浮世絵学*3/ukiyo-e oldest gallery in Japan: 1941小島烏水(1873-1948)/浮世絵類考(序文)[浮世絵学・複製] 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]
ホーム > 浮世絵学*3/ukiyo-e oldest gallery in Japan: 1941小島烏水(1873-1948)/浮世絵類考(序文)[浮世絵学・複製] 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]

浮世絵学*3/ukiyo-e oldest gallery in Japan: 1941小島烏水(1873-1948)/浮世絵類考(序文)[浮世絵学・複製] 酒井雁高(浮世絵・酒井好古堂主人) [HP: ukiyo-e.co.jp]

2017-6-20現在
酒井雁高 浮世絵・酒井好古堂   [HP: ukiyo-e.co.jp]
酒井好古堂主人 SAKAI_gankow,  curator,  professional adviser

[浮世絵学・複製] *Reproduction by traditional handmade

[浮世絵学] ほかの基本的な浮世絵学・情報も表示されます。

[浮世絵学**][浮世絵学*1][浮世絵学*2]…

[浮世絵学01][浮世絵学02][浮世絵学03]…

ご来店を心より、お待ちしております。

[浮世絵学・複製] *ここのサイトに複製(木版、カラーシート、一筆箋など)の画像があります。御覧下さい。

*[浮世絵学・複製]で検索して下さい。

その他、各種の検索で、多岐多様の浮世絵学に関する情報を表示してございます。

[浮世絵学**][浮世絵学*1][浮世絵学*2][浮世絵学*3]…

[浮世絵学01][浮世絵学02][浮世絵学03][浮世絵学04]…

 

IMG_0366 - バージョン 6

 

御電話いただければ、御迷惑を掛けません。

酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator

浮世絵・酒井好古堂   [HP: ukiyo-e.co.jp]

文化藝術話会    浮世絵鑑定家

100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14

電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

E-mail: gankow@gmail.com

◯書廊(しょろう)の琅玕堂(ろうかんどう)から暗示を受けて、画廊・酒井好古堂を神田淡路町に創設。
高村光太郎*(1883-1956)の書廊(しょろう)・琅玕堂(ろうかんどう)に啓発されて、曽祖父・酒井藤兵衛(1844-1911)、祖父・酒井庄吉(1878-1942)らが日本で初めての浮世絵画廊(がろう)・酒井好古堂を明治期の一等地、神田淡路町に創設した。その経緯について、父・酒井藤吉(1915-1993)は三回にわって書き記している。詳細について、神田学会の下記のサイトを御覧いただきたい。父は、そのミニコミ誌三冊を浮世絵博物館の書棚に、大事に保管していたのを覚えている。明治初期は漢籍が主流で、多くの中国人(当時、シナ人)が亡命して在日していたことが分かる。一般人では来日が無理で、医師とか特別な人物に限られていた。このため、書跡、漢籍が主流であった。

rn018-10-01-01 - バージョン 3

琅玕堂(ろうかんどう)

高村光太郎が開設した日本初の書廊

rn018-10-01-01 - バージョン 2

酒井好古堂、日本で初の画廊を東京神田淡路町に開設。

◯1941小島烏水/浮世絵類考
1941小島烏水/浮世絵類考/序

img_20161130_0003-%e3%83%8f%e3%82%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%82%99%e3%83%a7%e3%83%b3-2(本図は「よみがえる浮世絵」から転載しました)

[1941大曲駒村/浮世繪類考0a/01-06]

浮世繪類考  全              小 島 烏 水  識[大曲 駒村]

