(慶長5)豊後の佐志生、リーフデ号(オ)が漂着。オランダ人の他、アダムス

1600.05.22アダムズ、大坂城に赴き、大王(家康)に会う。

スペイン、ポルトガルは、家康を内府(だいふ)、皇帝。

・相互の利害と憎悪(p.127)

ポルトガル(イエズス会)とスペイン(托鉢修道会)は争った。

1609オランダ商船 *1581オランダはスペイン領ネーデルランド北部七州が独立を宣言

1613イギリス商船、平戸に来る

・禁令の直後に(p.129)

1614.2.01(慶長18.12.23)金地院崇伝(1569-1633)、禁教令 津軽へ流刑

 ここにキリシタンの徒党、適々日本に来る、つとに商船を渡して資材を通ずるのみにあらず、みだりに邪法を弘め正宗を惑わし、以て域中の政号を改め、己の有となさんと欲す、これ大禍の萌しなり。制せざるあるべからず云々。

11.07長崎から、三隻はマカオ

11.08長崎から、二隻はマニラ

 高山右近(1553-1615)マニラ

 内藤如安(1550-1626)マニラ

・種々のヨーロッパ人の記録(p.131)

アヴィラ・ヒロン/日本王国記 スペインの商人が記録

1594来日

1607-1619日本に滞在、消息を絶つ

・戦争準備の奸計(p.133)

家康はイギリスからカルベリン砲四門、セーカー砲一門、鉛600本を購入した

・大坂への期待とは(p.135) 

 秀頼、夏の陣で自害する

 カトリック(ポルトガル、スペイン)豊臣

 プロテスタント(オランダ、イギリス)徳川

 

・落城の後に(p.137

1615.06.03(慶長20.05.7)、徳川勢が、大坂城に侵攻、秀頼と淀君は自害

明石掃部(?-1582–1618)豊臣

スペイン、キリシタン宗門を弾圧するので、交渉は意味がないと関係を絶った

イギリス、戦後7年ほどで、オランダとの競争に嫌気がさし、撤退

ポルトガル、マカオの存亡に関わる長崎貿易にシガミツクが、鎖国で日本へ渡航できなくなる

#慶長元和遣欧使節伊達正宗と支倉六右衛門p.140

慶長元和遣欧使節 

・偏見と誤解だらけの通説(p.141*ソテーロ、半狂僧の傀儡

支倉六右衛門、スペイン王フェリーペ三世に謁見 洗礼を受ける

支倉、ソテーロ、ローマでは冷遇され、追放されるようにセビリヤを離れた

1615アマチ/日本奥州王国 1615.08-1616.01、アマチは同行していて正確。前後は事実と違う。

支倉はじめ、日本人は誰もスペイン語を解しなかった。

1620(元和8)、支倉、日本に帰国した。その後、消息不明

1622(元和8)ソテーロ、フィリピンから日本へ入国、捕られられ、1624肥前で火刑

・支倉とかいう男の正体(p.145

1)政宗でなく、家康、秀忠が計画

1610.01.22(慶長14.12.28)出発が延引した

1610.06.24(慶長15.05.04)ムニョースとソテーロ

2)支倉の素性、晩年、不明 常長の名、確認できない

支倉六右衛門は、窃盗を働き、斬首された家臣(支倉飛騨)の息子

1619.11.30アンジェリス、支倉とかいう男

*スペイン王、ローマ法王に派遣するには、あまりに低い身分

・政宗は派遣使節の単なる脇役(p.148

3)アンジェリス、ソテーロに書きたいことを書かせた。

 (雁註)それならば、何故、訂正しなかったか。

4)造船は政宗が自力でできるような事業ではなかった。幕府との協議で、協力で可能

世界地図、地球儀が齎されていて、スペインが何処にあるかも判明していた

政宗の財力は、困窮していて、幕府に銀千貫文、借用していた。

・野心家ソテーロ(1574-1624)の一人芝居(p.150)

