浮世絵学04/捨身(しゃしん)1974川村博通(1914-1980)(67)/捨身_酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/86542 
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1982-04-29現在(2022-05-17更新) 

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人) 

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

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御案内

G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)

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複製・復刻

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,171項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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1974-02-04

捨 身              川村博通

『わかい衆よ 死ぬのがこはけりゃ いま死にやれ、

ひとたび死ねば二度と死なぬぞ』

これは白隠禅師の道歌と私は聞いている。

生死は人間の最大事、一大事の因縁で、これを明らかに自覚していくこと、

それが人の人たる本当の教養であり、人間教育の根本命題である。

この命題を解明してゆくこと、それが、教育の仕事であり、

そのときあかしをしっかり身につけて生きぬいて行くことが、

人の深々とした生き方で、人の『たしなみ』といふものである。

立派に生きぬいて、落ち着き払って死んでいく。

利休の花、芭蕉の旅、良寛和尚の晩年、

そこに趣味に生きることと道に生きることとが

一つに帰するものであるといふことを私は知る。

自然の風物には隠されているが、天然資源には

美しい日本人の趣きある生き方といふものは内外一致(意志と行動の無意識の一致)

ここまで昇華されねば本物とはならぬ。

これが心豊かな本当の日本人といふもので、人として受ける可き教育なのである。

生活の余裕のあるなしにかはらず、人が人らしい心の豊さを、

いささかでも保っている人間であるならば、教育といふものは、

単なる知識の伝達、技術の習得に止まる可きものではなく、

実利、娯楽に満足し、それに事足れりとするものではない。

それを超へた先に紳士・淑女の世界が開かれるべきである。

自己を否定し、一切を捨て、心豊かに、趣き深く、

生き抜いて行く世界、世間を越えて、自然界と人間との一致の世界、

私の歩んできた山への道、スキーのあり方は此処にあったのだ。

スキーを付けて四十数年、山を歩いて五十年

私の踏み開いてきた道は此処にあった。

幼稚舎の山岳紀行部、スキー合宿の二十数年の歩みは、

大自然の真・美への人間の帰一、それへの傾求、

求道心の発芽への誘いであった。

美しいものへの果てしない憧憬、発菩提心。

学道の初心、人間教育活動への体当り、などそのものであったと言えよう。

山に居る悦び、スキーで歩き廻るのを楽しんで居たのだった。

スキーの上達は左程の関心事ではなかった。

 山へ行くのも、スキーに乗るのも、人の世の楽しみであり、戯れである。

スキー技術の上達も、スキー技術の等級・資格獲得も、人の世俗の名誉心、

欲心にしかほかならぬ。

たのしみと言えばたのしみ、欲と言えは欲であるが、しかし、

一筋道に生きぬいた時、それは、ただそれだけのものではなくなって来る。

人の世の一通りのものを越えたもう一つの世界に入って行く。

『戯れ去り戯れ来たり自ら真あり。』との福沢先生の言葉もある。

『自ら真なるもの』の世界、

人の行為・業・人のくらしの奥底に徹した奥のもの、

生死の流れを明確にし、更にそれを超えた飄々としたものがあってよい筈だ。

それ故に、私は本当の師を選ぶ。

即ちスキーならそのスキー技術を超えた 人のまてとの叫びから、

鍛錬に鍛錬を重ねて、すっかり身についたもの、即ち、

人格とスキーが一つになった人、それを私はスキーの本師とする。

私が指導者、学生リーダーを厳選し、その養成に意を注ぐのもそこにあるのだ。

スキーの技術の習得のみでは人の師とは言へぬ。それだけでは指導者、学生リーダー

とは言えないと私は思っている。それはただの獣身の人にしか過ぎない。

確実なる技術を縦横に駆使して、自己の人生の雄大なる一曲を奏するもの、

それが、人間にのみ許された、首尾のととのった心の豊かな人の生きた姿であり、

そこに普通の人を超えた本師の相が現前するのだ。

幼稚舎スキー合宿指導者養成合宿、発足して三年目の昭和四十八年

十二月二十三日から二十八日迄の第三回目の合宿は、

どうやらこの生死・一大事の因縁を究める

人間教育による教養あるスキー合宿に近づいたと思はれた。

私はこの合宿で、スキーは音楽である。 

スキーは技術の修得のみに満足すべきものではなく、

大自然の一曲の交響楽を奏するものであると見付けた。 

しかも、別に打ち合わせたのでもないのに

技術指導の佐藤富郎君が練習開始の挨拶に、図らずも『スキーにはいろいろあるが

われわれのスキーは娯楽ではない云々』と言い切ってしまった。

偶然の一致と言うか、それとも、道を歩むものの当然の帰一と言う可きか。

昭和四十八年の初冬の熊の雪は深々として美しかった。

ことさらに、白樺・松尾根の雪は見事なものであった。 

熊の湯の親父正勝(私は兄貴と読んでいるが)がこの十一月九日(金)

