浮世絵学01/落款(北齋画号一覧)ほくさゐ_HOKU.SAI artist names, new & final theory 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]
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浮世絵学01/落款(北齋画号一覧)ほくさゐ_HOKU.SAI artist names, new & final theory 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]

2016-07-01現在

酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)   [HP: ukiyo-e.co.jp]

2013北齋改名新考(Hokusai’s Artist Names, New Theory) [ukiyo-e.co.jp]  2013.11.18[ukiyo-e.co.jp]

*See also japan-ukiyoe-museum.com

2013.11.18酒井 雁高/北齋改名新考      

酒井 雁高(酒井好古堂主人、前(さきの)日本浮世絵博物館学芸員)

まとめ、グラフ(numbers)で一覧表を作成、各年毎に刊年が確定している作品の落款変遷を入力した。

2015北齋生没表

 *北齋宗理は、1798年に、北齋(ほくさゐ)と改名、そして、また辰政(ときまさ)と改名。1804、北齋を独立号として使う。

2015-01-23(現在) ほぼ下記のような改名をしている。

   画号         期間             年齢   年数

1 春朗 SHUNROU      安永8-寛政6     1779-1794      20-35       16

2 北齋宗理 SOURI     寛政7-寛政10.08 1795-1798     36-39        4  *1798宗理改北齋(改名)

3 北齋辰政 TOKIMASA  寛政10.08-享和4  1798-1804     39-45          7    *1798宗理ぬし改名辰政

*辰政号は北齋期にも使用

4 北齋 HOKUSAI    寛政10-文化11       1798-1814     39-54         16  *1797画狂人北齋

1798宗理改北齋

5 戴斗  TAITO      文化12-文政2      1815-1819  55-59         5        *1815北齋改戴斗(改名)

6 爲一* WIITSU     文政3-天保4           1820-1833   60-74           15      *1820戴斗改爲一(改名)

7 卍    MANJI       天保5-嘉永2         1834-1849   75-90           16

*谷素外が爲一号を命名

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 北齋は世界美術史の巨匠である。浮世絵が世界的視野で見ると、文化遺産である以上、世界美術史の巨匠と称しても過言ではない。当時、平均余命は50歳余であったが、北齋は90歳、普通の人の倍ほどの齢を保っていた。長生きすること、これが第一人者になる前提条件であった。1922桑原羊次郎/北齋改名考、これは版本の奥付から、多くの異なった画号を集めた労作であったが、画号の変遷について、もう少し詳細な分析が必要であった。その後、6つの画号が定着したが、最近、7つであることが判明した。

 

北齋の生きた時代、回りの環境も良かった。春章(1726-92)、豊春(1735-1814)、重政(1739-1820)、春好、清長、哥麿、榮之、俊満らを先達として、多くの画業を学ぶことが出来た。若い絵師には、政演(1761-1816)、春英(1762-1819)、北壽(1760s-1824)、政美(1764-1824)、豊廣、豊國、春亭、北馬らがいた。多くの美術史家は、北齋を狷介、偏陋、不寛容なイメージの芸術家と考えているが、事実は全く逆である。不寛容ならば、弟子の北馬を文晁に譲り、「文晁先生の手助けをして上げなさい」とは云わない。また一枚の絵を何人かで共同して描く合作も、葛飾親爺として慕われていたからである。朗らかで、開け広げで、親しい親爺であった。つまり、文晁落款であっても、実際の附彩は北馬が担当していた。

 

1)春朗(1779-1794)は最初の画号(20-35歳)である。春章という希有の師匠についたことは、後々まで北齋にとって、人物の骨格、芝居の遠近、見得など瞬間のポーズを学びとるのに役立ったはずである。北齋は狂言(外題に「壬生狂言」など)、川柳を好んだように、滑稽、機知あふれる人物であった。最初の画号、春朗が示すように、「朗」は師・春章の齋号・旭朗井でもあるが、北齋本来の資質、「朗らか」な人物を見抜いたからに違いない。卍と同音の万字は北齋の柳名である。

 