大正四年夏、余は酒井好古堂主人と相咨り、雜誌「浮世繪」を同堂より發行し、余自ら暫く編輯の任に當りたることあり。當時「浮世繪」に寄稿を賜はりたる故人今人は、殆ど斯道の権威を網羅したりと言ふも過ぎたりとは考へず、殊に故人に就いて言へば、大槻如電、坪内逍遥、林若樹、橋口五葉、内藤鳴雪、淡島寒月、朝倉無聲、岡野知十、武岡豊太、野崎左文、關根默庵、星野朝陽、油井夫山、山中共古等の諸先生を舉ぐべく、微々たる薄名の小雜誌としては、空前の光輝として、出版と編輯に携はりたる者の、感謝に堪へざるところなりき。就中林若樹氏は、最も多く寄稿せられたるが、さすがに珍藏の資料豊富なりしためか、今に及んで忘れ得ざる名篇尠からず、その最も重要なるものを選べば「浮世繪類考の底本を作れ」の一文と爲す。
要旨を摘記すれば、從來浮世繪を研究するに際し、畫工の傳記、系統、批判等に亘れる唯一の參考書たりし浮世繪類考の著者に就いて二説あり。即ち笹屋新七(邦教)なる者が、類考の本文を撰し、附録として同人の始系を追加せりと言ふ説と、類考の本文は、大田蜀山の原撰にして、附録の浮世繪始系のみが、笹屋新七の編となす説と、並び行はる。同氏家藏の加藤曳尾庵が手抄せし浮世繪類考の跋文に依れば、蜀山人藏本を借摸したるものにて、類考が蜀山人の原撰なることを明らかにし、尚ほ最初の浮世繪類考より、京傳の追考、三馬の補記、英泉の續浮世繪類考(私註、本書は无名翁随筆の別名あり、明治四十年刊行の、燕石十種第二編に収む)齋藤月岑の増補浮世繪類考(私註、明治二十四年刊行、温知叢書第四編に収む)龍田舎秋錦の新増補浮世繪類考(私註、明治二十二年に、單行本として刊行せらる)に至る迄の間には、各人の補記混淆して、其間に脱文あり、誤記あり、彼此錯雜して判別に苦しむ。例へば、前述曳尾庵手寫本を以て、新増補浮世繪類考と比較するに、後者は誤謬多く一筆齋文調を、狂歌師岸文笑別名頭の光と混合し、寫樂の條には、他の流布本が、舉つて寫樂の行はれざりし所以を、俳優の眞實相を描かんと有らぬさまに寫したるに歸因せるに對し、寫樂筆力の雅趣愛すべきあるを認めたる、鑒要なる一行の追加ある如き相違あり、差し當り、從來唯一の引用書とせられたる浮世繪類考を、その原撰、曳尾庵の補記、京傳の追考、三馬補記等及びその他の新出本に至るまで、各本の底本を作ること、最も必要なりと信じ、茲に同好者に檄すと言ふにあり。
此一文は、洵に故人の卓見にして、類考の原撰者笹屋邦教説を打破し、大田蜀山と確定したる業蹟は、必ずしも故人の説を以て、最初のものとなすを得ざれども、底本問題の提唱は、浮世繪研究者の間に、大なる關心を喚起して、爾來今日に至るまで、浮世繪類考の善本を獲ることは、研究者間の忽せにせざる所なり。
偶ま、昭和七年に、島田筑波氏校訂浮世繪類考曳尾庵本が、孚水畫房より翻刻せられしも、本書は三田村鳶魚氏が、昭和二年九月一日の午後、林若樹氏の藏本を借り、即夜寫畢せられたるものに依りたるものにして、三田村氏の寫本は、時間の制限上、充分校合の暇無かりしが如く、往々誤寫ある旨を、校訂者自らが指摘せり。即ちこの翻刻曳尾庵本は、原書よりの直接謄寫に非ざる上に、他の類考本を參考して聚合したるが故に、假令曳尾庵本の寫本を主としたるに相違なしとするも、是を以て直ちに曳尾庵本の正寫と言ふを得ず。
次に、善本として酉山堂本なるもの、世に傳へらる。狩野亨吉博士、三田村鳶魚氏等の藏本なりと云ふ。余は未だその原書を閲覧せずと雖も「酉山堂浮世繪類考」と題する寫本を獲て、一見するに、これにも誤寫ありて安心ならず。例へば歌麿の住所に「久石三ノ町」とあれど、正しくは久右衛門町なるべく、又七十翁蜀山人の跋記の後に「右進産山東京傳手書本」とあれども、進産は追考の誤寫なること、言を俟たず。本書は、筆者の手蹟、美事にして、字劃も、いと明晰に、寫本としては理想に近し。且つ、上述の孚水ぶんこ浮世繪類考に、挿圖として挿入せられたる酉山堂本の一枚と對照するに筆蹟は正に同一にして、孰れが原本、孰れが寫本なるかの區別に苦しむ、即ち同一人の筆寫に出でたるものにして、無責任なる當推量の筆耕とは考へられず。換言すれば、原本通りを、忠實に寫したるものと信ぜられるだけに、酉山堂原本なるものゝ正確性に就いて、一點の疑ひなしとせず。
