浮世絵学02/刊年(支那學・暦法) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/660
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浮世絵学02/刊年(支那學・暦法) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) http://www.ukiyo-e.co.jp/660

 

1982-04-29現在(2022-05-24更新) 

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人) 

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


御案内

G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

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複製・復刻

R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,172項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

 

 

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 


刊年(暦法) *720日本(奈良)で制定した年号 九州年号を簒奪している 大化→もと大和(たいくわ) *大いなる「和」

年号 Japanese Era

年、月日(干支)は、暦法の計算、仕組みを理解することが基本であるが、なかなか難しい。支那學の暦学博士から、指導を受けて、精密な暦学とした。ただ、古代支那では干支で日にちを表しているので、分かり難い。29日、30日で、しかも、閏月(うるうづき)が中気により計算されているので、複雑である。*閏月は中気のない月。

下記の論文を読み、理解できれば大丈夫。相当、難解であるが…

*1946小川清彦/付・日本書紀の暦日に就て 

1972源豊宗/日本美術史年表、座右宝

1975内田正男/日本暦日原典445-1872AD  暦法編  

1977内田正男/日本書紀暦日原典[-666]~697] 

2007藤原 有/史書に記された暦法/超名品図録、巻末

和暦 日本列島では「委奴(ゐど)國」以来、支那暦の元嘉暦443(朔望日29.5305) 儀鳳暦664(朔望日29.5305)を採用。これは太陽暦で補正して計算している。つまり日常は太陰暦(月の満ち欠け、朔望日、29.5308日)、太陽暦(365.24日)で補正。(以下、2007藤原 有/史書に記された暦法/超名品図録、巻末)

1 太初暦(-104年11月の干支指数、月齢一ヶ月=29.5308、太陽暦一ヶ月=30.4375)

2 三統暦(-104年11月の干支指数月齢一ヶ月=29.5308太陽暦一ヶ月=30.4375)、

3 四分暦(-161年11月の干支指数月齢一ヶ月=29.5308太陽暦一ヶ月=30.375)、

4 景初暦(-3809年1月の干支指数月齢一ヶ月=29.5305太陽暦一ヶ月=30.4372)、

5 元嘉暦(443年から5703年前、-5260年1月の干支指数月齢一ヶ月=29.5308太陽暦一ヶ月=30.4372)、

6 戊寅暦(626年から164348年前、-163722の前年、−163723年11月の干支指数、月齢一ヶ月=29.5306、太陽暦一ヶ月=30.4370)、

7 儀鳳暦(663年から269880年前の前年、−269216の前年、-269217の11月の干支指数、月齢一ヶ月=29.5305太陽暦一ヶ月=30.4370)

8 現在の天文学 月齢一ヶ月=29.5303、年(回帰年)365.242195  太陽暦一ヶ月=30.4368

つまり、年月日は、その地域毎(ユダヤ、ギリシャ、中国、キリスト、イスラム)に異なった暦法を使って、恣意的である。地球は一つであるから、地球規模の共通尺度は(実測に基づく計算、現在ではコンピュータで)計算された地球の公転周期365.2564日、月の周期(朔望月)は約29.5である。

#継体王朝(507-533)以前は二倍暦(にばいれき)、つまり一年を二年(春耕・秋収)と数えている。春分、秋分を各々一回づつ数えて、その中間を中元(ちゅうげん)としたからである。つまり逆算して、紀元前666まで遡って記録されているが、実在するのは恐らく、西暦0年頃である。九州志賀島で1784年、発見された金印「漢委奴國王」(かんゐどこくおう)は、57年(光武帝)。この金印、後漢書・東夷伝から明らかなように、九州に漢の臣下である王朝(委奴國、ゐどこく)があったことを示している。

日本書紀の初期天皇の多くが、100歳以上の長命を保っていて、戦前の学者は「捏造」であると否定した。しかし二倍暦と考えれば、半分の50歳。当時としては長命であるが、全く不思議ではない。継体王朝以前は二倍年暦である(古田武彦)

#1975内田正男/日本暦日原典は445(允恭天皇34年)から始まっている。

1972源豊宗/日本美術史年表は、591年(崇峻天皇4年)から始まっている。*美術史で定評のある

1986太田博太郎、山根有三、河北倫明/原色図典 日本美術史年表

*実質的に550欽明朝、古写経・菩薩処胎経(443から記録しているが、銅鏡作品で、503説もある)の奥書。敏達、用明、崇峻、推古の確実な作品はない。615法華経義疏、622天寿国繍帳。舒明、皇極、孝徳期に作品なし。

