浮世絵学04/2021映画  cimemaキネマ(伊)、 movie, film(アメリカ語) 外題(映画 neorealisimo ネオレアリズモ[伊]) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) http://www.ukiyo-e.co.jp/76284
ホーム > 浮世絵学04/2021映画  cimemaキネマ(伊)、 movie, film(アメリカ語) 外題(映画 neorealisimo ネオレアリズモ[伊]) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) http://www.ukiyo-e.co.jp/76284

浮世絵学04/2021映画  cimemaキネマ(伊)、 movie, film(アメリカ語) 外題(映画 neorealisimo ネオレアリズモ[伊]) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) http://www.ukiyo-e.co.jp/76284

1982-04-29現在(2021-06-30) 浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人) *学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 日本最古の浮世絵専門店

http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit.php?orderby=title&order=asc&s&post_status=all&post_type=post&action=-1&m=0&cat=114&paged=1&action2=-1 ◀️ 御案内

http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit.php?s&post_status=all&post_type=post&action=-1&m=0&cat=105&action2=-1&orderby=title&order=asc ◀️ 複製・復刻

 *The BEST Japanese Traditional Woodblock Prints, Handmade reproduction (adm. by JUM) 

日本浮世絵博物館・監修 *原画から忠実に複製・復刻を再現していて、尤も信頼の置けるもの。

http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit.php?post_status=publish&post_type=post&orderby=title&order=asc       ◀️ 浮世絵学 記事一覧

 

日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

http://www.ukiyo-e.co.jp/category/ukiyo-e-judge-professional-adviser  浮世絵学   すべて

 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints   

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

 

 

2020 SAKAI kunio

*現在、ファックスは使えません。

http://www.ukiyo-e.co.jp/41940 ◀ 浮世絵学_reproduction_複製A0+/復刻 手摺木版

 *The BEST Japanese Traditional Woodblock Prints, Handmade reproduction (adm. by JUM) 

http://www.ukiyo-e.co.jp/category/ukiyo-e-judge-professional-adviser  浮世絵学   すべて

http://www.ukiyo-e.co.jp/69501  ◀ 浮世絵学01/落款(えし)ひらがな五十音順 伝記集成+総目録 

http://www.ukiyo-e.co.jp/56558    G浮世絵学_guide01_御案内 浮世絵・酒井好古堂


2020酒井雁高/映画(film movie neorealismo ネオレアリズモ) *人生は映画から教えられた 

これも、強ち否定は出来ない。neorealismo ネオレアリズモ(伊)*1930s-1940s ファシズム、ナチズムに反発。

チャプリンはイギリス人でイタリアで活躍した訳ではないが、イタリアの映画監督は、殆ど全てチャップリンを土台して、影響を受けている。チャップリンの映画は無声であるが、美味く全編に音楽を流している。

2012CATZ, E.,/The Film ENCYCLOPEDIA 7th edition, Collins 外題(The Film ENCYCLOPEDIA )酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  movieでなく、film 私はインターネットと本書を参考にしている。

http://www.ukiyo-e.co.jp/2588

 

浮世絵学04/2021映画DVDの焼き付け 外題(映画 Videoの焼き付け、複製) 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂) http://www.ukiyo-e.co.jp/76456

知覚の分析

1 聴く 2 話す *1 聴く:間合いを同じく師匠の話しかたを聴き、同じように話す *音楽(テーマ)も重要

3 読む 4 書く *2 読む:これは多くを読み、次第に4 書く技術を学ぶ

5 見る 6 感じる 5 見る(画像):見聞と称して、6 感じる=1+2+3+4+5 すべて入っている。

ある小説家が云っている。映画は小説とは違って、また別の味わい(画像の捕らえかた、画面の切り替え)がある。

小説=3 映画=1(聴く)+2(話す)+3(字幕)+5(見る)+6(感じる)

レアリズモ *チャーリー以外はイタリア

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  Chaplin 1889-1977 

(雁註)若いころのチャップリン、なかなkハンサムである。

 

10128293474.jpg (568×1294)

トレードマーク どた靴にダブダブズボン 

山高帽にステッキ

 

PURVIANCE, Edna(1894-1958)

1923巴里の女性 *エドナ・パービアンス (パーヴァイアンス)  

 

Chaplin_City_Lights_still.jpg (245×350)

1931街の灯(あかり)city lights;

https://duckduckgo.com/?q=%E8%A1%97%E3%81%AE%E7%81%AF&atb=v214-1&iax=videos&ia=videos&iai=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DpKbh7J73NNA

 

Lady Jersey : ニュース写真

 

Virginia Cherrill(1908-1996)

 

Cary Grant with Virginia Cherrill : ニュース写真

* Virginia Cherrrill(1908-1996) Cary Grant

前半生 ヴァージニア・チェリルは1908年4月12日、イリノイ州ハンコック郡カーセッジの農場主ジェームズ・E・チェリルとブランシュ・チェリル(旧姓:ウィルコックス)の間に生まれる[1]。ウィスコンシン州ケノーシャの学校を卒業後、シカゴに出た[2]

ヴァージニアは当初、芸能界には興味を持っていなかったが、のちに『シェーン』の主演を務めたアラン・ラッドの二番目の妻となるスー・キャロル(英語版)と親友になり、後年、その縁が元になってハリウッド映画に出ることとなる。