ローマまで赴いたのは、伊達家の家臣でなく、ソテーロが連れて行った人々。しかも携行した書類も、伊達家と無関係のもの。つまりソテーロの一人芝居。

・使節に待ち受けていた悲劇(p.154

スペインから追放されるようにヨーロッパ、メキシコを経てマニラへ至った。

1620.09.22(元和6.08.26)、支倉六右衛門、南蛮より帰国(伊達家古記録・真山記)

政宗は、キリシタン迫害者となっていた。家康、秀忠、政宗がどのように話しあっていたか不明

牡鹿(おじか)半島から出帆すれば、北太平洋海流と偏西風で楽にメキシコへ着く。

#長崎と異国文化p.156

長崎、オランダ人、中国人が居住

1、稲佐山(西の方)

2、立山忠霊塔布巾のホテル展望所

3、風頭山(かぜからしやま)のホテル(東の方)

*長崎、坂が多い

1570(元亀1)ポルトガル船が入港

1590(天正18)ヨーロッパから伊東マンショら少年使節が八年ぶりに帰ってきた。

1592秀吉、朝鮮へ出兵。北九州・名護屋に大本営を設置。南蛮ブーム、南蛮屏風

1634(寛永11)出島(4000坪の埋立地)、オランダ商館

おくんち、諏訪神社

アニオーさんの行列(安南に由来)

蛇踊り(唐人)

紙鳶(はた)揚げ

ぺーロン競争

卓袱(しっぽく)料理(中華料理)

III 南蛮人の見た日本(p.169)

#異国人の目に映った日本の旅p.171) *骸骨のような日本地図 近畿から北は未調査

ラングレン/東インド図 *1596リンスホーテン(1563-1611)/東方案内記に掲載

・ルイス・フロイス(1532-1597)(p.170)ポルトガル

 信長、安土とミヤコの陸路十四里に五、六畳の幅の道路を造った。両側に樹木、休息の家、安全な秩序と設備を統治下の多数の諸國において実施した。巨費で瀬田橋を造った。ミヤコと大津の山地を切り開いた。

・エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)(p.173) オランダ 博物学、薬学 83日で往復

1690(元禄3)来日。*幕末まで長崎から江戸参府、166回 *往復、通常三ヶ月

*肥え溜の臭気が酷く、不快になった。*用便の際も、監視人が付いてくる。*品川の刑場、放置された屍体を大きい犬が喰い、回りに小犬と鳥もいた。 

・ツンベリー(1743-1828)(p.175)オランダ *出身、スウエーデン 植物学者

1775(安永4)長崎着 官憲がバタビアからもたらした卵まで割った。異国人に警戒

日本ほど快適な道路はなかった。道路に、行政官の名が刻まれて遺されていない

馬車が用いられていない。駕籠で、道路の破損が少ないのだろう。

・シーボルト(1796-1866)(p.176)オランダ

1826(文政9.01.09)長崎発 随行員は、旅路を急がせた。

身分の低い人ほど、気まま足任せに旅をしていた。東海道では駕舁が熟練して船酔いにならない

#フロイスが描いた幻の安土城p.179)

・信長百年祭の安土

1582.06.21(天正10.06.02)信長(1534-1582)、本能寺で非業の最期 仏式では400回忌1981(昭和56)。その年を一年として数えるので、399を加える。1582+399=1981西欧では1982(昭和57)であるべき。

・安土城をめぐる論争

1、天守指図は信長公記で創作したもの(三鬼清一郎)

2、江戸期に創作された(西和夫)

・天守指図(静嘉堂)への疑問

「吹き抜け」がヨーロッパ建築の影響と認め難い。

「宝塔」(指図)があったならば、フロイスが記録しているはず。従って、理解できない

内藤昌、天守指図を安土城のものとして復元図を掲載。(反論に答えていない)

