浮世絵学04/外題(天の浮橋)1849-1852廣重1/天の浮橋(あまのうきはし) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/10396
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2020-08-15現在

◎1849-1852(嘉永5-5)廣重1/天の浮橋(あまのうきはし)

天(あま)は海士(あま)、海の彼方から渡來した意

天の浮橋に、伊弉諾(いざなぎの)尊と伊弉冉(いざなみの)尊がいる。尊(みこと)は、最も神に近い存在を道教で表現する場合に使われている。日本列島の古代、神道(「社」)でも仏教(「寺)でもなく、当時の支那の知識人は、道教(「観」と称する)を重要視していた。北京に白雲観がある。古事記は古い九州王朝に伝わった神話を伝えている。その実態があったことも判明している。「おのころ嶋」も、「のこんの島」として、博多湾にある。その先端に志賀島があり、金印(57AD)も発見されている。

天が原(あまがはら)は海人(かいじん)たちが活躍した、壱岐(いき)にある海岸。天の原(あまのはら)も、同じところであろう。沖の島を御神体とする海の民であり、博多、出雲、釜山(ぷさん)を結ぶ広大な海域が版図であった。陳寿(魏志)によれば、この海人は、南方の人々で、鯨面文身をしている。

金印は「漢の委奴の國王」と彫られ、漢の臣下であったことを示している。その直接の臣下が「委奴(ゐど)國王」である。三宅米吉が「漢の、わの、なの、こくおう」と二段階に理解したが、これは誤り。漢の王が、臣下に直接、印綬した意味は、委奴(ゐど)(ゐぬ)國王と考えるのが筋(すぢ)である。

外題は本朝年歴図会、内題は天の浮橋。

金印(57AD)

漢委奴國王

後漢の劉秀(BC6-57AD)(のち、光武帝)は、委奴(ゐど)の人々が朝貢して、真珠、あこや貝などを齎(もたら)したので、喜び金印を贈った。しかし、委(ゐ)の人々と云っても、現在では意味が分からない。これは当時の篆書で読むと分かる。つまり、委(ゐ)は元(もと)、曲(まがる)意である。しかし、朝貢してきた人が、すべて背中が曲がっていた訳ではあるまい。委(ゐ)の人々の風俗、習慣を見て、初めて「委(ゐ)の人々」と呼んだのである。漢族になかった風習、それは「御辞儀」であった。しかし、御辞儀という習慣も言葉もないので、篆書の「委(ゐ)」、曲がる、頭を垂れる、御辞儀をする意とした。「委」の人々というので、後にイ偏(にんべん)を付けて、「倭」の文字が造られた。音(おん)もワと変化した。委→倭、この順序である。決して、倭→委ではない。

卑弥呼(210s-247)

卑弥呼(ひみか) *魏志・倭人傳に記されている。日本書紀では、卑弥呼の名前を出せないので、神功皇后を捏造している。

239(景初3)難升米(なんしょうまい)を帯方郡、洛陽に派遣している。

243(正始4)伊声キ(いせいき)、掖邪狗(えきやく)が朝貢させた。

247 魏に載斯烏越(さいしうえつ)は派遣し、狗奴との戦いを報告。

陳寿(233-297)/三国志・魏志に「鯨面文身」(げいめんぶんしん)と書かれているから、刺青を施していた。北九州の宗像(むなかた)は、文字通り、胸に刺青を施していた民族である。魏志の著者・陳寿は、倭の人々は元々、南方の人々であろうと述べている。

裴松之(372-451)が、三国志の補注を行っている。陳寿は、司馬遷(BC145-BC110-BC90)(史記の著者)が宮刑に合い、班固(32-92)(漢書の著者)が牢獄で死んでいる。それらを見て、慎重に言葉を選び、三国志を書いた。このため、簡潔すぎて、意味が分かり難い記述が多くあった。陳寿の記述が正確であったことを裏付けていた。

委奴(ゐど、ゐど)の人々、つまり「倭」(わ)が「鯨面文身」の習俗を持っていたことは、アイヌの人々に結び付く。アイヌの人々と倭の人々は同じく南方の習俗を継承している。

アイヌ(倭奴)

これは推測であるが、アイヌの音(おん)は、倭(わ)の人々、つまり「ワイヌ」の名殘(なごり)ではないだろうか。アイヌは人間という意味だそうだ。いま、手元にないが、アイヌ民族志などを見ると、もともと土着、そして東、南、西、北から移動してきた人々と説明があった。この日本列島、すべての人々は大陸から渡來してきた。つまり、日本固有、日本独特の文化というものはない。すべて、その淵源は大陸にあると云って過言ではない。

近畿の古代の三関(さんせき)以東の人々、これが奈良王朝により蝦夷(えみし)と呼ばれていた。もともと日本列島全体に、九州から東まで、委(ゐ)の人々、倭(わ)の人々がいたのである。

*古代の三関は、不破(美濃国、現在の岐阜県不破郡関ケ原町)、鈴鹿(伊勢国、現在の三重県亀山市か)、愛発(越前国、現在の福井県敦賀市内か)。「関東」の名の示すように、関の東、近畿以東は勢力が及んでいなかったことを示している。

磐井(いわい)の君(きみ)

(490s-529)

大陸から侵入した継体王朝(490s-531)が、九州の磐井(490s-529)を滅ぼし、先住民族(南方系の最初に日本列島に渡來した人々)の人々を北へ追いやった。恐らく、大陸からの侵入者は鉄器、従来の先住民族は青銅器である。これでは、勝ち負けはハッキリしている。

何か御気付きの点があれば、御教示ください。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator 

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