浮世絵学04/シーボルト・ゼミナール 2023-03-20(月)18:30-20.00 大胡真人/明治神宮外苑・絵画館 アレキサンダー・シーボルト おおご まひと ドイツ文化協会 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/   
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1982-04-29現在(2023-03-24更新)

浮世絵学:ukiyo-e study  浮世絵鑑定(肉筆浮世絵、錦絵):judge

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

酒井 雁高(がんこう)(浮世絵・酒井好古堂主人)

*学芸員 *浮世絵鑑定家 📞 Phone 03-3591-4678(東京・有楽町)

酒井 邦男(くにお)  酒井好古堂・副代表    *学芸員     *浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14(東京・有楽町 帝国ホテルタワー前) 

日本最古の浮世絵専門店

1803葵衛(齋藤秋圃)/葵氏艶譜


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G浮世絵学00 御案内 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)  Guide

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R浮世絵学00/複製・復刻 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/88211

 

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V浮世絵学 ミニ動画     Mini-film, about 5 minutes 

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*1946、私、酒井雁高(がんこう)、(戸籍名、信夫のぶお)は、酒井藤吉、酒井十九子の次男として生まれた。生まれた時から、浮世絵に囲まれ、浮世絵博物館に組み込まれていたように思う。1966、兄・正一(しょういち)が冬山のスキー事故で死亡。いきなり、私に役目が廻ってきた。それにしても、子供が先に亡くなるとは、両親の悲しみは察して、余りある。母は、閉じこもったきり、黙ったままの父に、何も話すことが出来なかったという。

*1967、私は大学の経済学部を卒業し、すぐ文学部国文科へ学士入学。何とか、源氏物語など、各種日本文学、江戸文学も多少、学ぶことが出来、変体仮名なども読めるようになった。http://www.ukiyo-e.co.jp/wp-admin/edit-comments.php

*1982年以来、浮世絵博物館と一緒に過ごしてきた。博物館が女房替わりをしてくれたのかも知れない。

*それでは子供、というと、これら浮世絵学、1,262項目であろうか。一所(浮世絵学)懸命、学問としての浮世絵学を成長させてきたつもりである。今後も、御支援、御指導を賜りたい。2021-06-20酒井雁高・識

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日本で最古の浮世絵専門店。幕末の開明思想家・佐久間象山(1811-1864)(しょうざん)が、酒井義好(1810-1869)*よしたか の書齋を「好古堂」と命名しました。1982、酒井藤吉(とうきち)・十九子(とくこ)、酒井貞助(ていすけ)・富美江(ふみえ)、酒井泉三郎(せんざぶろう)・美代子(みよこ)らは、好古堂蒐集品を基として、父祖の地、松本市郊外に、日本浮世絵博物館を創立しました。

父・藤吉が亡くなってから、酒井信夫・雁高(がんこう)、そして酒井邦男が継承し、世界各地で65回の浮世絵展覧会を開催して今日に至っています。皆様のご指導ご鞭撻を御願い致します。

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 *Sakai Kohkodou Gallery  酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) Japanese Traditional Woodblock Prints  

SAKAI_gankow, curator, professional adviser of ukiyo-e

2022 SAKAI, gankow   酒井雁高

 

2018 SAKAI gankow

 

2020 SAKAI kunio

 

 
*ファックス、使えません。
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2023-03-24現在
 
大胡真人(おおごまひと)さんのアレクサンダー・シーボルトに関する神宮外苑・絵画館の油絵の解説
横山實(よこやま みのる)先生の補足、説明。お払い箱になった、アレクサンダーが気の毒である。
 

皆 様

        横山実

酒井雁高さん宛ての下記のメールが皆さんに届いていないので、お送りします。

 

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酒井雁高様

         横山実

昨日、メールを差し上げましたが、補足説明をしていただき、お礼申し上げます。たくさんの論点を指摘していただきましたが、下記の点について情報を提供させていただきます。

・法律は論理であるが、日本では一読して解るようにされていない。

・何のための法律か。専門家だけが解り、一般人が読んでも意味不明。これでは全く意味がない

 

江戸時代は、庶民には「知らしめず、依らしむべし」だったといわれています。公家社会では、律令が細々と残っていましたが、武士が支配する領域では、幕藩ごとに、それぞれの判例法が適用されていました。幕府は、8代将軍吉宗の時代に、その判例法を『公事方御定書』としてまとめています。それは、幕府の領地を治める奉行のためのもので、公開されていませんでした。庶民には、その都度、高札で、必要最小限の掟が、知らされていました。その掟は、「一読して解るよう」なものでした。