・フロイス(1532-1597)の描いた安土城

特別の一つの石は、六、七千人が引いた。一度、少し片側へ滑り出たとき、その下で、百五十人以上が下敷きとなり、圧し潰され砕かれた。

・ヨーロッパを超える城

城の真ん中に、テンシュ(天主、天守)と呼ぶ塔があった。七層ごとに、色分けされている

屋根に怪人頭が置かれている。

・幻の信長の宮殿

主要な壁は、鉄で掩われている。布告を出し、何びとも幾日からの間、自由に宮殿と城を見物できる許可を与え、入場を認めた。群衆は後を断たず、一同を驚嘆せしめた。住民は6000人ほど。

安土山の写真、山麓に諸侯、諸將の邸宅が築かれて、上部に向かって重なり合うよう建てられた

・宣教師たちの夢

1559(永禄2)信長、二条城の工事現場で、フロイスに会い、気に入った。

1580(天正8.04)イエズス会、教会、修道院、セミナリオを設置するため、地所の下付を請うた。

1581(天正9)信長(1534-1582)、ヴァリニャーノ(1539-1606)に安土城図屏風を贈り物とした。*正親町天皇(1517-1593)の要請も断わった。現在、行方不明

#ヨーロッパ人の見た大坂p.191)

・ヨーロッパ人と大坂 

 ポルトガル人:アメリカ、インドを経て日本

 スペイン人:メキシコからフィリピンに来て、日本の沖を通ってメキシコへ戻る

 イタリア人:船乗りの多くはイタリア人。コロンブスもイタリア出身。

 1543ポルトガル人三人が、種子島の南、門倉岬の東へ漂着

 1549ザビエル(1506-1552)、鹿児島へ上陸 

 堺の住吉神社(旅所)境内で酷く虐められた(記録にある)

 後奈良天皇(1497-1557)は落ちぶれていた

 松永久秀(1510-1577)三好長慶(1522-1564)は義輝を追い出す

 信長(1534-1582

 足利義輝(1536-1565)、京都の外へ逃げていた

 京都に十一日間、滞在しただけで京都をあとにした。

 1600オランダのリーフデ号、イギリス人ウイリアム・アダムス

 1609オランダは、平戸に貿易償還。

 1613イギリスは平戸に貿易商館 利益が少ないので、1624引き上げる

 1639ポルトガル船の入港禁止

ガスパル・ヴィレラ(1525-1572

 1559口がきけない唖(おし)に偽装して、大坂を通過 一向宗(石山本願寺の顕如上人)