白樺のリフトの試運転の不慮の事故がもとで、翌十日の夜半に急逝した。

行年六十八才。身を挺して、ゲレンデ整備の犠牲となってしまったのだ。

『川村さん。おめえはへえー、何やってるんだかと思っていたが、

ちゃんと人間教育をやっていた。おめえの教育は人間教育だ。』

何かの時に、兄貴はそんなことを言った。

そして私の熊の湯での夏・冬を見守っていてくれた。

幼稚舎スキー合宿が、今日、此処まで育ったのは、一つには、

熊の湯の兄貴、正勝の温かい理解と力添えがあったからだと言へよう。

幼稚舎スキー合宿は私の理想とする指導員養成合宿にまで発展した。

小学生のスキーには、矢張り、限界がある。少年から青年へ、

そして大人のスキー、一人前の成人のスキーへ、そこにスキー修行の完成がある。

人間一生のスキー道へ、私のスキーの道はどんどん開けて行く。

体のスキーから心のスキーへ と。

指導員養成合宿三年目に、兄貴は急逝してしまった。

リフトの整備に身を捨ててしまった。捨身。

白樺ゲレンデに、松尾根に、そして横手山に、前山に、

美しい 美しい雪がたっぷり降った。

熊の湯の兄貴、正勝は平穏村志賀高原の山麓、沓野に生まれて、沓野に育った。

母親を早く亡くして、父親 菊治の手一つで弟妹三人仲良く育った。

昔の山村のことである。小学校だけの義務教育、

幼稚舎スキー合宿指導員諸君のような大学教育は受けてはいなかった。

それが良かったのだ 素朴に純粋に郷土の志賀の山々を一途に愛し護りつづけた。

彼の心は大いなる自然の心の底に達し、茶の湯の道に通じた。

そして、

私の山への心根を、温かく解し、愛してくれたのだ。

積雪直前のリフトの整備、スキーシーズンの積雪、

いつも いつも積雪を気にしていた兄貴。

積雪の志賀高原を護る兄貴の生命。

 捨身。兄貴は死んで、雪と化して私達を守っている。

指導員合宿開会の辞に、私は

『熊の湯の兄貴が死んで雪になって、降り積もって、我々を見守っている云々』

と正直に私の心を宣べた。

私には、合宿中、所属の班はなかった。練習中の班を適宜に見巡って、

毎日を過ごせばよいのであった。

私はそれを良いことにして、出来るだけリフトに乗って高い処に上がり

そこから滑降しながら、各班を巡視した。

夕方、リフトが停止するまで滑降をやめなかった。 

 夕暮れ近くなると、リフトは松尾根のテッペンに向け、又は『ノゾキ』へ向けて、

唯一人、私だけを乗せて、カラ カラと運んでくれた。

人気のない夕闇の滑降コースをたった一人、私は無心で滑った。

 無心は捨身となる。そして、また捨身は無心の無心となって行く。

一度死ねば二度とは死なぬ。

死ぬことは生き抜くこと、生一杯に、こんちくしょうと、死に突込む。

そして、本当に生きぬく。

死ねば斃れるのみ。生死一如、死によって本当の生命となる。

絶対の肯定は絶対の否定によってのみ厳然と肯定となる。

否定なくしては肯定はない。

本当に生きるなら死に切ることだ。

最大傾斜に向かって、私は、六十才の身を投げ込んだ。

スキーを習うといふは自己を習うなり。

自己を習ふというは自己を忘るるなり。

一心欲見仏、不自惜身命。

念力。念力。

私は大声で喚いた。絶叫した。

エイッ、エイッ、ウオー、ウオー。

私のわめきが勝つか。スキーのスピードが勝つか。息の根が止まるか。

 スキーが風を切って行く。

風の唸りも、私の喚き声も、雪山も、斜面も、スキーも、私の体も、呼吸も、 

天も地も、何もかも一塊となって吹っ飛んで行く。

吹っ飛ぶことすら停止状態となり、凡てが一つになって、

同時に何もかもが無くなってしまった。