思ふに「浮世繪類考」の善本としては、蜀山の自筆本、或はその舊藏本に依らざる可らざるものならむが、余は未だ蜀山が、果して類考、附録、追考等の三部を纏めて、その全部又は一部を自筆したるものなりやを審らかにせず。舊藏本にしても、年月の隔たりは、その存否、又は眞贋を明白にするに惱まざるを得ず。要するに、浮世繪類考は、結局寫本に依らざるべからず。寫本なるものは、傳寫に次ぐに傳寫を以てし、その間、時代の推移に從つて増補を加へられ、粗より密に入る傾向あり。それも、正確の資料に據りたるものならば、却って嘉(よ)みすべきものならむも、あられもなき道聽塗説などを書き加へ、(例へば二代豊國が、恩師初代豊國の寡婦に入夫して、二代目の名を冐せりといふが如き、弱冠薄命の故人をして、久しく地下に冤(えん)を泣かしむ)又寫字の上にも、魯魚の誤を重ね、玉石混淆の鵺本となりたるもの、比々皆然りと言ふも過言に非ず。
余は浮世繪類考の研究者にあらず。然れども、往々古書展覧會及びその他に於て、觸目の類考寫本を入手することあり、おのづから貧弱なる一蒐集を成せり。その中、藏因の判明せるものを拾へば、曰く椎園本(椎園は、蜂屋茂橘の號なり、天保年間の人、寫本椎の實筆九十巻あり、帝國圖書館に藏せらると聞く)故角田竹冷の藏本にして「竹冷挿架」なる長方形の朱印あり、本文の鼈頭(べっとう)に、椎園の書き入れあり、跋文に言ふ、「右一本旦過■(草冠+合+廾)主人藏書を借模す、南畝翁所藏の原本を模せしもの也と主人言へり、天保五年甲午夏椎園」と。曰く野中本、跋文の後に、天保十三年壬寅五月、蘭女史寫とあり、野中完一といへる人の藏印あり。曰く仙寓庵本、天保十二年八月百樹京山方にて、藏書借受寫者也とあり、伊香保仙寓庵の藏印あり。曰く森文庫藏本、文久三癸亥季仲冬石川一正寫之とあり。曰く林忠正藏本、押印あり、序文に柳亭種彦記、跋文に「山東百樹翁が編せし類考に、おのれ、僅見聞にふれて、一ツ二ツを書加へしのみ、尚同志の補正を乞、明治十三年一月柳亭主人」とあれど、柳亭種彦の名に就いては疑惑あり、百樹翁とは京傳の弟、山東京山のことにして、京山自編の類考本ありとは考へられざれど、本文中には、新増補の採るべきものあり、一概に捨てられず。其他の諸寫本には、藏印なく、特に記すべきものなし。外に、飯島虚心の浮世繪年表あり、扉に明治二十四年十月虚心堂として、花押めきたるものあり、浮世繪年表と大書すれど、自筆なるや否やを知らず、明治の浮世繪師までを補筆す。多少の新發見あれど、誤謬なお亦存す。以上の諸寫本は、要するに天保以後のものにして、新増補本の參考としては用ふべし、浮世繪類考の底本としては推すを得ず。
最も善き底本を作る方法如何。須らく諸家愛藏の浮世繪類考善本を、翻刻又は忠實なる寫本に複製して世に弘布すべし。而して彼是對校檢討の勞を執るべし。前述の孚水ぶんこ曳尾庵本、及び寫本酉山堂本の如きは、恐らくはこの要求に應じて立てるものなるべし。
今茲に、友人大曲駒村君は、川柳研究家の第一人者にして、又浮世繪研究の先覺者なり。浮世繪類考の底本問題に潜心すること多年にして、君に愛玩の二善本あり。同君執筆の文中に述べられる如く、松平確堂公の舊藏本、及び荒尾本の二部とす。同君は、その中の松平本を選び、底本の一種として、敢然翻刻の擧に出でらる。勞多くして功少なきは、この種の刊行者が、經驗するところなれど、それをしも、忍ぶに非ざれば、研鑽の途開けざるなり、同君の勇敬すべし。
問題は、君自ら言へる如く、本書が果して底本たり得る程の善本なるや否やに在り。把つて一讀、二讀、三讀、大曲君幸ひに眼識あり、從來の諸刊行本、及び信用さるべき傳寫本の間に介在して、善本を以て呼ばるゝに躊躇せず。今のところ、何の浮世繪類公か、是れ最善本なるやを決定し能はざるに於て、最も優良なる一本なるを疑はず。
現今、浮世繪の研究大に進みたるは、曩日の談に非ず。然れども、浮世繪研究書の祖先本「類考」の底本を完成せずしては、根柢に空虚を感ずるを奈何。大曲君の、松平本を提げて立つや、宜矣(むべなり)。
昭和十三年歳末
小 島 烏 水  識