 顕如上人(1543-1592

 ローマ字で、「おおざか」

 1571ドラードの描いた地図 OZACA

ルイス・フロイス(1532-1597)(65

 156331)日本に来た

 日本史の原稿はマカオのイエズス会の修道院に保管。焼けたが、複写があった。

 これらの複写は、世界の彼方此方を転々とした。

 1565京都に向かった 豊後から40日掛かり、堺に上陸

 1565.01.29(永禄7.12.27)大坂が全部焼けた

1570.10.01-1580.09.10(元亀1.09.12-天正8.08.02

信長と石山本願寺(浄土真宗)、大坂本願寺合戰

 天王寺 「てんのうじ」 (てんおうじ)が焼けた 

 1583.09.09-09.22

 オルガンチーノは、土地を貰った(秀吉が大坂城の普請を始める前) 高山右近の忠告

 天満橋のほとり

 1977-1980松田毅一(訳)フロイス1583-1594(執筆)日本史 全12 ザビエル以後の50年間

1582.10.05ローマ法王グレゴリオ13世、ユリウス暦グレゴリオ暦

 10.05→10.1510日間カットした

・秀吉(1537-1598)と大坂城(p.206) バテレンは大坂城建築を毎日、見ていた

 堺の町、毎日200艘の船で石を運ぶ 1000艘以上の船が行き交いした 

 大坂城は八階:諸侯・諸武士は苦しさのあまり、切腹、自殺するものもいた。

 キリシタンは主君を裏切らない。秀吉は側近にキリシタンを置いていた

 高山右近、小西隆佐、小西弥九郎(行長)、安威五左衛門了佐

 小牧・長久手の合戰(二重堀) 秀吉と家康の対陣

 この後、大坂へ戻った武士がキリシタンに改宗

 蒲生氏郷、黒田官兵衛孝高、瀬田左馬丞、牧村長兵衛らも改宗

 北政所の侍女ら、マグダレイナ(おきゃくじんさま)キリシタンになった。キリシタンブーム

 キリシタンでない婦人も、マリア、ジョアンナとか、キリスト教名を付けた。

 1586.05.04(天正14.03.16)コエリョがフロイスを伴い、大坂城へ

 1586.05.23(天正14.04.05)大友宗麟も大坂城へ来ている

 秀吉に対して、薩摩の島津を征伐してくださいとの御願い

 1587(天正15)バテレン追放令 *コエリョ、博多でフスタ船を停泊させていた

 1588(天正16)宣教師は日本から退去

 細川ガラシャ(光秀の娘) 宣教師はモンスター(超人的な女性)と呼ぶ

 火薬を捲いて、遺骸は灰と化した。小笠原少齋が忠興の命令で、ガラシャを刎ねた

 1596 フランシスコ会修道士ほか26名が長崎で処刑された

 1597(慶長2)明ミン、使節は象を連れてきた。象が膝まづき、鼻を上げて挨拶した

 象の名前、ドンペドロ

 1612ヴィスカイーノ(スペイン):大坂城で秀頼に会っている(非常に太って歎かわしい)

 

 1613(慶長18.08.15)ヴァチカン、大坂の貧しい多くのキリシタンの洗礼名

 大坂城の側に多くの宣教師がいたので、滅亡の時の記録が残っている。

 大坂夏の陣で滅亡 大坂が燃えた、巨大な建物、天守閣、火薬庫に火がついて、天守空中に飛び上がり、大爆音と共に破裂した。九万軒を数えた大坂の市(まち)が火の海と化した。

 1691-1692ケンペル(1691-1692) 大坂は悦楽と娯楽の世界的な劇場

・家康時代の大坂(p.216) *家康はズバヌケタ行動をしている

 1598秀吉は伏見城で息をひきとる

 リーフデ号(オランダ船)、豊後に流れ着く。

 家康は、直ぐ、遣いを豊後へやり大坂へ来るよう命令

 オランダはスペインから反乱して東洋へ五隻の船を派遣した。

 ウイリアムアダムス、ヤンヨーステン

 地図を見せて、マゼラン海峡を通って、太平洋を横断して日本へ来た

 

#南蛮のバテレンと茶の湯p.228)

 ヴァリニャーノ(1539-1606) 布教活動に茶の湯を無視できない。

 古田織部(1543-1615) *キリシタンではなかった

 牧村兵部(1546-1593

 瀬田掃部(1548-1595

 高山右近(1553-1615) 

 蒲生氏郷(1556-1595

 細川三齋(忠興)(1563-1646)の妻、玉(たま)の洗礼名、はガラシャ(1563-1600

  グラシャス(感謝)

 芝山監物(-1578-1588-

日比谷了珪(?-1561-1564-) 洗礼名は了五(りょうご)

 了珪の女聟・宗札は無実の罪で大坂で処刑された。処刑の目的は、秀吉が宗札所有の水墨画「玉澗枯木」を没収するためであった。

 了珪と同じ町内の道察も、秀吉から茶の道具を没収された。

 小西隆佐( -1592)の長男、如清ベントは父譲りの豪華な茶器を秀吉に贈った。

 堺の政所の後任者となった。秀吉の茶器は、隆佐が管理していた。

ジョアン・ロドリゲス・ツヅ(1561-1633)は茶の湯に精通していた。

 同名の司祭(ジョアン・ジラン・ロドリゲス (1559-1629)と区別してツズ(通事の意)

 157616)来日し、イエズス会に入った

 1620-日本教会史 *フロイスの日本総論(未発見)を吸収した。

IV 史料と史論(p.241) ロカ岬 カモインス(1524-1580)、「ここに地果て海、始まる」

#タバコの日本伝来p.243)