『ノゾキ』から硯川まで一気に吹っ飛んだ。硯川でスキーが停止した時、

勢まって、一切が、この世から脱け出し、天の彼方に飛び出し舞い上がった。

身も心も軽々と。

ハッと我に帰った時、心身脱落とはこのことかと知った。

『仏道をならうといふは、自己をならふ成。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。』

(道元禅師、正法眼蔵第一現成公案)

 十二月二十七日は、暁から一日中、雲一つない快晴。

日本中の山々が、全部、横手山頂より眺められたと言っても過言ではない。

天来の妙音が聴えるやうな美しい空の蒼さ。

嶺の雪の耀き。

何処へ行っても、樹氷の間、雪面一杯に、

『川村さん、おめちゃ、やるな・・!』

と ニコ ニコと笑っている熊の兄貴の顔が大きく見られた。

 捨身。捨身。これが本当に生きるといふことだったのだ。

どうやら、私のスキーも永遠の生命の緒についたらしい。

これからが本当の私のスキーになるのだと知った。

『合宿は諸君の努力で立派に終わった。

熊の湯の兄貴が樹々の間からニコ ニコと笑いかけていた。

菊治じいさんの孫達がこころをそろえて、

志賀高原の美しさを大切に守りぬかねばならぬ。』

と閉会の辞を私は結んだ。

 熊の湯の兄貴の甥の富郎君は、

『有難うございました。今日の先生のお言葉を心にとどめて、一生忘れません。』

と私に述べて、頭をさげた。

合宿に集まった学生諸君、君達は自分のスキー技術の上達にのみ、又、

幼稚舎生をどう教えるかといふ教育技術にのみ心をとらはれすぎはしなかったであろうか。

自分の心をじっと見つめていなかったのではなかろうか。

君達は高等教育・大学教育といふ名の学校教育に毒されては居ないだろうか。

死んだ熊の湯の素朴な兄貴の生涯を 雪の純白さと共に思い起こしてほしい。

君たちは、仲間の心を温かく見守っていたであろうか。

そして、大自然そのものを素直に見詰めていたであろうか。

空、山、雪、樹々、白さ、蒼さ、無限の耀き。

色なき色に、音なき音に、目を凝らし、耳を傾けたであろうか。

もう一度、自問、自答して見てほしい。

第三回指導員養成合宿中の自分を振り返って見て。

                     (昭和四十九年二月四日 稿於西落合) 

これは級友・松方七郎からの同窓会の案内に添付されてきた川村先生(私たちは親しみを込めて、川先かわせん、と呼んでいました)

川先は、東京神田・多町の生まれで、刀剣などを扱っていたと聴いています。明治以後、廃刀令が出て、下駄・草履などを売買していました。全国、あちこち、父親に連れられて、廻ったようです。暁星(ぎょうせい)を出て慶應義塾に入学しました。そして哲学科を卒業、教育学を学び、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人になってまで、ずっと指導して戴きました。

川先(川村博通)(1914-1980)は、1914生まれですので、私の父・酒井藤吉(1915-1995)より一つ上です。お互いに神田っ子ということで気が合ったようです。一緒に、浮世絵の笑絵(わらいゑ)をカードに書き込み、調査していました。学生たちを連れてきたこともありました。私の生き方も、いつの間にか、父、川先の生き方が伝わっているように思います。

(雁註)捨身(すてみ)かと思っていたが、これはブッダの捨身(しゃしん)である。己の身体を

 



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