1925年、ヴァージニアはシカゴで『クイーン・オブ・アーティスト・バル』に選ばれる[1]。興行王フローレンツ・ジークフェルド(英語版)がヴァージニアに接近して舞台に出演するようスカウトを行ったもののヴァージニアはこれを了承しなかった[1]

やがて新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストからの誘いを受けてカリフォルニアに移り、またシカゴ時代に知り合った弁護士のアーヴィング・アドラーとの結婚生活を始めるが、この結婚生活はヴァージニアを失望させるものだった[1]。この時点では、むしろ社交界に軸を置いていた。

映画界 ヴァージニアとチャップリンの出会いには二通りの説がある。1928年夏、アドラーとの結婚が破たんしたヴァージニアはハリウッドに遊びに来ており、ハリウッド・アメリカン・リージョン・スタジアムで行われたボクシングの試合を見に来ていたチャップリンに目をかけられ、チャップリンのスクリーンテストを受けることになった、というもの[3][4]

もう一つはチャップリン自身の弁によるもので、サンタモニカのビーチで水着姿で撮影中のヴァージニアの姿が忘れられず、スクリーンテストへの誘いの電話をかけた、というものである[3][5]。チャップリンはヴァージニアにエドナ・パーヴァイアンスのような雰囲気を感じており、また、ヴァージニア以外の女優にも『街の灯』として結実する新作に登場させる盲目のヒロインの役に必要な「盲目の人間の演技」のテストを行わせたが、ヴァージニアのみが「自然に盲目らしく見せる」ことに成功したこともあって、ヴァージニアが新作のヒロインに選ばれた[3]。ヴァージニアの両親、ジェームズとブランシュはヴァージニアの映画界入りには賛成していなかった[6]

しかし、ここで一つ問題が起こる。ヴァージニアが特にチャップリンを気に入っておらず、チャップリンもまたヴァージニアには好意を持てなかったことで、チャップリン視点でいえば、個人的に好意を寄せていない女優と共演するのは初めてだった[7]。『街の灯』の撮影のうち、ヴァージニア演じる盲目の花売り娘が放浪者と出会うシーンが最初に撮影されたのは1929年1月29日から2月14日の間で、チャップリンがインフルエンザと食中毒で床に臥せっていた期間を挟んで4月1日から10日までの間に一度は撮影されたが、チャップリンは撮り直しを重ねても出来栄えに満足せず、当該シーンの撮影はいったん放置された[8]

半年後の1929年11月ごろから再び当該シーンの撮影が再開されるが、その半年間、ヴァージニアは夜毎にパーティーに出かけたりして退屈をしのぐ日々だった[9]。相変わらずチャップリンはヴァージニアに興味が持てず、気分は散漫になりがちであった。そして、一つの事件が起こる。重要なシーンの撮影を間近に控えたとき、ヴァージニアは「美容室の予約がある」という理由で早退を求め、これを聞いたチャップリンは不満が爆発してヴァージニアとの契約を停止してしまった[10][11]。代わりに『黄金狂時代』でヒロインを務めたジョージア・ヘイルが盲目の花売り娘役を演じることとなり、テストフィルムまで撮られ好評を得たものの、側近の忠告に気持ちがぐらついて気が変わり、別の女優をテストしてみたものの気に入らなかったこともあって、チャップリンは10日後にヴァージニアを復帰させることを決断した[12][13]

ところが、ヴァージニアは週給を停止前の75ドルから倍の150ドルにしてくれたら戻る、最初に契約した時は未成年だったから契約は無効だ、とチャップリンに訴え出る[14]。週給の件は、ハーストの愛人マリオン・デイヴィスの入れ知恵であった[14]。完全に鼻をへし折られた形のチャップリンではあったが、好意という形ではないにせよヴァージニアと仕事をすることにようやく気が向いたのか再契約に応じ、出会いのシーン、花売り娘の家でのシーンおよびラストシーンの撮影が順調に進むこととなった[15]。『街の灯』全体の製作も憑き物が落ちたかのように順調となり、チャップリン自身もこれまでの不安を一気に吹き飛ばしたかのようであった[16]。かくして『街の灯』の撮影は1930年10月30日に終わった[17][18]

(雁註)無声映画であるが、全編に快い音楽が流れている。人間の喜怒哀楽ほかの気持ちを伝えている。完璧主義者のチャップリンは、342回、フィルムを撮影し直している。

『街の灯』の撮影終了後、ヴァージニアはフォックス・フィルム[注釈 1]と契約し、初期のトーキー映画『興奮を求める女子(英語版)』(1931年)では若き日のジョン・ウェインと共演。ジョン・フォード監督の『ザ・ブラット(英語版)』(1931年)にも出演し、ジョージ・ガーシュウィンが音楽を担当したミュージカル映画『デリシャス(英語版)』(1931年)でジャネット・ゲイナーと共演したが、ジェームズ・メイソン[注釈 2]の初期出演作2作のうちの一つである『荒れた海(英語版)』(1936年)への出演が、女優としてのキャリアの最後となった。ヴァージニアは「偉大な女優になる気はなかった」と回想している[2]

 

 

 

Albert_Einstein_and_Charlie_Chaplin_City_Lights_premiere_1931.jpg (1281×1288)

Charlie Chaplin with Albert Einstein at the premiere of City Lights

サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(英: Sir Charles Spencer Chaplin, KBE、1889年4月16日 – 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。 サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。 ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。

 

 

Re-viewing Mizoguchi, Master Choreographer of the Long ...