◯1984小島烏水全集 第13巻月報

1984酒井藤吉/小島烏水先生の思い出

私の父、二代目酒井好古堂酒井庄吉は、日本最初の浮世絵研究誌「浮世繪」を1915大正4年6月うより大正9年9月まで六年間にわたり、全55冊を発行いたしました。小島烏水、坪内逍遥、宮武外骨、三田村鳶魚、石井研堂、桑原羊次郎、星野朝陽、漆山天童、大槻如電、林若樹、内藤鳴雪、淡島寒月、朝倉無聲、岡野知十、武岡豊太、野崎左文、関根黙庵、油井夫山、山中共古、山下詳光、井上和雄、藤懸静也、橋口五葉、相見香雨、島田筑波、永井荷風ほか錚々たる当時の文人、研究者が執筆陣で、多くの人々の注目を集め絶賛を博しました。今は、浮世絵研究者にとって貴重な資料となっております。

私は1915大正4年3月15日、酒井庄吉の長男として生まれました。父は早速、次弟文助、三弟平造、四弟忠吉の四人兄弟で酒宴をひらいたそうです。そこに偶然にも小島烏水、宮武外骨両先生の同席を得、席上、両先生のすすめによって、雑誌「浮世繪」と「浮世繪逸品集」(月刊、全揃80枚)の発刊を決意したとのことです。

父は損得を度外視して「浮世繪」及び「浮世絵逸品集」を発刊し、当時の金で毎月300円位損をしたと云っておりました。子供心にもおぼえていますが、税務署から署員2名来て、「商売人が損するバカはないだろう」と云っておりました。いろいろ調べられ、相当高い当時の戦時利得税を取られたため、六年間余で廃刊のやむなきに至りました。父は1942昭和17年(行年65歳)死去しましたが、生前私共三兄弟(藤吉、貞助、泉三郎)に、「浮世繪」を百号まで、「逸品集」を百枚まで出版したかったとよくこぼしていました。「浮世繪」第1号には、烏水先生の「江戸の錦繪店」が巻頭をかざっています。それをみても、先生と父と深い関係があったのはよくわかります。山と藝術に七十五年の生涯をささげられた先生と、哲学的思考の持主の父庄吉とはなにか相性がよかったようです。

(以下畧)(財団法人日本浮世絵博物館理事長、酒井好古堂三代目主人)