1593(文禄2)秀吉、名護屋で南蛮ブーム

1601.08.02(慶長6.07.04)スペイン托鉢修道会が伏見においてタバコを家康に献上した

 新奇なものとしてある。

1605(慶長10)是ヨリ先キ、煙草渡來シ、是ニ至リテ頗ル行ハル(当代記)

1606(慶長11)タバコを直接、呑み込み、中毒死したため、禁止

1607(慶長12.02) 此頃、タバコト云事有、各行之

1608(慶長13.10) 此二、三カ年ヨリ、タバコト云モノ南蛮船ニ来朝シテ

1603日葡(にっぽ)辞書 26,000

1604日葡辞書補遺 6,800語 合計33,000語 「タバコ」、ない。日本で流布していなかった

#南蛮史料における日本語p.259)

V 南蛮雑話 p.281

キリシタン版 活字印刷機 ローマ字 片仮名、平仮名、漢字 これらの活字を作った

伊曾保のファブラス、平家物語、太平記抜書、和漢朗詠集、日葡辞書、日本大文典

日本文の文書 不可解な文書として雜の部に植物標本と一緒になっていた

漢字で表記されても、発音が分からない

南蛮文書はローマ字で書かれているので、発音が判明する。

Fujinoyama ふじのやま Tenca 天下(てんか) 

Yjirou やじろう 聞き間違えて、あんじろう

Yunoin 湯布院(ゆふのいん) ゆふ「の」いん 後、「の」が脱落

フロイス ローマ字 地名、人名 判明するまで苦労する。

#大坂キリシタン史研究雑話(p.283)

キリシタン集団: 大阪府下では、河内と高槻(高山右近) *右近は仏教を迫害した 

河内の三ヶ(さんが)、若江、八尾

#キヨミズ探訪の記(p.288

1919(大正8)茨木市千提寺(せんだいじ)、キリシタンの遺物が発見された

千提寺の東家 聖母マリア十五玄義図 キヨミズ、シミズ キヨミズ 

#自由都市「堺」の文化(p.291

・バテレンの見た自由都市・堺(p.293) 南蛮屏風は堺でなく、長崎

1549(天文18)ザビエル

 日比屋(櫛屋町)家を訪れた 会合衆(えごうしゅう)という有力市民が市政を動かす

 ヴィレラは、大統領(ドージェ)が権力を掌握しているヴェネチアを想起した 

 堺はヴェネチアのよう

 秀吉は、堺を統治下に置くため、外濠を埋め、町の周囲の大樹を伐採した。

・小西立佐(?-1592)とキリシタン弾圧(p.295

 立佐 ジョウチン。 長男・如清 ベント。次男・行長 アウグスチイノ

 癩病院を建て、教会建設を計画

1587(天正15)秀吉は、キリシタンに迫害を加えた

 関ヶ原以後、小西一族、日比谷一族は、キリシタン弾圧の犠牲となった。

#エヴォラ・リスボア・京都・長岡京を結ぶ秘話(p.297

・ポルトガルにある屏風下張文書(p.297) 下張りを剥がした。墨書き文書は濡らしても大丈夫

#千本閻魔堂の地獄絵(p.301) 

#東博の謎の品(p.304*福知山城堡(じょうほ)出土  *とりで

真鍮製のメダイ

#バテレンの荷札(p.306

「せるそ様の」 「せん◻️如庵様」 一見しただけで真の遺物は判別できる

#南蛮料理(p.309)

・南蛮人の肉食に拒否反応(p.310

・雁もどき、飛竜頭(p.312

・テンプラ、南蛮菓子(p.313

#南蛮人の暦日(p.315

1582.10.05グレゴリオ暦 

#さらば、人力車(p.317

マカオのカモンイス博物館 

#私の藏書整理法(p.321

専門書 分類する必要はなかった

雑事を当日、処理しないではおれない習癖を有する。

#小倉遊亀画伯の踏絵(p.324)

1628-1629(寛永5-6)絵踏 長崎で行われた

#奇縁(p.328)

#高松・松田家四代の記(p332

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator [浮世絵学]

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何か御気付きの点があれば御教示ください。

酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator 

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SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e

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