溝口健二

Kenji Mizoguchi - Wikipedia

MIZOGUCHI 1898-1956 

1953Ugetsu 

溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898-1956)は、日本の映画監督。 女性映画の巨匠 と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。 サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。 完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。 黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。

 

Vittorio De Sica

De Sica 1901-1974       

1946靴みがき; Sciuscia/Shoeshine

1948自転車泥棒, Ladri di Biciclette/The Bicycle Thief

ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica, 1901年7月7日 – 1974年11月13日)は、イタリア出身の映画監督・俳優。

カンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭の最高賞に輝き、アカデミー外国語映画賞も受賞した。俳優としてもアカデミー助演男優賞にノミネートされている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

OZU (1903-0963)

Yasujiro_Ozu_cropped.jpg (273×308)

小津安二郎

 

日本映画史を代表する映画監督・小津安二郎

小津安二郎
 

小津安二郎は1903年12月12日、東京深川生まれの映画監督・脚本家です。小学生の時に父親の故郷、三重県松阪市に移りました。小学校を卒業後、伊勢市の宇治山田中学校へ進学し、この頃に映画と出会います。 特に1917年公開のハリウッド映画『シヴィリゼーション』(監督:トーマス・H・インス)に影響を受け、映画の道を志しました。中学校を卒業後は、尋常小学校の代用教員を1年間務めた後に、先に東京へ戻っていた家族の元に帰郷。1923年に撮影助手として松竹キネマ蒲田撮影所に入社、1927年に時代劇『懺悔の刃』で監督デビューを果たしました。 戦時中、1943年に軍報道部映画班として、南方へ従軍、この地でハリウッド映画を多数鑑賞し、終戦の翌年に帰国しました。戦後は脚本家・野田高梧と組み、茅ケ崎市にある旅館「茅ケ崎館」で脚本を執筆、『晩春』『東京物語』などの名作を次々に発表しました。

 
1位: 世界中の映画人に影響を与えた映画史に残る不滅の名作【1953年】
 
hima_take 上京した老夫婦は実の子供達にはそれぞれ理由があるにせよかまってもらえず。だが、戦死した息子のお嫁さんは何かとお世話をしてくれる…

昔の話と言うより、むしろ現代にありそうな話。今見ても十分に良い映画だと思います。 おススメ!

 
 
amemiyas2 めも。

念願かなってようやく鑑賞。 次女役の香川京子さんも可愛らしいけど、とにかくお若い原節子さんが光っている。 そして杉本春子さんはこういう役が似合う。

前半からも優しい雰囲気が漂う老夫婦なので、後半の展開は泣ける。 「もう終わりかぁ」と繰り返し呟く周吉の表情が、これまたなんとも言えなく哀愁漂っていて切ない。 幸一もしげも、もうすこし優しくしてあげたっていいじゃない!と思いつつも、 私自身の家族への振る舞いを思い返すと、、、笑

2012、英国映画協会(BFI)が発表した「映画監督が選ぶ映画トップ100」で1位に輝いた、世界映画史に残る名作。

広島・尾道に暮らす夫婦、周吉、とみが、子供達を訪ねるために、久しぶりに上京します。しかし、長男も長女も歓待してくれるものの、仕事が忙しく、両親をかまうことができません。

そんな中、老夫婦を慰めたのは戦死した次男の妻、紀子。紀子は仕事を休んで、2人を東京の名所へ案内します。

尾道へ帰郷して間もなく、とみが危篤であると電報が届き、子供達が実家へ着いた翌日に、とみは亡くなります。

紀子以外の子供達は、葬儀が終わると慌ただしく帰ってきいき、周吉は、とみの形見の時計を紀子に贈ります。

映画史上に残る名ラストシーンは必見です。

小津 安二郎(おづ やすじろう、1903- 1963)は、日本の映画監督、脚本家である。日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後まで、約35年にわたるキャリアの中で、

1949晩春、原節子主演

1951麦秋、

1953東京物語

など54本の作品を監督した。

ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界。

親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けた。

黒澤明や溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。

1962、映画人初の日本芸術院会員に選出された。

戦争中、召集され、支那奥地?で、山中貞夫と再会。山中は病気で死ぬ。

帰還後、戦時中のため、軍部に協力するよう締め付けがある。

黒澤の映画は、軍部により酷評された。小津は、黒澤の作品に対して、100点満点で、120点と評価した。

黒澤は後々まで、小津に感謝している。

 

 

 

成瀬 巳喜男

NARUSE( 1905-1969 )

成瀬 巳喜男 *みきお

成瀬は1905年8月20日、東京都四谷区に縫箔職人の父・利三と母・きなの間に二男一女の次男として生まれた。生まれたのが巳年、巳の月、巳の日だったので「巳喜男」と名付けられた。

もともと家が貧しかったため、早く腕に職をつけようと工手学校(現工学院大学)に入るが、父が亡くなって家計が逼迫したことで中退した。1920年、知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社する。1922年頃から池田義信の助監督につく。しかし中々監督には昇進出来ず、後から入社した小津安二郎や清水宏らが入社して3・4年で監督に昇進する中、成瀬もまだ五所平之助の下で指示を受けており、都合10年もの下積み時代を過ごした。

1930年、成瀬は城戸四郎が赤穂春雄名義でシナリオを書いた短篇ナンセンス喜劇映画『チャンバラ夫婦』で監督デビューを果たす。最初は短篇のドタバタ喜劇を手がけていたが、1931年の『腰弁頑張れ』で認められる。その後長篇作品も手がけていき、1932年の『蝕める春』でキネマ旬報ベストテン第6位に選ばれ、期待の若手監督として注目された。翌1933年には『君と別れて』『夜ごとの夢』を発表し、両作ともキネマ旬報ベストテンに選ばれて高い評価を得る。