2)北齋宗理(1795-1798)(36-39歳)、狂歌連(れん)との交流、肉筆もある。「北齋」は冠称として使われている。後、冠称の北齋が独立する。

 

3)北齋辰政(1798-1804)(39-45歳)、*辰政「ときまさ」と読む。北齋は冠称として使っいる。後、冠称の北齋が独立する。

4)北齋(ほくさゐ)(1798-1804)(39-54歳)、この前半時期に「画狂人」の齋号。この北齋号が最も長く、愛着があったが、この北齋号を吉原妓楼主人か誰かに売ったため、直後、戴斗と改名。

 

5)戴斗(たいと)(1815-1819)文化12-文政2(  55-59歳) 5年間 戴斗、即ち北斗七星また北極星(北齋が信仰していた妙見堂)を戴くの意であった。最近、作品を詳細に調査すると、北齋期から既に使用していたことが判明した。以降、1828まで見られるが、これらは再版と考えられるので注意を要する。厳密に云えば、戴斗は、1815-1819の期間である。

6)爲一(ゐいつ)(1820-1833)(60-74歳)、この時期に北齋の最高傑作「冨嶽三十六景」が続々と刊行された。もし当時の平均余命、50歳代で亡くなっていれば、これらの傑作を永遠に見ることが出来なかった。

この爲一落款、実は俳諧の宗匠、谷素外(1734-1824)が命名した節があると、筆者は考えている。なぜなら、素外は、重政(花藍の俳名)、政演、政美らの俳諧の師匠であり、また浮世絵とも関係が深かったからである。爲一筆の肉筆に、素外が賛をした作品が現存する。駆け出しの豊國を板元・泉市へ紹介したのも素外であった。

 (7)卍(まんじ)(1834-1849)(75-90歳)である。この卍期に肉筆を描いているが、真筆は極く少ない。付け立て(薄墨などで、紙本に直接、席画として描く)は別にしても、極彩色の極細の面相(めんそう)による彩色は70歳を過ぎると無理なのである。これは人間の眼が、歯と同様、身体的に極端に衰えてくるからである。

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1960チコチン日本美術館、ハイファ

1961北齋展、パリ

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1962北齋展、ニューヨーク

これらの展覧会が戦後、最初の本格的な北齋の研究、蒐集、紹介となった。

酒井藤吉(後、日本浮世絵博物館初代館長)が独力、開催したものである。

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1991.04.16 北齋図録(秋田市立千秋美術館、岐阜市歴史博物館ほか)

この時、北齋の落款は、ほぼ六つ(春朗、宗理、北齋、戴斗、爲一、卍)に区分して、掲載、解説。

宗理の後、辰政(ときまさ)落款が確認されている。

北齋の膨大な資料をすべて記録してある。

◯冨嶽三十六景の刊年(天保3.01)(1832.01)

これは落款から四期に分類できる。種彦の合巻(ごうかん)「正本製(しょうほんじたて)十二編」<(文政辛卯14年=天保2年)>奥付広告)。「富嶽(ふじ)三十六景 前北斎為一翁画 藍摺一枚、一枚ニ一景ツヽ追々出版 此繪は富士のかたちの、その所により異なる事を示す。或は七里ヶ濱にて見るかたち、又は佃嶋より眺める景など、総て、一やうならざるを著し、山水を習う者に便す。此ごとく、追々、彫刻すれば、猶百にも、あまるべし。三十六に限るにあらず。」。広告の前年(文政13年)に発刊されている。翌文政14年「千代良著聞集第一集」にも引き継がれている(鈴木重三氏指摘)。文政131210日改元(この12月は大の月、30日)。改元した天保元年(1830)は、21日しか無かった。

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*冨嶽三十六景の刊年補(2013.11.07)