◯財団法人日本浮世絵博物館の設立、賛同者

1982年、酒井藤吉、貞助、泉三郎の三兄弟は、多くの諸先生がたの賛同を得て、父祖の地・長野県松本市郊外に浮世絵専門の博物館を創設した。賛同者は、高橋誠一郎、森銑三、守随憲治、暉峻康隆、水野稔、川村博通ら諸先生方である。また、その後、多くの先生方は、浮世絵の蒐集・保管、研究・整理、公開・展示を目的とする博物館のために協力を惜しまなかった。その報恩に報いるため、博物館は公益性、公共性の観点から、世界各地、また国内各地にて展覧会、講演会など浮世絵の普及活動を続けている。

2012より、博物館の法令が変わり、評議員が絶大な権力を持つことになり、評議員の立場を濫用し、これまでの博物館の理事を辞任、解任に追い込んでいる。非営利法人の博物館を営利を目的とする株式会社と同列に置くこと自体、全く疑問である。佐藤悟は大森邦彦と共謀して、評議員から理事へ、そして日比谷孟俊と共謀して大森邦彦は理事から評議員へと鞍替えした。

2012.3.12、日比谷孟俊は大森邦彦らと共謀して、酒井雁高館長を辞任に追い込んだ。いわく天皇制論議はタブーであり、博物館の館長として相応しくないと1時間余にわたり、滔々と弁舌を続けた。私の議論は、学問的な見地によるもので、多くの学者、研究者の論説を踏まえたものであった。言論の自由が保証されている以上、全く問題は無かったと考えている。57AD、後漢の光武帝は、 金印(漢奴國印)を九州王朝に授与した。次いで、230s-240s卑弥呼、410s-440s倭(九州王朝)の五王、讃、珍、済、興、武が宋に貢献。528物部麁鹿火(奈良王朝)ら筑紫御井郡の磐井(九州王朝)を惨殺し、九州王朝を簒奪する。662、白村江以降、奈良王朝は九州王朝の権力を完全に掌握して成立。これらの史実は考古学の裏付けがあり、科学的に首肯できる。奈良王朝を継承しているという(途中、刺客に暗殺され、誰が継承したか甚だ心許ないが)、その明仁天皇自身が最近、退位を申し出ている。このことは天皇制自体が、皇室典範など明治以降に作られた法律でも、土台、根拠が薄弱であり、無理があることを示している。

2015.8.05佐藤悟(実践女子大学教授)は、大森邦彦と共謀し、医師の資格もないのに、酒井邦男理事長を認知症呼ばわりして、酒井邦男館長を排除して、自分が館長に就任しようと画策した。実践女子大学の教授に「あるまじき」不適切な言動である。日比谷孟俊(慶應義塾大学)は、この会合の議事録で、私文書偽造および行使の言動を行い、大学教授に「あるまじき」不適切な言動繰り返している。大森邦彦を含めて、三人とも全く公益性、公共性の高い博物館の役員として、全く不適格であり、専門家と相談して、法的措置を検討していた。大森邦彦は博物館を喰い物にし、各位を欺き、大森邦彦の市ヶ谷マンションの部屋(妻、大森康子名義)を自動引落しで不当利得を得ていた。毎月20万円、分かっているだけでも30ヶ月分、合計600万円余を詐取していた。大森邦彦、全く信用できないし、決して信用してはいけない。

2016.09、評議員の大森邦彦、日比谷孟俊らにより、酒井邦男理事長、旭道寛副理事長(1982開設以来の理事、酒井家の菩提寺生安寺、しょうあんじ住職)が解任された。直後、二人の評議員(大森邦彦、日比谷孟俊)も辞任した。理事、評議員らは、全員が新任で、全く経験のない酒井達雅、酒井浩志(達雅の次男)らが、その責任を負うこととなった。評議員の画策により、私や酒井邦男らは、全く埒外に置かれ、兄弟間の分断を計られている。

何か御気付きの点があれば、御教示ねがいます。
酒井 雁高(がんこう) 学芸員 curator
浮世絵・酒井好古堂 [HP: ukiyo-e.co.jp]
[浮世絵学]文化藝術懇話会  浮世絵鑑定家
100-0006東京都千代田区有楽町1-2-14
電話03-3591-4678 Fax03-3591-4678

 



コレクション

新着情報・新着コレクション

すべての投稿