しかし監督に昇格しても個室も与えられず、他の助監督たちとの大部屋暮らしが続いた。しかも他の監督たちが拒んだ脚本で映画を撮らされ、「これを撮ったら、次は好きなのを撮らせてやる」という約束も何度も反故にされた。そこへ成瀬は東宝の前身であるPCLから引き抜きの話が入り、移籍を決心する。それを知った小津安二郎は「それも良し」と日記に書いている。また成瀬はこの時期、後の東宝で小津の映画を多数製作することになる藤本真澄とも知りあうことになる。

1934年、成瀬は助監督の山本薩夫とともにPCLに移籍して、初トーキー映画『乙女ごころ三人姉妹』(1935年)を監督する。次いで、中野実の戯曲『女優と詩人』と『妻よ薔薇のやうに』(1935年)を監督する。後者は批評家から高い評価を受けて『キネマ旬報』ベスト1に選ばれる。この作品は“Kimiko”という英題で1937年にニューヨークで封切られ、アメリカで興行上映された初の日本映画となった。のちに『女優と詩人』『妻よ薔薇のやうに』の主演女優の千葉早智子と1937年に結婚して長男の隆司が生まれるが、3年後の1940年に離婚した。一人息子の隆司は千葉が引き取って育てた。

大佛次郎原作の『雪崩』(1937年)では黒澤明が助監督を務める。黒澤の自伝には、「成瀬さんにしても、物足りない仕事だったと思うが、それでも、私には得る所が多かった。」の記載がある。戦時下では『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』など「芸道もの」というジャンルで冴えを見せる。

戦争直後は民主主義路線映画『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『春の目ざめ』といった映画の監督を余儀なくされる。同時期に東宝争議によって東宝撮影所の機能が麻痺したため、成瀬も山本嘉次郎、黒澤、谷口千吉らと共に東宝を離れ、映画芸術協会を設立、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督することになる。

1951年、林芙美子原作、原節子と上原謙主演の『めし』が高い評価を受けた。東宝復帰後の1955年に監督した『浮雲』は一般に成瀬の最高傑作とされている。

成瀬は、林原作の『稲妻』『妻』『晩菊』『浮雲』『放浪記』をはじめとして川端康成原作の『舞姫』『山の音』、室生犀星原作の『あにいもうと』『杏っ子』といった純文学作品から、石坂洋次郎原作の『まごころ』『石中先生行状記』『くちづけ』といった大衆作品まで幅広いジャンルにわたる文芸映画を中心に、人間の細やかな情感を何気ないやりとりで描ききった。

成瀬の遺作は1967年、司葉子、加山雄三主演の『乱れ雲』であった。1969年、成瀬は直腸癌のため63歳で没した。なお、成瀬は闘病中に見舞いに訪れた高峰秀子に「白一色の幕を背にして高峰秀子が一人芝居をする」という奇抜な作品の構想を語ったが、ついに実現しなかった。これについては、成瀬と多くの作品でコンビを組んだ名カメラマンの玉井正夫が後年のインタビューで、「その発言は、成瀬さんが死ぬ間際に弱気になっていたからこそ出た言葉ですよ。成瀬さんは、高峰秀子を個人的には好きではなかったですよ」という発言をしている。

成瀬の生誕100周年にあたる2005年には、DVDボックスのリリースや関連書籍の出版、各地の名画座での特集上映などが行われた。

1935妻よ薔薇のように

1951めし

1955浮雲

 

 

Rossellini+gatta.jpg (1899×1979)

Rossellini 1906-1977 

 1945無防備都市; Roma citta aperte ;

1946戦火のかなた;

1950ストロンボリ,

Roberto Rossellini Smokes : ニュース写真

ベルト・ロッセリーニ

ロベルト・ロッセリーニ (Roberto Rossellini, 1906- 1977) は、イタリアの映画監督。イタリア映画界におけるネオレアリズモ運動の先駆的な人物の一人であり、イングリッド・バーグマンを据えた作品でも有名。フランスのヌーヴェル・ヴァーグ運動に多大な影響を与えた。

戦争三部作 

1945無防備都市 Roma, città aperta  

*無料動画が無かった。Amazon prime が何度も、メールを届け、primeを宣伝していた。既に私はアマゾンのprime会員になっていたので、今回、初めて、300円を払って見た。会員に登録すると、色々な作品を見ることが出来る。

なるほど、これはドキュメンタリーと言っても良い手法であるが、迫真の映像の名作ですある。ドイツ軍は連合軍によりローマでは撤退していたが、北部イタリアでは未だ、戦闘状況が続いていた。その中で、ロッセリーニは反ナチを明確に打ち出した人物である。当時、このような人物、まして映画監督などは、いなかった。

*1945年製作のイタリア映画。イタリア映画のルネサンスを告げるとともに,〈ネオレアリズモ〉の記念碑的な第1作として知られるロベルト・ロッセリーニ監督のレジスタンス映画の名作。そもそもはナチス占領下のローマでレジスタンス運動に挺身し,ドイツ軍に捕えられて銃殺されたドン・モロシーニ神父の記録映画が出発点であった。