四分暦-161(29.5308) 元嘉暦443(29.5305) 儀鳳暦66429.5305

*太陽太陰暦(元嘉暦、儀鳳暦とも、現在の天文学、年365.24日で計算されている) 

 暦法が替わっても日の干支は不変暦法が替わると朔の位置が替わる。太陰太陽暦は日を干支で数える。

#倭の五王(宋書)413-502 *倭(わ)、元は委(ゐ)。委の人々という意で、人偏を付して、倭を作字した。

この五王は、九州王朝であることを示している。この時期、奈良王朝は存在しない。奈良王朝は662年以降。

720年に成立した日本書紀(奈良王朝)は、これ以前、つまり紀元前666まで遡り、計算で年号を定めた。全く無関係の継体(507-531)、応神(270-310)、崇神(97BC−30BC)王朝を繋ぎ合わせ、紀元前660sまで遡らせた。しかし662年、九州王朝が白村江で全滅する以前、奈良に王朝は無かった。九州王朝の倭国(都府樓、太宰府)は、57(金印)以降、230s倭国の内乱。450s倭の五王。662年白村江で全滅するまで、倭國は九州王朝であった。奈良王朝は662年以前に存在しなかった。

#1471申 叔舟(-1471-)/海東諸國記

国内の記録は焼却されたが、朝鮮外交官が古代の日本の状況、九州王朝の年号を記録していた。

1604-1608ロドリゲス/日本大文典 (ポルトガル) Arte da Lingoa de Iapam 。これにも、奈良王朝の大化以前の年号、つまり九州王朝の年号が、ポルトガル綴りで記録されている。

#1684(貞享1.10.29)渋川春海(1639-1715)/貞享暦

800余年、使われていた822(長慶2)宣命暦(せんみょうれき)が、実測によると、2日、ズレていた。 

このため、幕府に申請し、三度目に申請が受理されて、貞享暦となった。

=浮世絵学/(支那學・暦法)1684渋川春海/貞享暦 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/52559

その後、1755(寶暦5)、寶暦暦が使われるようになる。

また、その後、寛政暦、天保暦と修正。

明治改暦(明治5.11.09)

#2011年、福岡市西区の元岡古墳群G6号墳から出土した「庚寅」銘文は、570年を刻記している。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」(□は「練」か)の19字が、約12センチにわたり1文字5ミリ四方で刻まれている。表面に細い溝を刻み、中に金属を嵌(は)め込む象嵌(ぞうがん)の技法を用いている。

*「570(庚寅)年正月6日(庚寅)に刀を作った」。「庚寅の年」で、しかも「正月6日が庚寅」である特定年を刻記している。「庚寅の年」は、60年毎に廻ってくるので、510630もある。しかし、510年正月6日は己卯、630年正月6日は壬申であるから、該当しない。つまり、570庚寅の年、正月6日のみが庚寅で該当する。年号が刻印されていたこと、これは北九州に王朝(九州王朝)があったことを示している。何故なら、年号(和暦)は、王朝が制定するからである。

最初の年号とされる奈良王朝の645「大化」(たいくわ)は、662年を契機として、九州王朝の645大和(たいくわ、おおいなる倭の意)を簒奪した年号である。他にも645大化、650白雉、662中元、661-670s白鳳、686朱鳥、695大和の年号は、九州年号を借用したものである。590s推古帝・以降、奈良王朝は多くの女帝を輩出させ、倭の卑弥呼(230s)の継承者かのように見せかけ、神功皇后を書紀に挿入した。推古朝の聖徳太子も実在する事績は全くない。女帝の推古でなく、倭王の阿毎(?あま)、600s多利思北孤(たりしほこ)であり、男である。

(参照)古田武彦/失われた九州王朝(角川文庫)

#浮世絵学04/外題(三国志展、東博)三国志 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)

http://www.ukiyo-e.co.jp/40771

 *何かお気づきの点ございましたら、下記まで御知らせください。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator   浮世絵・酒井好古堂  [浮世絵学] [http://www.ukiyo-e.co.jp] [浮世絵学]文化藝術懇話会    浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678 

E-mail: gankow@gmail.com

 



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