日本浮世絵博物館の佐藤悟教授(実践女子大学)は、過日(2013.11.17)、豊國2/名勝八景が天保31832)に発刊されたと発表。これは冨士山で断食を行い入定(にゅうじょう)した、食行身禄(じきぎょう みろく)(1671-1733)の100回忌にあたるからである。これまでの私の研究とも、ぴったりと符号している。天保3年正月に発刊されたということは、前年の天保21831)、改元の夏ごろから、豊國2/名勝八景を含めて、爲一/冨嶽三十六景が版下、彫刻、摺刷が準備されていたことになる。

A 落款:北齋改爲一筆 刊年は、文政13年正月(1830)、つまり天保元年(1830.12.10-12.30)である。10

B 落款:前北齋爲一筆 天保21831)本図を含め10枚が、天保2年(1831)に出版された(種彦「正本製」(しょうほんじたて)の奥付広告) *筆の最終画が右に撥ねる *前北齋 「さきの」と読む。前(さきの)太政大臣などと同様。

C 落款:前北齋ゐ一筆 天保3183216

D 落款:前北齋ゐ一筆 天保41833)墨摺 10枚。ABCは輪郭線は藍摺。

*一般に正月に出版されるので、前年の暮れまでに製作(彫、摺)されていた。恐らく数ヶ月前より、着手していたと思われる。

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2014.06.20

これ(70歳過ぎての彩色)については個人差があり、例外もあるが、暁齋の祖々孫・河鍋楠美先生の貴重な御意見から、暗示を受けた。まして当時は、正確に検眼し、矯正した眼鏡など望むべくもない。ミケランジェロ(1475-1564)を引用するまでもなく、ミケランジェロ一人では、巨大なシスティナ礼拝堂の天井絵を描くことは出来なかった。工房など、何人かが共同して作業しなければ、完遂できない。北齋工房では、出戻りの娘、榮(ゑい)、應爲(おいゐ)(1800s−1860s)が精緻な色彩を担当して、手伝っていたに違いない。これは1833英泉/无名翁随筆でも、下記のように書かれていて、明らかである。

「女子榮女(割書)畫ヲ善ス。父ニ隨テ今專畫師ヲナス。名手ナリ。」

*父(北齋爲一)ニ隨テ、今專畫師ヲナス。名手ナリ。

随(したがい)ての意は、父の指示で、精緻な附彩を担当したということになる。

[1833英泉/无名翁随筆]

[1907市島謙吉/燕石十種2-223b。國書刊行会]

[1979森・野間・朝倉/燕石十種3-310c。中央公論社]

○葛飾爲一(割書)明和ノ生レ、寛政ヨリ享和、文化、文政、天保ノ今ニ至ル

俗稱 幼名時太郎、後、鐡二郎 居、始、本所横網町、數十ヶ所ニ轉居ス。今淺草寺前ニ住ス

姓氏   江戸本所ノ産也

   [號]數號アリ、改名、左ニ記ス

 始めは業を勝川春章に受く。勝川春朗と畫名す。故ありて破門せられ、叢春朗と云り。古俵屋宗理の跡を續で、二代目菱川宗理となり。其比、畫風をかへて(宗理ノ頃ハ狂歌ノ摺物多シ。錦畫ハ、カゝズ)。一派をなさず(堤等琳孫二ノ風ヲ慕フ)。亦門人宗二に宗理を譲り(三代目宗理トス)。名を家元へ歸せり。于時、寛政戊午の末年、爰に至り一派の畫風を立て北齋辰政雷斗と改む(一説、北辰妙見ヲ信ズ。故ニ北齋ト改シト云。其頃ハ東都ニ明畫ノ風、大イニ行レ、畫心有モノハ唐畫ヲ學ブ事、專ラ流行ス。俗ニ從ヒテ畫風ヲ立シハ世ニ出ルノ時ナリ。雷斗ノ畫名ハ重信ニユツル)。北齋流と號し、明畫の筆法を以て浮世繪をなす。古今唐畫の筆意を以て畫を工夫せしは、北翁を以、開祖とす。爰に於て世上の畫家(俗ニ云、本畫師)其畫風を奇として世俗に至る迄、大にもてはやせり。一時に行れて門人多く、高名の妙手となれり。從來、書を讀み學才あれば、戯作の繪双紙多く、草双紙の畫作を板行す。作名を時太郎可候と云り(叢春朗ノ頃ハ役者ノ錦繪を出せり。北齋ニ至リテ、錦畫ノ板下ヲ畫カズ。狂言、摺物畫ヲ多クカケリ。錦畫風アラヌヲ以テ、コトゴトク北齋ノ畫風ヲ用ユ。摺テ奇功ナリシ。

