浮世絵学(文化藝術懇話会*)(64)1971古田武彦/邪馬台国はなかった 九州王朝* 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂)http://www.ukiyo-e.co.jp/36642
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酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人)   http://www.ukiyo-e.co.jp
SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser of ukiyo-e
Sakai Kohkodou Gallery, the oldest gallery of ukiyo-e in Japan

時:2019-03-29(金)(*木曜が予約できず、金曜日です)予約完了しました。

所:淡路町ワテラス2011号室(パーティルーム)

人:1971古田武彦(1926 – 2015)/「邪馬台国」はなかった

◎ここ数回にわたり、古田武彦先生の古代史(九州王朝)に関する著書を一緒に読んでみよう。

1971古田武彦/「邪馬台(ヤマタイ)国」はなかった、あったのは「邪馬壹(ヤマイチ)國」。

(雁註)当時の読みは正確には分かりませんが、地名は、ヤマ、ヤメ。古代支那王朝の意味付けで、「イ(チ)」は、「イ(ヰ)」でしょうか。委奴は委(ヰ)の人々の意。

当時の支那漢籍、「白髪三千丈」などを例に、これまで信を置けないとする風潮があったが、西暦という「基準尺」で暦法、距離、系譜など、その前後関係を検証すると、驚くほど詳細、緻密なことが理解できる。今後とも、基準尺で、「生没年」「事件年」などを確認することが最重要である。神功皇后(?-?)と卑弥呼(-238-247-)が同一人物にならない。しかも神功皇后は実在の根拠が乏しく、伝承上の人物と考えられる。

古田先生の文庫本もありますが、これは是非、単行本を入手して、お読み下さい。教科書や、これまでの学校教育での古代史を根底から覆す内容の名著です。

(雁註)三国志魏志(紹熙本)(百衲本)(宏業書局、縮印)を古書で入手したので、添付します。大きい文字が本文、小さい文字は注。

1972陳寿/三國志/紹熙本、(裴松之・注)、宏業書局

 

 

 

 

(雁註)通常の三国志の訳註では、p.858の「…二十匹」まで。評曰、魏略、以下は解説なし。

 

290s陳寿(233-297)/三国志魏志(紹熙本)(百衲本)に「邪馬壹」(ヤマイチ)と刻記されている。

432c范曄( 398-445)/後漢書、「邪馬臺國」。「臺」(ダイ)と誤認、誤記をした。

*998-1003(咸平本カンペイ本)*紹熙本は咸平本の重刻

(雁註)古田先生、北宋咸平六年の牒(チョウ)を紹介しておられるが、「中書門下 牒」「蜀志」「牒奉」、三国志全文検索でも表示されない。牒は正規の官文書。

*1131- 1162(紹興ショウコウ本)、紹熙本以前に刊行されているが、恣意的に改定されて、信頼できない。

*1190-1194(紹熙ショウキ本)、張元齋(1867-1957)らが、写本、版本など諸本を集めて、慎重に校訂し、最善の底本を刊行した。現在のところ、三国志に関しては、この紹熙本が陳寿の自筆本に最も近い最善本である。

*紹熙(ショウキ)本 日本の皇室(現在、宮内庁書陵部)が所蔵。もう一本は、中国の個人所蔵である。これは咸平本の重刻。咸平(かんぺい)は北宋998-1003。従って、紹興本よりも古い陳寿の自筆本(もっとも、これは無い)と同等の信頼おける文面。

*三国志 全文検索 ここに必要な単語を入力すれば、すぐに検索できる。

http://www.seisaku.bz/search/search.php?word=%E5%85%B6%E9%A4%98%E6%97%81&mode=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&taisho=honbun

三国志以前の史書、

1 BC91c司馬遷(BC145c-BC86c)/史記(しき)

2 80c班固(32-92)/漢書(かんじょ)

3 280c陳寿(233-297)/三国志(さんごくし)(紹熙本) *後漢書の成立は、三国志以後

p.854    陳寿/三国志、紹熙本    邪馬壹国

赤線は前の持ち主が書き込んだもの。やはり、この邪馬壹國を丹念に調べている。赤のボールペンのため、消すことができなかった。コピーを取り、書き込むようにするのが愛書家の義務である。

古田先生の「邪馬台国はなかった」は、日本古代史の画期的な名著である。邪馬台国論争を巻き起こしたと言っても過言ではない。

古田先生は、親鸞の研究、親鸞の自筆本の「巒」を最初の自筆と確定し、「鸞」は後のものと判定した。

邪馬台国の研究でも同様、三國志の魏志東夷倭人傳は、邪馬「壹」となっていることを確定した。

邪馬台また邪馬臺は、後代の改定(432c范曄/後漢書)であると確認。もともと「台」と「臺」は別字である。もっとも范曄は、魏の臣下としての卑弥呼の王朝として邪馬「臺」と表したとも考えられる。しかも、邪馬壹が「ヤマウィ」の訛り云々としていが、「臺(ダイ)」は「ウィ(ヰ)」と読むことはできない。