明治になると、新政府は、太政官布告として、次々に法律を制定し、それを公表しました。ですから、高札場には、たくさんの掟が示されたのです。芳虎が画いた「東京日本橋繁栄之図」(明治3年)には、それが描かれています。その後、専門用語(明治の初めに、フランス法を翻訳するときにできた造語です)で書かれた法律は、複雑化し、膨大な数となりましたので、今では、酒井さんが指摘しているように、「専門家だけが解り、一般人が読んでも意味不明」となっています。

 

追伸:参考までに、芳虎の浮世絵の写真を添付いたします。

IMG_0357東京日本橋繁栄之図 全体.JPG


2023-03-23
拝復
横山 實先生
ありがとうございます。
多少、まとめてみました。
明六社は重要ですね。

 
灋 ホウ 訳語のため、飛んでもなく難しい漢語を使っています。 春畫(シュンガ) 猥褻(ワイセツ) これらも皆、シナでも殆ど使われていない漢語です。江戸時代の和語では 笑絵
 
灋講義 セイホウ コウギ *自然法の意
 
文字が漢語で、書名の意味が全く理解できません。
 
democracy これも、民主主義と訳す以前は、いろいろあったようです。
freedom これも自由と訳すまで、紆余曲折しました。
insurance  この概念も日本に無かったので、保険と訳されました。
 
法律用語、法制度、民権、政治、経済用語など、新たに創作? した
 
西周(1829-1897) にし あまね 
幕末-明治時代の思想家。. 文政12年2月3日生まれ。. 石見 (いわみ) (島根県)津和野藩医の子。. オランダに留学,法学,経済学などをまなぶ。. 維新後は兵部省のち陸軍省で軍制の整備にあたり,軍人勅諭の原案を 起草 。. 明六社同人と …
 
福沢諭吉(1835-1901) ふくさわ ゆきち *大分・中津では、清音で、ふくさわ 
福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち、旧字体: 福澤 諭吉、天保5年- 明治34年)は、幕末から明治期の日本の啓蒙思想家、教育家[1]。慶應義塾の創設者。諱は範(はん)。字は子圍(しい)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之 … 近代日本思想大系(2)の一冊で、纏まっている。
 
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明六社 (雁註)例によって、生没年に整理
明六社(めいろくしゃ)、明治初期に設立された日本最初の近代的啓蒙 学術団体。 
日本の学術用語、思想、翻訳を始動した。ボアソナードとアレクサンダーが、それぞれ、年長(としおさ)、年若(としわか)であるのが面白い。*長短であるが、年短とは言わない。年少か。
概要 1873年(明治6年)7月にアメリカから帰国した森有礼が、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に同年秋に啓蒙活動を目的として結成。
森 有礼は尤も若く、日本で、米語をバイリンガルで採用しようとした経緯も理解できる。 
 
ボアソナード(1825- 1910)
箕作秋坪(1826- 1886)  *みつくり しゅうへい
西村茂樹(1828 – 1902)  にしむら しげき
杉 亨二(1828- 1917)  *すぎ きょうじ
西  周 (1829-1897)  *にし あまね
津田真道(1829 – 1903)  *つだまみち 
中村正直(1832 – 1891)  *なかむら まさなお 
福沢諭吉(1835-1901)  ふくさわ ゆきち 
加藤弘之(1836- 1916)  *かとうひろゆき
箕作麟祥(1846 – 1897)  *みつくり りんしょう
アレクサンダーフォン・シーボルト(1846 – 1911)
森 有礼 (1847 – 1889)  *もり ありのり 米語をバイリンガルで使うことを提唱したが、反対された。現在では、先見の明。伊勢神宮で不敬の行為。右翼により殺される
 
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ボアソナード 日清戦争の後、愛国主義が台頭して、「民法出でて、忠孝ほろぶ」という旗印
 
滝沢馬琴(1767- 1848) *ばきん
1814-1842 年)28年をかけて完結した、全98巻、106 
八犬伝では、支那にあった五常(仁義礼智信)に、(忠孝悌)を追加 *支那古来の徳目に「忠」は無かったことが重要
 
以上、簡単ですが、補足の追加です。
雁高
*なお、「由(よ)らしむべし、知(し)らしむべからず」
・民衆は為政者に従わせればよく、施政の詳細を説明する必要はない。
・民衆は法によって従わせることはできるが、その道理を理解させることは難しい。
・「論語―泰伯」の「民は之(これ)に由らしむべし之を知らしむべからず」
・原典は「べし」を可能の意と解するのが正しいとされます
・日本のことわざでは、賛否とは別に、「べし」を当然の意とする解釈が広く通用しています。
泰伯(たいはく)中国古代の侯国の始祖
・中国,春秋時代の諸侯国の一つ (?~前 473) 。周の大王の子,太伯が末弟の季歴 (文王の父) に王位を譲り,荊蛮 (江蘇省方面) に逃げ建国したという伝説がある。
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酒井雁高様