レジスタンスの闘士をまじえた討論からシナリオをふくらませ(なお,セルジオ・アミディとともにシナリオの執筆に参加した当時24歳のフェデリコ・フェリーニは,この作品から映画にかかわりはじめた),〈事実の再現〉に徹した劇映画をつくることになった。

・イタリア民衆の抵抗組織が解放する直前、ドイツ軍進駐下のローマ。
・映画人も銃を手に生命を賭けた抵抗運動に参加した。そのひとりロッセリーニは身をもって体験した凄じい真実をフィルムに叩き込まずにはいられなかった。
・抵抗運動に対するドイツ軍と秘密警察(ゲシュタポ)の血も涙も感傷もない残酷非情を、冷徹な鋭い生のリアリズムで描き出した。
・スタジオは戦火で使用不能、資材も極端に不足して照明もない悪条件下、ドキュメンタリー・タッチで写し取った。
・生々しい映像は記録映画以上にリアルであり、戦後の世界の映画の作り方を変えたネオ・レアリスモ(イタリアン・リアリズム)はここにはじまった。
・「戦火のかなた」「ドイツ零年」の3部作は映画の歴史に永遠に残る画期的なエポックを成す。脚本に若きフェリーニが参加している。
・この映画に衝撃を受けたハリウッドの大女優イングリッド・バーグマン(1915-1982)は、見ず知らずのロッセリーニに手紙を書き、夫や子供を捨てて彼のもとに走って不倫の愛は伝説になった。

1946Desiderio

1946戦火のかなた Paisà  – 監督・脚本・製作

1948アモーレ L’amore – 監督・脚本・製作

1948ドイツ零年 Germania anno zero  – 監督・脚本・製作

 

 

 

Visconti 1906-1976   

 

ルキノ・ビスコンティ

Luchino Visconti

 

1942郵便配達は二度べるを鳴らす;  1963山猫、Il gattopardo, 

モドローネ伯爵ルキノ・ヴィスコンティLuchino Visconti, conte di Modorone, 1906年11月2日 – 1976年3月17日) は、イタリアの映画監督、脚本家、舞台演出家、貴族(伯爵)。映画監督・プロデューサーのウベルト・パゾリーニ (英語版)は大甥。

 

 

Pietro_Germi.jpg (184×243)

Germi 1914-1974   

1949無法者の掟; 1956鉄道員 Il ferrovier 

ピエトロ・ジェルミPietro Germi, 1914年9月14日 – 1974年12月5日)はイタリアの映画監督、脚本家、俳優。

リグーリア州ジェノヴァに生まれる。新聞売り、メッセンジャーなど職を転々としたのち海員学校に入るが、やがて俳優を志してローマの映画実験センターに入所。演劇科で3年間学んだのち監督科に転籍する。ちょい役の俳優や助監督、脚本家として下積み生活を送り、1945年、“Il testimone”で監督デビュー。シチリア人など、イタリア社会の底辺を支える庶民を主人公に、ネオレアリズモの社会派ドラマを次々と発表する。

『越境者』で1951年のベルリン国際映画祭銀熊賞、ヴェネツィア国際映画祭セルズニック賞を受賞。また同年、『街は自衛する』でヴェネツィア国際映画祭最優秀イタリア映画賞を受賞。自ら主演も兼ねた『鉄道員』(1956年)、『刑事』(1959年)は、映画音楽のヒットとともに国際的に評価された。

その後、寓意的コメディに路線を転向し、『イタリア式離婚狂想曲』で1962年のアカデミー脚本賞、カンヌ国際映画祭コメディ賞を受賞。1966年には『蜜がいっぱい』でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、国際的名声を確かなものにした。

俳優としても活躍し、自らの監督作のほか、マリオ・ソルダーティ監督の“Fuga in Francia”、ダミアーノ・ダミアーニ監督の『くち紅』、マウロ・ボロニーニ監督の『ビアンカ』などに主要な役柄で出演している。また、駆け出しの女優であったステファニア・サンドレッリを演技派スターに育てたのもジェルミの功績である。

1974年、肝臓癌のため死去。60歳。

 

 

 

黒澤明

黒澤 明 1910-1998 

1910年3月23日現在の東京都品川区に生まれる。1936年PCL映画製作所(現・東宝)に入社、山本嘉次郎監督に師事する。1943年「姿三四郎」で監督デビュー。1950年の「羅生門」でベネチア国際映画祭金獅子賞、第24回アカデミー賞特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞、「世界のクロサワ」と呼ばれる日本を代表する監督のひとりとなる。1998年9月6日、東京都世田谷区成城の自宅で死去。享年88歳。痛快で娯楽性のある斬新なその作品は全世界の映画人に衝撃を与え、発表当時のみならず今なお映画製作・映像製作に多大な影響を与え続けている。

 

 

 

Ingmar_Bergman_Smultronstallet.jpg (420×312)

Bergman 1918-2007 ベルイマン 

*ベーリマンの発音がスウェーデン語に近い

イングマール・ベルイマンは1918年7月14日、スウェーデンのウプサラで生まれた。父は牧師であり、兄のダーグは外交官、妹のマルガレータはのちに小説家となった[6]。ベルイマン家は首都ストックホルムで生活しており、ベルイマンもそこで育ち、1937年にはストックホルム高等学校(現ストックホルム大学)の文学・美術史学科に入学して、舞台演出の道へと進んだ[7]