△畫狂人ノ號ハ門人北黄ニ譲ル。北黄ハ板下ヲカゝズ。專ら畫狂人葛飾北齋と畫名して雷鳴す。畫風、錦畫、草双紙等の尋常にあらず。繍像讀本の挿畫を多くかきて世に行れ繪入讀本、此人より大いにひらけり(此頃、畫入讀本、世に流行す。畫法、草双紙ニ似ヨラヌヲ以テ貴トス。亦、時ニアヘリ。讀本畫トテ別ニス。杏花園藏書、浮世繪類考ニ云、北齋宗理ハ狂言摺物ノ畫ニ名高シ。淺草ニ住ス。スベテ摺物畫ハ錦畫ニ似サルヲ貴トスト云)。京師、大坂より雷名を慕ひ、門人多く學ぶ者有し故、尾州名古屋を始として京大坂に至れども必覿する畫家絶てなし。板刻の密畫に妙を得て當世に獨歩す。數萬部の刊本、枚擧すべからず。漫畫と題して畫手本を發市す。大に世に行る。數篇を出せり(始、板本江戸麹町角丸屋甚助なりしが、故有て後、尾張名古屋永樂屋東四郎藏板となれり)再名を門人に譲りて錦袋舎戴斗と改たり。前北齋戴斗と云(二代目北齋は本所ノ産ナリシガ後、吉原仲ノ町龜屋ト云茶屋ナリ△兩國回向院ニテ大畫錦袋ヲカケリ。錦袋舎、名弘メ畫會アリ。大畫ハ十六間四方、十八間四方、名古屋ニテハ釋迦出山ノ圖ヲカケリ)。是をも文化の末、門人北泉に譲り與へて前北齋爲一と改名す。門人に臨本を與ふる遑あらず。畫手本を是が爲に板刻して數十冊を世に行しむ。生涯の面目は畫風、公聽に達して御成先に於て席畫上覧度々あり。稀代の畫法、妙手と云べし。

 板刻畫手本標目

  北齋漫畫 (割書)自初編、至十三編 櫛□雛形

  戴斗畫譜 地文雛形

  北齋畫鏡 畫本獨稽古

  同 畫叢 畫本早引

  一筆畫譜 三体畫譜

  爲一畫譜 北齋寫眞畫譜

 畫手本數部枚擧すべからず。僅に其一、二を爰にしるすのみ。世以て知る處なり。委くは別記に譲る。

 葛飾爲一  (割書)二代目・北齋  (割書)二代目・戴斗(割書)門人

 女子(割書)門人柳川重信雷斗ノ妻、早世、男アリ。爲一實孫也。

 女子(割書)他ヘ嫁ス。畫工ニアラズ。早世御鏡御用ノ家ニ嫁ス。

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 女子榮女(割書)畫ヲ善ス。父ニ隨テ今專畫師ヲナス。名手ナリ。