         横山実

昨日、メールを差し上げましたが、補足説明をしていただき、お礼申し上げます。たくさんの論点を指摘していただきましたが、下記の点について情報を提供させていただきます。

・法律は論理であるが、日本では一読して解るようにされていない。

・何のための法律か。専門家だけが解り、一般人が読んでも意味不明。これでは全く意味がない

江戸時代は、庶民には「知らしめず、依らしむべし」だったといわれています。公家社会では、律令が細々と残っていましたが、武士が支配する領域では、幕藩ごとに、それぞれの判例法が適用されていました。幕府は、8代将軍吉宗の時代に、その判例法を『公事方御定書』としてまとめています。それは、幕府の領地を治める奉行のためのもので、公開されていませんでした。庶民には、その都度、高札で、必要最小限の掟が、知らされていました。その掟は、「一読して解るよう」なものでした。

明治になると、新政府は、太政官布告として、次々に法律を制定し、それを公表しました。ですから、高札場には、たくさんの掟が示されたのです。芳虎が画いた「東京日本橋繁栄之図」(明治3年)には、それが描かれています。その後、専門用語(明治の初めに、フランス法を翻訳するときにできた造語です)で書かれた法律は、複雑化し、膨大な数となりましたので、今では、酒井さんが指摘しているように、「専門家だけが解り、一般人が読んでも意味不明」となっています。

追伸:参考までに、芳虎の浮世絵の写真を添付いたします。


2023-03-23

各位

横山 實 先生から、補足説明

・私見(雁高)では、日本の天皇制と西欧(特にフランス)の法制度が合致し難い状況があった。

・現在のフランスは、自由・博愛・平等を謳っているが、実際のところ、全体主義・社会主義・共産主義的な思想が蔓延(まんえん)している。*今回もいきなり、年金法を制定。あちこちで、騒動

・江戸時代に天皇の浮世絵は一枚もない。

・京都(めやこ)の禁廷様(きんていさま)。単に一公家。

・江戸幕府の公家諸法度などがあり、維新前に二度の動きは封じられた

・日本の法律は、準用するという術語が彼方此方にあり、大変、解り難い。

・そのためか、アメリカでは法律の一条づつに番号を振り、その条項だけで意味が解るように改定している。

・法律は論理であるが、日本では一読して解るようにされていない。

・何のための法律か。専門家だけが解り、一般人が読んでも意味不明。これでは全く意味がない。

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酒井雁高様

       横山実

月曜のシーボルトセミナーの後、立ち話をしましたが、懇談会で、大胡氏にそれを伝えていただき、お礼申し上げます。大胡氏からは、次のようなメールをいただきました。そこで、返事を書きましたので、お知らせいたします。

今後とも、よろしくお願いします。

*****

横山先生 一昨日は、私の雑駁な話を長時間お聞かせしてしまい申し訳ありませんでした。酒井さんから、日本人の晩年の対応が、横山先生によると「アレキサンダーが可愛そうだ」とおっしゃったことをお聞きしました。もっと早く止めて皆様の意見を聞くべきでした。

*****

大胡真人様

       横山実

丁寧なメールを賜り、お礼申し上げます。

「雑駁な話」と謙遜されておられますが、貴方様のお話は、明治の歴史を理解するうえで、大変に参考になりました。

ご承知のように、高校までの日本史の授業は、幕末で終わっています。しかし、日本の近代化を理解するには、幕末から明治にかけての歴史をきちんと把握する必要があります。私は、以前は、幕末以前の浮世絵を集めていましたが、最近、横浜絵、開化絵、清親や安治などの浮世絵を収集して、それらの浮世絵の時代背景を理解するように努めています。貴方様の報告は、その理解に大変に役立つものであったので感謝しています。

ところで、酒井雁高さんに、「日本政府のアレキサンダーさんへの対応がひどかった」と話したのには、伏線があります。私は、法律も学びましたので、フランス法学者のギュスターヴ・エミール・ボアソナードのことを知っています。

ギュスターヴ・エミール・ボアソナード – Wikipedia

ボアソナードは、日本の近代化のために、また、不平等条約撤廃のために、フランス法をモデルにして、刑法草案、刑事訴訟法草案や民法草案を起草しました。刑法草案と刑事訴訟法草案は、法制化されましたが、民法草案は、お蔵入りになりました。日清戦争の後、愛国主義が台頭して、「民法出でて、忠孝ほろぶ」という旗印を掲げて、民法草案の制定に反対する運動が出たからです。そこで、彼は、失意のうちにフランスに帰国しています。その後で、勲一等旭日大綬章を授与されています。