1942年には映画会社のスヴェンスク・フィルム社に入社し、1943年にはエルセ・フィシェルと結婚[8]。なお、1945年にエルセとは離婚し、その後も多くの女性と結婚と離婚を繰り返して、ベルイマンは通算で5度の結婚を行った。1944年、アルフ・シェーベルイ監督の『もだえ』の脚本を手がけた。また同年、ヘルシンボリ市立劇場の主任演出家となり[9]、その後もヨーテボリ[10]やノーショーピング、マルメ、ストックホルムなどの都市で舞台演出を行った[11]

1945年、『危機』で映画監督としてデビューし[12]、その後、数本の低予算映画の中で自らのスタイルを模索する。

1950年、『夏の遊び』の頃から映画監督ベルイマンとしてのスタイルを確立した。

1952年、『不良少女モニカ』でフランスのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちに賞賛される[13]

1955年、『夏の夜は三たび微笑む』ではカンヌ国際映画祭の特設賞である「詩的ユーモア賞」(仏語:Prix de l’humour poétique)を受賞。スウェーデン国内のみならず、国際的に評価されるようになる[14]

1950年代後半、ベルイマンは、『第七の封印』や『野いちご』、『処女の泉』といった作品で、世界的な映画監督としての名声を不動のものにする。

1960年代、『鏡の中にある如く』、『冬の光』、『沈黙』の三作品、いわゆる「神の沈黙」三部作と呼ばれる[15]映画を発表、こちらも高い評価を得る。また、「神の沈黙」三部作以降は主に愛人であった女優リヴ・ウルマンを主役に据えて、人間の本質に迫る数多くの良質の作品を演出した。

1963年にはストックホルム王立劇場の総監督となる[16]。1965年、チャールズ・チャップリンと共にエラスムス賞を受賞。1966年にはゴトランド島の北にあるフォーレ島での生活を始めた[17]。その後も精力的に活動していたが、1976年にスウェーデン警察に脱税容疑で逮捕される。これは無実であり2ヶ月後には釈放されたものの、ショックを受けたベルイマンは入院し、回復するとスウェーデンを去ることを表明して、各国を回った後西ドイツのミュンヘンに落ち着いた[18]。1978年にはスウェーデンで名誉回復がなされた[19]ため、のちに帰国した。

1982年、5時間超の大作『ファニーとアレクサンデル』を撮影後、映画監督業から引退[20]。その後は以前から映画製作と並行して手がけていたスウェーデン王立劇場での舞台演劇に専念、舞台演出家兼脚本家としての活動を続けた。ただし、『愛の風景』(1992年)、『日曜日のピュ』(1994年)、『不実の愛、かくも燃え』(2000年)など、自伝的作品を中心に脚本家として映画製作にも携わった。

1991年、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞[21]。1995年には最後の妻であるイングリドを亡くした[22]

2003年、突如として、20年ぶりの監督作品『サラバンド』を発表。この映画はベルイマンにとって最初で最後となるデジタルHD撮影による作品であり、監督としての健在ぶりをアピールした。

2007年7月30日、スウェーデンのフォーレ島にて死去。89歳だった[23]。8月19日には同島で葬儀と埋葬が行われた[24]

 

 

 

Federico_Fellini_NYWTS.jpg (3000×2159)

Fellini 1920-1974     

1954道, La Strada  *Giulietta Masina  

最後、ザンパノが、海岸で両指を砂に突っ込み、泣き悲しむ姿が泪を誘います。

https://gyao.yahoo.co.jp/episode/%E9%81%93/5f72f73c-6caa-4e85-82c5-7ad32aad96ac

無料動画、日時が限られています 

Giulietta Masina (1920-1994)  *Giulietta は、Felliniの奥さん、名女優

Federico Fellini (1920-1993) 

Anthony Quinn (1915-2207)   名俳優

 

 

 

 

Federico Fellini

 

1954道 La Strada (ニーノ・ロータ音楽) *やはり映像だけでなく、耳に響く音楽が、かなり重要

家族主義やローマ・カトリックの色濃い国家イタリアで生まれ育ったフェリーニ監督の著書『私は映画だ / 夢と回想』(1978年)に、映画『道』に関する次のような記述がある[2]

  • 近代人としての私たちの悩みは孤独感です。そしてこれは私たちの存在の奥底からやってくるのです。どのような祝典も、政治的交響曲もそこから逃れようと望むことはできません。ただ人間と人間のあいだでだけ、この孤独を断つことができるし、ただ一人一人の人間を通してだけ、一種のメッセージを伝えることができて、一人の人間ともう一人の人間との深遠な絆を彼らに理解させ —— いや、発見させることができるのです。
  • まったく人間的でありふれたテーマを展開するとき、私は自分で忍耐の限度をはるかに越える苦しみと不運にしばしば直面しているのに気づきます。直観が生まれ出るのはこのようなときです。それはまた、私たちの本性を超越するさまざまな価値への信仰が生まれ出るときでもあります。そのような場合に、私が自分の映画で見せたがる大海とか、はるかな空とかは、もはや十分なものではありません。海や空のかなたに、たぶんひどい苦しみか、涙のなぐさめを通して、神をかいま見ることができるでしょう —— それは神学上の信仰のことというよりも、魂が深く必要とする神の愛と恵みです。

フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini, 1920年1月20日 – 1993年10月31日)は、イタリア・リミニ生まれの映画監督、脚本家。「映像の魔術師」の異名を持つ[2]

 