 辰政ト云シ頃ノ門人

 辰齋    雷斗(割書)柳川重信ト云、別記。 雷洲(割書)青山ニ住ス。ヨミ本アリ。銅板ノ紅毛畫ヲヨクス。

 北齋ト號シテノ門人

 北馬(割書)狂歌摺物多シ。別記アリ。畫入ヨミ本數十冊ヲカケリ。後一家ノ畫風ヲナス。蹄齋ト云、下谷三スヂ町ニ住ス。

 (割書)昇亭・北壽(割書)兩國ヤゲンボリニ住ス。錦繪山水ノ遠景多シ。

 (割書)拱齋・北溪(割書)別記アリ。赤坂ニ住ス。スリ物[摺物]、ヨミ本多シ。

 北岱(割書)淺草ニ住ス。スリ物[摺物]、ヨミ本多シ。

 北鵞(割書)スリ物[摺物]多シ、ヨミ本アリ。

 (割書)蘭齋・北嵩(割書)本郷ニ住ス。ヨミ本草双紙多シ。後、唐畫師トナル。

 (割書)東南西・北雲(割書)大工久五郎トアリ。スリ物[摺物]、錦畫、一、二種アリ。畫ホンアリ。

 (割書)戴岳・北泉(割書)別記ス。ヨミ本、畫本多シ。

 北(欠)(割書)大坂ノ人、畫譜アリ。

 (割書)斗圖樓・墨僊(割書)名古屋ノ産、畫本ヲ出ス。

 北洲(割書)大坂ノ産、錦畫、ヨミ本アリ。

 其他數百人、板刻の畫をかゝざるものは爰に載せず。しかれども僅に刻本を畫し人は洩たるものあるべし(北齋ハ俳諧ヲ好ミ川柳、狂句ヲヨクス)

 傳に曰、爲一翁は曲畫を善す(升、玉子、徳利、筥、スベテ器財ニ墨ヲツケテ畫ヲナス。左筆モ妙ナリ下オリ上ヘ書キ上ゲル逆畫ヲカケリ。中ニモ爪ニテ墨ヲスクヒ、カク畫ハスグレテ妙也。筆ニテ畫タル如シ。畫ク處ヲミザレバ其實ヲシルベカラズ。△刻本ノ春畫ヲヨクカケリ。一派ノ風アリテ情深シ)彩色に一家の工風をこらして一派の妙を極めたり。總て総身に畫法充満したる人にて一點の戯墨も畫をなさずと云事なし。稀代の名人なり。倭漢の畫法に委し骨法自ら宋明の筆意ありて尋常の畫風にひとしからず。眞を寫すに一家の筆法畫體悉く異りといへども能其眞に似たり(狩野流ニテモ似テ似ザルヲ畫法ノ第一トス。畫中不全シテ畫ヲナスヲ似テ善トス)自ら云、數年諸流の畫家に入骨法を得て一派の筆法畫道の業に於て筆をこゝろみ得ずとせざる事はなしと云り。香具師の看板畫より戯場操の看板、油畫、蘭畫に至る迄、往々新規の工風を畫き刻本の細密定規引きの奇功なる一家の畫法を起せしは尤妙なり。他郷に至るも畫者、皆門に入て業を學ぶ。京師、浪花は悉く翁の畫風を學びて名を改ずといへども門弟にならぬはなし(爲一翁、轉宅スル事、一癖アリ。數十ヶ所ニ住ヲカヘル)浪花發市の繪本を見て世にしるところなり。紅毛よりも畫を需に應じて二、三年の間、數百枚を送りしかば蘭人も大いに珍重す。故有て是を禁ぜられたり。天保の今に至るまで六十餘歳、筆法少も衰へず。いよいよ老年に及び筆に潤あり。近年錦畫を多く出せり(諸國の山水、花鳥盡し、三十六富士、百鬼夜行、琉球八景、瀧盡し)肉筆彩色は他に勝れて見事なり。珍敷畫法多く、世にしるところなり。別に爲一翁が畫傳を誌す。委しくは其書を見るべし。