・邪馬壹の文字が示すように邪、馬、共に卑字、特に馬の字は(馬に悪いが)悪いもののたとえ。

・馬の呉音はマ、メ。すると当時、倭(ゐ)の人が何と発音したのか分からないが、邪馬壹國、ヤメと発音していた可能性もある。すると、現在の八女(やめ)か。岩戸山古墳がある。

・陳寿/三国志、紹熙(ショウキ)本によると。*「三国志 全文検索」で簡単に表示される

又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戶、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戶。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戶。東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。南至投馬國、水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戶。南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戶。自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里。

・新井白石は、邪馬「臺」國(臺は誤認、誤記)は上記に記されているよう、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の北九州であると述べている。最初、奈良近畿説、後に、北九州説へ。

・「狗邪韓國–邪馬壹國」間の九國。

・自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。

・次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。

・此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國、萬二千餘里。

(雁註)「…遠絶、不可得詳。」の國々は、此処で切れる。そして「次有斯馬國… 。」つまり以下の国々は邪馬壹國内で、実際に行った國々となる。そのため、「好古都國」(はかた)が記録されている。当時の「國」の基本的概念を再認識する必要がある。國と書かれているが、現在、使われている國の意味ではなく、かなり小さい県(あたが)以下の町(マチ)の意で國を使っている。この意味で、「好古都國」(ハカタ。マチ)と記されているのである。

・魏朝の三国志の頃、一番大きい単位は國(くに)、州(しゅう、くに)、郡(こおり)、県(あがた)、家、戸。しかし、これらの「國」は、現在の市、町、村に相当する。郡県制のように、古代は郡が大きく、県は小さい。

・これらの國々の内、「好古都國」は「はかた」と中国人が発音していた。すると、これらの町、村などは殆ど、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後(福岡県、大分県、佐賀県)になる。邪馬國という地名もある。つまり、

・邪馬(ヤメ、八女)が首都か。太宰府の成立は、七世紀後半。当時の中心地区は邪馬(ヤメ、八女)。

p.855    陳寿/三国志、紹熙本  東冶之東 *古田先生、東治の誤記

(雁註)古田先生、原本「東治」と書かれているが、本書「東冶」となっている。これは、どのような事情があったのか不明。

陳寿/三国志、紹熙本  卑彌呼(ヒミカ)

p.856

(雁註)赤ペンは、前の持ち主が引いている。ペンのため、消す事ができない。

卑彌呼(?-247c)、これまでヒミコと読んでいたが、古田先生は「呼」は「カ」、ヒメカではないかと。「狗」(コ)と区別している。

三国志30 魏書30 烏丸鮮卑東夷傳第三十

立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞。女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國….

(雁註)237景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、…鬼道を事(つかえる)。能(よ)衆(しゅう)を惑わす。

(雁註)卑弥呼は、狗奴國の男子の王・卑弥弓呼と不和であり、戦闘となった云々。この男子王の名前・「卑弥弓呼」は、これまで、「狗古智卑呼」と何のような関わりあいがあるのか不明。

247正始八年、…卑彌呼以死。

(雁註)この戦闘で卑彌呼は戦死したか。

1971古田武彦(1926 – 2015)/「邪馬台国」はなかった、朝日新聞社

古田先生は、犀利、精密な論証、分析で、誰でも理解できる日本列島の古代を明らかにした。

もっとも、この結論に行き着くために苦難、苦闘の連続であったと。

つまり九州王朝は、662白村江(はくすきのえ、朝鮮半島)の前後から次第に勢力を弱めていった。これ以前の記録は、風土記を含めて、すべて九州王朝の歴史である。

(雁註)表紙は、福岡県早良町白塔出土の銅戈(弥生後期、三世紀)に鋳でされている当時の倭人(ゐひと)の顔。拡大して、銅版画にしたもの。委面(鯨面、異面)の刺青が描かれている。

(雁註)1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志 全3/世界古典文学全集。筑摩書房

p.305  邪馬壱[やまたい]と書かれていたので、ガッカリ。これは原文と違っている。原文に振りがねを付ける場合、必ず括弧をすることが原則であるが、勝手にフリガナを振っている。壱(壹)を「たい」とは読まないし、読めない。

原文は「邪馬壹」である。後漢書は、邪馬「壹」を邪馬「臺」と改定。

p.306 1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志

好古都国[こうこつ]と振仮名があるが、これは「はかた」と読む。中国人が、そのように発音していた。伊都國まで来て、近くの博多を知らなかったとは考えられない。

p.306  1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志

会稽や東冶[とうや]…。。ここでは原文「東冶」となっていて、古田先生と違っている。

p.307  1982今鷹 真+小南一郎+井波律子(訳)/三国志

景初二年(237)…   これは原文通りである。

しかし、魚豢*(きょかん)/魏略、評などの全文も書き下してあり、参考になる。

*ふりがな、「きょかん」とあるものもあり、日本語の読みは分からない。

何か御気付きの点があれば御教示ください。
酒井 雁高(がんこう) 浮世絵・酒井好古堂主人 学芸員 curator
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