貴方様は、アレキサンダーは、ドイツ人として初めて叙勲されたと話しておられますが、フランス人としては、ボアソナードが高位の勲章を得ているのです。しかし、ボアソナードは、大好きな日本で、お役御免になったのは、寂しい思いをしたと想像しています。その伏線がありましたので、アレキサンダーさんは、日本政府の対応は、冷たいと感じていたはずと想像したのです。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

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グスターヴ・ボアソナード・ド・フォンタラビー(1825- 1910)

Gustave Émile Boissonade de Fontarabie

ランスの法学者、教育者。 日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任

アレクサンダー・フォン・シーボルト(1846 – 1911)

Alexander George Gustav von Siebold、、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男で、幕末に在日英国公使館の通訳を務めた後、明治政府にお雇い外国人として40年間雇用された。

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1879-1886再閲民法草案(さいえつ みんぽう そうあん)

日本政府法制顧問のフランス人法学家ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらが、1879年から1886年ごろまでに起草した日本の民法草案のひとつ。 1890年に公布された旧民法(明治23年法律第28号及び第98号、財産編・財産取得編・債権担保編 …

日本近代法の父|神奈川県弁護士会

https://www.kanaben.or.jp › profile › column › 2015 › 10 › post-82.html

ボアソナードが起草した旧刑法と治罪法については,当時の日本で実際に施行されました。なお,ボアソナードが来日した頃には,日本ではまだ,時代劇に出てくるような凄惨な拷問が行われていました。ボアソナードは拷問の現場を …

ギュスターヴ・エミール・ボアソナード・ド・フォンタラビーという人物をご存じでしょうか。歴史の教科書には単に「ボアソナード」と紹介されているかもしれません。

ボアソナードはフランスの法学者で,明治時代に日本政府が招聘したいわゆる「お雇い外国人」の一人です。彼は1873年に来日し,司法省法学校のほか,様々な学校(現在の東京大学,明治大学,法政大学など)で教育をしました。当時の講義は「性法講義」という名称で現在に残されています。「性法」とは聞き慣れない言葉ですが,現在でいう「自然法」のことです。この「性法講義」は,国立国会図書館デジタルコレクションで簡単に閲覧できます(筆者が学生時代に論文を書いた頃は大学の図書館にこもって読むしか方法がありませんでした)。

151001_ph.jpg

性法講義表紙
国立国会図書館ウェブサイトから転載)

また,ボアソナードは,日本の近代法制定に関する多大な貢献から,日本近代法の父とも呼ばれています。

明治初期の日本は,列強と不平等条約を締結しており,その改正交渉のために,近代法を整備することが喫緊の課題でした。このため,若い役人をヨーロッパに留学させたり,ボアソナードのようなお雇い外国人を招聘したりして,大急ぎで法典の編纂を行っていたのです。ボアソナードは,法典編纂の中心人物として,旧刑法,治罪法(現在でいう刑事訴訟法),旧民法の起草をしました。

ボアソナードが起草した旧刑法と治罪法については,当時の日本で実際に施行されました。なお,ボアソナードが来日した頃には,日本ではまだ,時代劇に出てくるような凄惨な拷問が行われていました。ボアソナードは拷問の現場を目撃し,涙を流して強く拷問の廃止を訴えたそうです(その甲斐もあり拷問は廃止されましたが,100年以上が経過した近年でも捜査機関による不適切な取調べが行われることがあるのは,極めて残念なことです)。このように,刑事法に関しては,ボアソナードの努力は日の目を見ることになりました。

しかし,民事法に関しては,そうではありませんでした。ボアソナードが編纂した旧民法は,日本には合わないとの意見が出され,国を挙げての議論となった結果,施行されずに終わったのです(民法典論争)。この民法典論争では,反対派の学者から「民法出でて忠孝亡ぶ」という有名な意見が出されるなど,特に家族法の部分が日本の家父長制度に合致しないとして,批判がされました。

現在の日本では家父長制は廃止されていますが,昨今では夫婦別姓制度の導入についての議論があります。いつの時代においても,家族制度については様々な価値観があり,合意形成が難しいといえます。機会があれば,古くて新しい問題として,明治期の民法典論争に思いを馳せてみるのもよいかもしれません。

執筆者情報

弁護士名

澄川  圭

事務所名

澄川法律事務所

所在地

川崎市川崎区砂子1-8-4 アサヒヤビル3階

TEL

044-276-8773

メール

web@smkw.biz

ホームページ

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