フェリーニは1920年1月20日、イタリアのリミニで生まれた[3]。リミニの高校在学中には古都フィレンツェの新聞に漫画のはがき投稿をしていた[4]。高校卒業後、1939年に首都ローマの「イル・ピッコロ」紙に勤務し、やがて「マルク・アウレリオ」紙に移った[5]。マルク・アウレリオ紙はユーモア紙であり、フェリーニはここで漫画やコラムを書き、記者として経験を積んでいった。やがて1942年になると記者の他、ラジオドラマの放送作家としての脚本の仕事が増えていった[6]。1943年には、このラジオ番組で知り合ったジュリエッタ・マシーナと結婚している[7]

1944年、ローマが連合国軍の制圧下に入ると似顔絵屋を開いて生計を立てていたが、映画監督ロベルト・ロッセリーニがこの店を訪れ、映画シナリオへの協力を頼んだことが、フェリーニの映画人生の始まりとなった[8]。この映画『無防備都市』は1945年に公開され、イタリア・ネオレアリズモ映画を世界に知らしめた記念碑的作品となり、フェリーニはロッセリーニの次回作である『戦火のかなた』でも脚本を担当した[9]。フェリーニは1952年までラジオドラマ時代も含めると10年間、映画単独でも7年間脚本家としての仕事を続けたものの、徐々に脚本よりも映画制作に興味を示し始めた[10]

(雁註)ロッセリーニの戦争三部作の脚本を担当。その後、脚本から監督へと向かう。

こうして1950年、フェリーニは『寄席の脚光』でアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督にて監督デビューを果たした[11]。1952年の『白い酋長』ではじめて単独監督を務めた[12]。この作品で音楽監督として起用されたニーノ・ロータは、『オーケストラリハーサル』に至るまでのすべてのフェリーニ作品で音楽を手がけることになる。三作目となる『青春群像』(1953年)では故郷の街とそこで生きているどうしようもない青年達の姿を描いてヒットを飛ばし、ネオレアリズモの若き後継者として注目されて、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した[13]。続く『道』(1954年)では甘美なテーマ曲と物語の叙情性とヒューマニズムから世界的なヒット作となり、二年連続のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、並びに第28回アカデミー賞でアカデミー外国語映画賞を受賞し、フェリーニの国際的な名声が確立する[14]。1955年の『崖』は不評だったものの、1957年の『カビリアの夜』は再び高い評価を得た[15]

ネオレアリズモ的作風に変化が現れるのは『甘い生活』(1959年)からとされる[16]。退廃的なローマ社会を描いたこの作品はフェリーニの力強い社会批判であるが、ヘリコプターで吊るされた巨大なキリスト像の冒頭シーンや、河から引き上げられた怪魚のラストシーンに顕著なように、ストーリーの随所にシンボルが配置されて独特の映像感覚が発揮される。この作品は高い評価を得て、1960年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したものの、カトリック教会などから退廃的だという強い批判を浴び、いくつかの国では上映中止に追い込まれた[17]

『甘い生活』で使用された手法は『8 1/2』(1963年)で極度に推し進められ、「映画が撮れなくなった映画監督」の話を借りてフェリーニの内面が赤裸々かつ高度なシンボル的映像表現で綴られることになる。

その後もチネチッタ・スタジオに巨大なセットを組み、『サテリコン』(1968年)、『フェリーニのローマ』(1972年)、『フェリーニのアマルコルド』(1973年)、『カサノバ』(1976年)、『オーケストラ・リハーサル』(1979年)、『女の都』(1980年)、『そして船は行く』(1983年)など、重層的で夢幻の広がりを与える手法を駆使した作品群を立て続けに監督。いつしか世界の映画製作人から「スタジオの魔術師」と呼ばれることになる。

『道』、『カビリアの夜』、『8 1/2』、『フェリーニのアマルコルド』で4度のアカデミー賞外国語映画賞を、1992年にはアカデミー賞名誉賞を受賞した[1]

1993年に脳内出血で倒れ、同年10月31日、心臓発作で死去。73歳。その葬儀はローマのサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会(it)にて国葬として執り行われたほか、チネチッタと故郷の町・リミニでも葬儀が行われ[18]、リミニの墓地に埋葬された。

妻のジュリエッタ・マシーナは駆け出し時代の彼のラジオドラマに出演し、『道』、『カビリアの夜』、『魂のジュリエッタ』、『ジンジャーとフレッド』などにも主演した。

 
『甘い生活』の舞台となったヴェネト通りに掲げられたプレート
  • 『フェリーニのローマ』では、ローマ外環道路の交通渋滞を巨大な屋内セットによって再現したというぐらいに、中期以降のフェリーニはスタジオ撮影にこだわった。セット撮影を排したネオレアリズモ映画を出発点としながら、巨大なセット撮影を駆使して人工美の世界を構築したという点で、やはりネオレアリズモ映画出身だったルキノ・ヴィスコンティと並び称されることも多い。だが、本物の貴族出身だったヴィスコンティの華麗な絵作りに対してフェリーニの作品にはモダンアートの明るさと庶民的な俗っぽさが満ち溢れている。こうした絵画的感覚についてはイタリア・オペラの伝統を指摘する声もある[要出典]
  • フェリーニ映画には巨乳巨尻の女性が多く出てきて「フェリーニ的」画面を構成する。猥雑な女たちの娼館や道化師のサーカスはフェリーニのお得意素材である。
  • ペシミストとしても語られはするが、基本にあるのは生きていく意志である。『8 1/2』のラストシーンでの有名な台詞「人生は祭りだ。共に生きよう」はそれを端的に言い表している。それは『道』の中で悲惨な境遇にあるヒロインに向かって語られた「どんな物でも何かの役に立っている。この石ころだって」という台詞から一貫したフェリーニのヒューマニズムでもある
 