1931井上和雄/浮世繪師傳

ここに應爲(おうゐ)の伝記が書かれている。


應爲

【生】【歿】【畫系】北齋の女 【作畫期】文化-弘化

 葛飾を稱す、俗稱榮、常に父の傍らにありてオ-イオ-イと呼

ばれしより其の發音に因て應爲と號せしなりと云ふ、初め南

澤等明(堤等琳門人)の妻となりしが、睦からずして離別さ

れ再び他に嫁せず、安政四年の夏、家を出でたる儘行く所を

知らず、或は加賀金澤に赴きて彼の地にて歿すともいへり、

歿年月は明かならざれども、行年六十七と傳へらる。

 畫風よく父に似たるが、美人畫に最も得意とせしものゝ如く、

殊に父の助手となりて描きし春畫は、その妙技實に驚くばか

りのものあり。また肉筆にて浮繪風に畫きし「吉原青樓夜景

の圖」あり、頗る異彩に富みしものなり。

 高井蘭山の作『女重寶記』(弘化四年版)及び、山本山主人著

『煎茶手引の種』(嘉永元年版)の挿畫を描く。


(雁註)「父の助手となり云々」は、英泉の无名翁随筆から暗示を受けたものであろうか。

「加賀金澤云々」は、井上の誤認である。相州金澤と取り違えたと思われる。

「行年六十七」の典拠は不明である。

浮繪風の吉原青楼…、これは当時、図録などに掲載された記事を追加したものであるが、江戸期に明治期の

油絵風の陰影を描くことはあり得ない。昭和初期(1920s)に偽作されたものである。その明確な理由は、他の美術館所蔵作品も同様であるが、その出自経歴が総て、昭和期のものである。

 

卍期の肉筆を鑑定するには、北齋自身になって考える必要がある。それには、真摯に浮世絵学を丹念に学ぶしか方法はない。

本年、著名なカナダの作家、キャサリン・ゴヴィエー氏が永年の調査の結果、北齋肉筆のゴーストライター(實ハ、ブラッシャー)として應爲(おうゐ)を正面から取り上げて、 「北齋と應爲」(二冊)を発刊した。この表紙の肉筆(三曲合奏)のみが、應爲の数少ない、真筆(應ゐ酔女筆[印])である。

浮世絵を学問の対象とする学際的分野、つまり歴史、文学、美術、芸能、文化など、幅広い知識と同時に、北齋に同化できるよう、感じる取る感性を養わなければならない。

 

 つまり春朗期は黄表紙(きびょうし)、細絵(ほそえ)。北齋宗理および北齋辰政期は摺物(狂歌、配り物)。北齋期は読本(よみほん)合巻(ごうかん)の挿絵、戴斗期は絵手本(漫画など弟子の教育)、爲一期は浮世絵(一枚絵)、卍期は肉筆(にくひつ)と、絶えず前進し、努力の人であったことが分かる。しかも徹底した職人であった。ここで誤解のないように、「職人」という語について述べる。明治以後、官尊民卑の風潮が蔓延り、職人を見下すようになったが、江戸時代の職人は強い自尊心と矜持(きょうじ)をもっていた、いわばその道の専門家であった。数千枚のデッサン(挿絵)を描いたからこそ、職人の頭となり、文字通り頭角を現した。後に浮世絵の代表作が完成したのである。しかし浮世絵は色摺りであるから、墨摺りの版本と違い、費用が掛かる。板元は売れなければ、途中でも打ち切る。これは北齋のせいではない。美人画は吉原、ファッション、役者画は芝居など後ろ盾があった。しかし、スポンサーのなかった景色(けいしょく)は売れなかったという厳然たる事実があった。

 

 浮世絵は一枚絵(版画)、版本(冊子)、肉筆(絵の具で描く)がある。その大半95%は版画である。4%が版本、1%が肉筆である。つまり肉筆は浮世絵学の基礎を学んでいなければ、土台、無理である。真偽の区別が付かなければ無意味である。大論文を執筆しても、偽筆ならば、根底から崩れてしまうからである。今回、一枚絵の代表作(冨嶽三十六景など)を中心にまとめた。また、その種本と思われる版本も取り上げた。版本は、墨摺りで華麗な色彩という訳にはいかず、図書館が担当することが多い。しかし、デッサンを研究するには、版本に如(し)くはない。他にも多くの一枚絵、その他を多数を掲載して、研究成果を書きたかったが、紙数の関係で止むなく割愛した。しかし類書にない浮世絵専門の博物館として編集したつもりである。誤謬などあれば、ご指摘いただきたい。

*出典、資料など詳細は、北齋図録(酒井雁高、日本浮世絵博物館・日本浮世絵学会編)を参照。

その後、北齋辰政を画号として追加した。

酒井 雁高(がんこう) 

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