 

 

Giuseppe_Tornatore.jpg (340×462)

TURNATORE, Giuseppe 1956- 

Giuseppe Tornatore (born 27 May 1956) is an Italian film director and screenwriter. He is considered as one of the directors who brought critical acclaim back to Italian cinema.[1] In a career spanning over 30 years he is best known for directing and writing drama films such as Everybody’s FineThe Legend of 1900MalènaBaarìa and The Best Offer. Probably his most noted film is Nuovo Cinema Paradiso, for which Tornatore won the Academy Award for Best Foreign Language Film. He has also directed several advertising campaigns for Dolce & Gabbana.[2]

Tornatore is also known for his long-standing association with composer Ennio Morricone, who composed music for thirteen Tornatore feature films since 1988.

Life and career[edit]

Born in Bagheria near Palermo, Tornatore developed an interest in acting and the theatre from at least the age of 16 and put on works by Luigi Pirandello and Eduardo De Filippo.

He worked initially as a freelance photographer. Then, switching to cinema, he made his debut with Le minoranze etniche in Sicilia (The Ethnic Minorities in Sicily), a collaborative documentary film which won a Salerno Festival prize. He then worked for RAI before releasing his first full-length film, Il Camorrista, in 1985. This evoked a positive response from audience and critics alike and Tornatore was awarded the Silver Ribbon for best new director.

Tornatore’s best known screen work was released in 1988: Nuovo Cinema Paradiso, a film narrating the life of a successful film director who has returned to his native town in Sicily for the funeral of his mentor. This obtained worldwide success and won an Academy Award for Best Foreign Language Film.[3] Subsequently, Tornatore released several other films. In 2007 he won the Silver George for Best Director at the 29th Moscow International Film Festival for The Unknown Woman.[4]

Personal life[edit]

Tornatore describes himself as “one who does not believe and who regrets this”.[5] His brother, Francesco Tornatore, is a producer.

Filmography[edit]

 
Tornatore at the 1994 Cannes Film Festival.

Written and directed[edit]

  • 1986: The Professor (Il camorrista)
  • 1988: Cinema Paradiso (Nuovo Cinema Paradiso)
  • 1990: Everybody’s Fine (Stanno tutti bene)
  • 1991: Especially on Sunday (segment “Il cane blu”)
  • 1994: A Pure Formality (Una pura formalità)
  • 1995: The Star Maker (L’uomo delle stelle)
  • 1995: Lo schermo a tre punte (documentary)
  • 1996: Ritratti d’autore: seconda serie (documentary)
  • 1998: The Legend of 1900 (La leggenda del pianista sull’oceano)
  • 2000: Malèna
  • 2006: The Unknown Woman (La sconosciuta)
  • 2009: Baarìa
  • 2013: The Best Offer (La migliore offerta)
  • 2016: The Correspondence (La corrispondenza)

Screenplay only[edit]

  • Cento giorni a Palermo (“One Hundred Days in Palermo”), directed by Giuseppe Ferrara (1984) – Tornatore is credited under the name Peppuccio Tornatore

References[edit]

  1. ^ Katz, Ephraim, “Italy,” The Film Encyclopedia (New York: HarperResource, 2001), pp. 682-685.
  2. ^ Valentina Zannoni (30 October 2011). “Funeral alla Dolce & Gabbana”. Swide Magazine. Retrieved 19 May 2012.
  3. ^ “The 62nd Academy Awards (1990) Nominees and Winners”. oscars.org. Retrieved 6 September 2015.
  4. ^ “29th Moscow International Film Festival (2007)”. MIFF. Archived from the original on 21 April 2013. Retrieved 2013-05-30.
  5. ^ Interview with Trovacinema

Further reading[edit]

  • Giuseppe Tornatore. Uno sguardo dal set a cura di Ninni Panzera, Silvana Editoriale, Cinisello Balsamo 2007
  • L’isola di Tornatore a cura di Ninni Panzera, Silvana Editoriale, Cinisello Balsamo 2010
  • Le Madonie, cinema ad alte quote di Sebastiano Gesù e Elena Russo, con introduzione di Francesco Novara e presentazione di Pasquale Scimeca, Giuseppe Maimone Editore, Catania 1995 (Nuovo Cinema Paradiso and L’Uomo delle Stelle)

(雁註)確か、以前、モノクロで見た憶えがある。リメークして色付けすると全く別の感じになる。

Nuomo Cinema Paradiso (伊)ヌオモ キネマ パラディソ *シチリアにあった初期キネマ館の物語。その少年から青年への時間の経過が、それぞれの俳優によって描かれていた。以前の此のフィルムを見たい。

 

(雁註)DVD 10本組で2000円ほどで購入できる。書籍よりも安く、楽しめる。

(雁註)無料動画も、あるが、クレジットなど要求されるので、避けた方が無難。

何か御気付きの点があれば、御教示ください。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator 浮世絵鑑定家

1982-04-29現在(2021-03-03) 浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人) *学芸員 *浮世絵鑑定家  Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前)日本最古の浮世絵専門店

http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit.php?orderby=title&order=asc&s&post_status=all&post_type=post&action=-1&m=0&cat=114&paged=1&action2=-1  御案内

 

 



アーカイブ

最近の投稿

最近の投稿

コレクション

新着情報・新着コレクション